サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 9

 誰もいない静謐なバス停を、私は黙って見凝めていました。夏至を一月も過ぎた夕暮れの空は、既に橙色を通り越して紫と群青の斑になっていました。腹痛は少し和らぎましたが、鉛のように重たい感じが消えません。一時間もここで、孤りで時間を潰さなければいけないのかと思うと、とても憂鬱でした。
 仕方なく休憩所に戻り、私は無言で壁際の硬いベンチに腰掛けました。やっと落ち着いた腹痛が急にぶり返すのが怖くて、下腹に掌を当てたまま、俯いて携帯の画面を開きました。友達からの不安げなメッセージが大量に届いていました。今更返信しても手遅れですが、悪い男に誘拐された訳じゃないことを伝えて、とりあえず安心してもらうことにしました。
「ここにいたのか」
 不意に聞き覚えのある若い男の人の声が、私の鼓膜を打ちました。顔を上げると、岩崎さんが立っていました。額や鼻の頭に薄らと汗の粒を光らせて、真っ直ぐに此方を見凝めています。私は思わず素っ頓狂な声を出して、下腹の鈍い痛みも忘れて立ち上がりました。
「岩崎さんもバスに間に合わなかったんですか」
 私の愚かな質問に、彼は手の甲で唇を擦りながら苦笑しました。
「馬鹿なこと言うなよ。お前を探してたんじゃないか」
 岩崎さんの色素の薄い瞳が、高い天井から降り注ぐ強い燈光を浴びて、榛色に燃えていました。何故か突然、心臓が熱くなり、肋骨が顫えてばらばらに砕け散ってしまいそうな気がしました。
「攫われたのかと思うだろ」
「そんな。心配性ですね」
「悪かったな。俺は悲観的な性格なんだ」
 岩崎さんは眩しそうに眼を細めて体育館の方向を見遣り、私はその整った横顔の輪郭を眼で追いました。責任感なのかな、と思いました。顧問の先生に臨時の代役を頼まれた立場で、信頼を裏切る訳にいかないから、こうしてバスに乗り遅れてまで、行方不明の後輩を探し回ってくれたのでしょうか。真面目な人だなと思いつつ、何だか少し物足りない気分になりました。
「何処に行ってたんだよ、孤りで」
「御手洗いです。御腹が痛くて」
「そうか。もう平気なのか?」
「はい」
「バスが来るまで、ここで安静にしてたらいい」
「先輩はもう帰るんですか?」
 反射的に口から飛び出した問い掛けに、岩崎さんは再び甘ったるい苦笑いを浮かべました。
「どうやって帰れって言うのさ。バスを待つしかないだろ」
「附き添ってくれるんですね」
「仕方ないさ。俺は今日、先生の代打なんだから」
 やっぱり責任感なんだと思うと、心臓に冷たい水を浴びせられたような気がして、私は黙り込んでしまいました。余計な迷惑を掛けてしまったという仄かな罪悪感もありました。
「また痛むのか」
 急に口を噤んで暗い表情になった私を見て、岩崎さんは眉間に皺を寄せて一歩だけ此方に近付いてきました。心配させてはいけないと思いながら、同時に、もっと近付いてくれたらいいのにとも思いました。
「少しだけ。ごめんなさい」
「謝る必要なんかないだろ」
 天井の光を遮って、黒い影が俯いた私の視界を過りました。気付くと隣に岩崎さんが腰を下ろしていて、その手持無沙汰な眼差しは、硝子張りの壁の向こうに広がる公園の雑木林を見凝めていました。誰もいないバス停で途方に暮れていたときに聞こえていた蜩の静かな鳴き声を、私は咄嗟に思い出しました。夕闇は更に濃くなって、樹々の輪郭はもう見分けがつきません。不意に空腹を感じました。痛みが治まった途端に、食欲に襲われるなんて何だか動物みたいだと、少し恥ずかしくなりました。
「岩崎さん」
 成る可く然り気ない雰囲気を保とうと力んだ所為で、却って私の声は上擦りました。
「何?」
 怪訝な表情で振り向いた岩崎さんの榛色の瞳に射竦められて、頭の中で考えていた言葉が急に混乱し、揺さ振られたジグソーパズルのように、どうやって想いを組み合わせればいいのか、私は分からなくなりました。
「御腹が減りました」
 幼い子供のように単純な構文で発せられた私の言葉に、岩崎さんは微かに首を傾げました。
「御腹? 痛かったんじゃないのかよ」
「痛くなくなったら、御腹が空いてることに気付いたんです」
「何だか、心配して損したな」
「そんなに心配してくれたんですか」
 検問を突破した車が俄かに加速するように、私の心の中で情熱が膨らんでいくのが分かりました。変な女だと思われたらどうしようという臆病な気持ちが、瞬く間に色褪せていきました。
「奢ってもらいたいってことか?」
 少し呆れた様子で、ベンチの背に凭れて両腕を伸ばしながら、岩崎さんは天井に視線を移しました。そんな図々しいことは考えていません、私だって小銭くらい持ってますと言おうとして、寸前で思い止まりました。
「仕方ないな。拉麺でもいいなら」
 気の所為でしょうか。岩崎さんの横顔がほんの少しだけ紅く染まっているように見えました。光の加減かも知れないと思いながら、私は嬉しくなりました。
「拉麺は、私も好きです」
「太るなよ」
代謝が良いから大丈夫です」
 私は相手が先輩であることさえ忘れて、生意気な口調で言い放ちながら、自然と湧き上がってくる心からの笑顔を抑えることが出来ませんでした。確かに御腹は空いていたけれど、それでも私は密かに、このまま何かの手違いで、次のバスがずっと来なければいいのにと思っていました。