サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 7

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 隣室の妻が寝静まってから、かなりの時が経った。本多は書斎の灯火を消し、ゲスト・ルームの壁ぞいの書棚へ歩み寄った。何冊かの洋書をそっと抜き出し、床に重ねた。彼が自ら客観性の病気と名付けるところのもの。その病気にとらわれた瞬間に、今まですべて自分の味方だった社会を敵に廻さざるをえなくさせる頑なな強制力。

 何故だろう。それも亦、彼が永年法壇の上から、又、弁護人席から、客観的に眺めてきた人間の諸相の一部にすぎない。しかし何故、ああして眺めることが法に則り、こうして眺めることが法に背くのだ。ああして眺めることが人々の尊崇の的になり、こうして眺めることが人々の軽蔑や非難を浴びることになるのだ。……もしそれが罪であるとすれば、快いから罪なのであろうが、裁判官としての経験上、本多は私心を去った心境の澄んだ快さをも知っている。もしその快さには胸のときめきがないから崇高であったのだとすれば、罪の本質はときめきにあるのだろうか。人間のもっとも私的なもの、この快楽へのときめきだけが、法に背反する最大の要素なのであろうか。……(『暁の寺新潮文庫 p.231)

 一見すると芸術家と法曹との間には、その構造的原理における対蹠的な関係が設けられているように感じられる。しかし、両者が共に純然たる「認識」に奉仕する人々であるという点に就いては、その明らかな共通性は是認される以外にないだろう。彼らは眺められる対象から明確な距離を保ち、慎重な手続きを踏んで、それを一個の静止した無時間的な事物に作り変える。例えば「奔馬」の主役である飯沼勲は、本多から送られた手紙を読んで、次のように独白する。

 それにしても、本多は何と巧みに、歴史から時間を抜き取ってそれを静止させ、すべてを一枚の地図に変えてしまったことだろう。それが裁判官というものであろうか。彼が「全体像」というときの一時代の歴史は、すでに一枚の地図、一巻の絵巻物、一個の死物にすぎぬではないか。『この人は、日本人の血ということも、道統ということも、志ということも、何もわかりはしないんだ』と少年は思った。(『奔馬新潮文庫 p.139)

 「歴史」から「時間」を抜き取り、それを一個の空間的な表象或いは建造物に差し替えてしまうこと、それは或る事実を風化させない為のいわば「防腐」の処理であると言えるだろう。それは事実を無時間的な永遠の位相へ遷移させる手続きであり、事実の宿している不安定なダイナミズムを洗い流す作業である。紛れもない「行為」の人間である勲の眼に、徹底的な「認識」の人間である本多の見解が現実性を欠いた理窟の塊として映じるのは必然的な帰結であると言えるだろう。

 「行為」の果てしなく勇猛な連鎖の裡に生き続ける人々にとって、本多のような実存的形態は如何にも黴臭く退嬰的な様式であると思われるかも知れない。具体的な時間の流れで、生きるという不安定な営為の連鎖に身を殉じること、絶え間ない腐敗と消滅の過程に身を挺すること、清顕や勲が選んだのは、そのような「生」の形式である。けれども本多は、そのような「生」を専ら眺めて観察を試みることに夥しい労力と情熱を注いできた。無論「暁の寺」における本多は必ずしも「認識」という営為の裡に完璧な自足を伴って安住している訳ではない。清顕と共に過ごした青年期においては安全に保たれていた冷静な理性的統御は、老境に差し掛かるに連れて危険な悔恨に蝕まれるようになり、本多の内面は、例えば「金閣寺」の溝口が「美」と「人生」との狭間で苦しんだような種類の葛藤に劫掠されることとなる。言い換えれば、本多は「認識」というものに極限まで惹き付けられながら、同時にその限界を垣間見て倦怠を覚えているのである。

 若いころから本多の認識の猟犬は俊敏をきわめていた。だから知るかぎり見るかぎりのジン・ジャンは、ほぼ本多の認識能力に符合すると考えてよい。その限りにおけるジン・ジャンを存在せしめているのは、他でもない本多の認識の力なのだ。

 そこでジン・ジャンの、人に知られぬ裸の姿を見たいという本多の欲望は、認識と恋との矛盾に両足をかけた不可能な欲望になった。なぜなら、見ることはすでに認識の領域であり、たとえジン・ジャンに気付かれていなくても、あの書棚の奥の光りの穴からジン・ジャンを覗くときには、すでにその瞬間から、ジン・ジャンは本多の認識の作った世界の住人になるであろう。彼の目が見た途端に汚染されるジン・ジャンの世界には、決して本当に本多の見たいものは現前しない。恋は叶えられないのである。もし見なければ又、恋は永久に到達不可能だった。

 飛翔するジン・ジャンをこそ見たいのに、本多の見るかぎりジン・ジャンは飛翔しない。本多の認識世界の被造物にとどまる限り、ジン・ジャンはこの世の物理法則に背くことは叶わぬからだ。多分、(夢の裡を除いて)、ジン・ジャンが裸で孔雀に乗って飛翔する世界は、もう一歩のところで、本多の認識自体がその曇りになり瑕瑾になり、一つの極微の歯車の故障になって、正にそれが原因で作動しないのかもしれぬ。ではその故障を修理し、歯車を取り換えたらどうだろうか? それは本多をジン・ジャンと共有する世界から除去すること、すなわち本多の死に他ならない。(『暁の寺新潮文庫 pp.379-380)

 認識し難いものを認識したいと望む衝迫に、本多は蝕まれている。恐らくそれは認識という機構そのものが成立の当初から孕んでいる根源的な限界に関わる問題である。認識することは常に対象となる事物を別の事物に置換し、反映することである。或る事物の備えている実体的な形態は、眼球の機構を媒介して光の像へ置換される。置換された視覚的な認識は、対象そのものではなく、その間接的な反映に過ぎない。それは事物そのものを完全な意味で認識することの不可能性を暗示している。

 だが、事物そのものを認識するとは、如何なる事態を意味するのか? 我々の有する認識の機構がそもそも原理的に、事物の間接的な置換=反映という性質を根本に据えている限り、事物そのものの認識とは不可能な願望に過ぎない。どんなに精細に認識したとしても、それは対象の不完全な模写であることを免かれないという現実に対峙したとき、それを覆す為には如何なる手段が考案されるのか? それは芸術家が、どれほど精細に現実を観察して、それを非時間的な結晶としての「作品」に定着させたとしても、その「作品」が動態的な現実の完全なる所有に至ることは有り得ないという問題の構造に類似している。

 そもそも「認識」とは「所有」の欲望なのだろうか? 或る特権的な瞬間を永遠に手許へ留めておきたいと願う情熱が、我々の「認識」の欲望を駆動する源泉であるならば、そして本多の「認識」に対する欲望が常に純然たる「客観性の病気」に蚕食されているのだとすれば、それは「自己の存在しない世界を永遠に保存したい」という奇態な命題に集約されるだろう。換言すれば、それは「美しい記憶だけを保存したい」ということである。何故なら、三島的な論理に従えば「記憶の作業」を担っているのは常に「記憶される者」の資格に値しない、醜悪な人間に限られているからだ。

 本多が絶えず「客観性の病気」の領域に留まり続けるのは、言い換えれば「認識」の対象との間に具体的で決定的な関係を構築しようと考えないのは、彼自身の存在が審美的な価値を帯びていないという自己認識の為である。若しも彼が自己の美しさを何らかの理由で確信しているとすれば、そもそも彼は「認識」の世界だけに留まろうとする奇妙な吝嗇を堅持しなかっただろう。彼は胸を張って「記憶される者」たちの世界へ参与し、自己の審美的価値を最大限に発揮して、夥しい視線を浴びながら旺盛な実存を満喫するだろう。けれども、彼の頑迷な審美的基準は、彼自身の「価値」を決して承認しない。彼の審美的基準は自分自身に対する「依怙贔屓」を断じて容認しないほどに真率且つ峻烈なのである。

 若しも本多がジン・ジャンとの間に肉体的な恋愛の関係を望むのならば、相手の了承を得られるかどうかは別として、幾らでも具体的な行動の選択肢は存在する筈である。それを押し留めているのは何よりも先ず本多自身の「美意識」の桎梏であろう。彼の「恋」と「認識」との間に重大で克服し難い矛盾が生じるのは、まさしくこうした地点である。美しいものだけを認識したいという感性的で芸術的な欲望は、醜悪な自画像が現実の世界へ参与することを厳しく拒む。この矛盾を超克する為には、自分自身の実存を或る審美的な「作品」にまで高めなければならない。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 6

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 芸術作品とは、時間の或る断面図である。滔々と流れ続ける無限に等しい時間性の或る特定の瞬間を切り取り、凍結させ、その細緻な構造を余すところなく明瞭に抽出し晶化させること、それが芸術という営為の重要な目的である。その意味で、芸術は「時間」という夥しい重力に対する抵抗の意義を根本的に含んでいると言える。

 芸術家の主要な労役が「作品」の創造であることは論を俟たない。芸術家の血の滲むような労役の涯に生み出される数多の「作品」の群れを通じて、我々は既に失われてしまった世界、今まで誰も認識することのなかった世界、新たに発見されたり想像されたりした世界への特別な回路を獲得することになる。絵を描くことも文字を綴ることも音律を掻き鳴らすことも総て一途に、こうした「瞬間の凍結」という切実な祈念の裏打ちを伴って編輯されている。

 言い換えれば、芸術的な「作品」とは常に「瞬間の結晶」であって、時間的な変化に抵抗する物象の体系であるから、時間の経過という我々の世界の普遍的な現象は必然的に「芸術」の営為と敵対することになる。無論「作品」の内部では、現実の時間と隔てられた内在的な時間が流れているが、現実の裡に屹立する一個の存在としての「作品」は、時間の有する抗し難い腐蝕の作用を原理的に峻拒している。

 この年になって、はじめて彼の奥深いところで、変身の欲望が目ざめていた。あれほど自分の視点を変えずに他人の転生を眺めて来た本多は、自分の転身の不可能についてさして思い悩むこともなかったのに、いよいよ年齢がその最終の光りで、平板な生涯の野を一望のうちにしらじらと照らし出す時期が来てみると、不可能の確定が、却って可能の幻をそそり立てた。

 自分も亦、自分の予期しないことを仕出かすかもしれない! 今まであらゆる行為は予期され、理性は夜道をゆく人の懐中電灯のように、つねに一歩先に光芒をひろげていた。計画し、予断し、自分自身に対する驚愕を免かれていた。もっとも怖るべきことは、(あの転生の奇蹟も含めて)、すべての謎が法則に化してしまったのである。

 もっと自分に愕かなければならない。それはほとんど生活の必要になった。理智を軽蔑して蹂躙する特権があるとすれば、彼自身にだけ許されているという理性の自負があった。そうしてもう一度、この堅固な世界を不定形の裡へ巻き込まねばならない。彼にとってはもっとも馴染の薄い何ものかへ!(『暁の寺新潮文庫 p.198)

 芸術家は確かに「作品」を創造するが、その材料と設計図は絶えず現実の事象から汲み上げられ、抽出される。完全なる真空から前代未聞の奇術師のように何らかの認識や表現を生み出す訳ではない。従って芸術家の作業は常に前提として「世界に関する認識」の蓄積を要求する。認識や記憶が複雑な結合や混淆を演じることで一個の「作品」が形成されることを思えば、世界に関する完全な無智は確実に「創造」の権能を持たないだろう。芸術家の「創造」の養分は「世界」に関する絶えざる認識の蓄積から分泌される。

 本多繁邦が作者の手で典型的な「認識」の人物として描かれていることは、作品を一読すれば明らかである。その養分の具体的な実例を敢えて探し求めるとすれば、それは恐らく三島由紀夫自身の半生ではないかと推察される。作品の執筆に当たって綿密な取材と下準備に余念のなかった三島は、現実への精細な観察を積み重ねて蓄えることの重大な効用を知悉していたに違いない。そして芸術家は作品の創造という重大な労役と責務を後に控えている為に、観察された現実との間に一定の疎隔を絶えず確保しておかねばならない。芸術家は現実の断片を掠め取る俊敏で執拗な盗賊のように、執筆に際しては速やかに現実の渦中から退却して、誰も知らない個人的な闇の栖へ隠遁しなければならない。従って芸術家は常に生々しく動的な現実に対する黒子の役割を黙って引き受けることとなる。どれだけ芸術家が作中の人物に強い思い入れを懐き、自身の経験や思想や情熱を残らず注ぎ込んだとしても、造物主と被造物との間には決して乗り超えられることのない絶対的な径庭が横たわっているのである。芸術家が現実に関して抱懐する精細な認識の堆積は、彼自身の具体的な生活や行動の為に役立てられるのではない。それは飽く迄も「作品」という現実の非時間的な結晶を生成する為の材料であり、人生を特殊な精錬の過程に晒して、時間という夾雑物を悉く濾過して除去してしまう芸術的創造の工程においては、作者は常に動的な現実からの乖離を受容しなければならないのだ。

 殺人というと角が立つが、殺人はひとえにこの記憶の純粋化のため、記憶をもっとも濃密な要素に蒸留するための必須の手続なんです。それに醜い不具者の住人たちはえらいものです。全くえらいものです。この人たちは自己放棄の達人で、己れを空しくして生きています。この人たち、愛者=殺人者=記憶者は、自分の役割を忠実に生き、何一つ自分のことについては記憶せず、愛される者の美しい死の記憶だけを崇めて生きてゆくんですから、その記憶の作業だけが、この人たちの人生の仕事になるんですから、『柘榴の国』は、又、糸杉の国、美しい形見の国、喪章の国、世界でもっとも平和な静かな国、回想の国なんですね。(『暁の寺新潮文庫 p.218

 今西の開陳する奇態な妄想は、そのまま「芸術家」という実存的形態の特質の行き届いた要約であると同時に、本多繁邦という人物の精神的構造を明瞭に告示するものであると言える。芸術の本質は「記憶」であり、それは或る出来事や人物の生涯を時間的な腐蝕の災禍から救済することを意味する。本多は正しく清顕や勲の赫奕たる夭折の生涯を傍観し、証言し、記憶することで己の人生を支えている。我々の記憶が必ずしも明瞭な時系列に縛られず、回想の内部では複数の記憶が糸の切れた扇のように秩序を離れて雑多に混淆することが珍しくないのは周知の事実であるだろう。つまり「記憶」とは「時間」の畏怖すべき風化の魔力に対する抵抗の機能であり、あらゆる芸術的創造の涵養される重要な礎石の役目を担っているのだ。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 5

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 これは漠然たる感想に過ぎないのだが、三島の「理想」を象徴するのが「春の雪」における松枝清顕や「奔馬」における飯沼勲であるとしたら、三島の「現実」を象徴するのは「暁の寺」において一挙に重要な主役の地位へ躍り出た本多繁邦ではないかと思う。清顕や勲は己の信念に基づいて果敢な「行為」の世界を生き抜き、しかもその行為が深刻な不条理や醜悪な現実と衝突して虚しく砕け散ってしまう手前の、或る美しい「記憶」の状態で自らの生涯を卒えることに成功した。言い換えれば、彼らは「柘榴の国」における「記憶される者」としての実存を鮮やかに全うすることに成功した。それが三島にとって一つの崇高な理想の形態であったことは明瞭な事実である。

 けれども本多は、自ら諸々の美しい行為に手を染めることはなく、常に「傍観者」としての安全で客観的な位置に自己の存在を据え置いている。彼は得体の知れぬ情熱に身を焦がすこともなく、破滅的な行為に決然と挑みかかって玉砕するような愚挙や蛮行とも無縁であった。勲の弁護を引き受ける為に判事の職を擲ったことは、彼の人生における唯一の果敢な「行為」であったかも知れないが、その選択が彼の生涯を「破滅」に導いたとは到底言い難い。

 本多繁邦は、様々な現実や幻想を組み合わせて或る一つの豊饒な「虚構」を構築しようとする「芸術家」としての三島の内面的な秩序を象徴する人物であるように見える。現実の世界に日々生起する無数の複雑な事件、様々な悲劇の顛末を詳さに眺め、一つ一つの入り組んだ構造を解明し、それによって現実を或る理智的な法則の裡に閉じ込めること、それらの果てしない労役を、芸術家たちは自らの双肩に背負っている。

 人間のほんのかすかな羞恥や、喜びや、怒りや、不快が、天空的規模のものになること。人間の内臓の常は見えない色彩が、この大手術によって、空いちめんにひろげられ外面化されること。もっとも些細なやさしさや慇懃ギヤラントリー世界苦ヴエルトシユメルツと結びつき、はては、苦悩そのものがつかのまのオルギエになるのです。人々が昼のあいだ頑なに抱いていた無数の小さな理論が、天空の大きな感情の爆発、その花々しい感情の放恣に巻き込まれ、人々はあらゆる体系の無効をさとる。つまりそれは表現されてしまい、……十数分間つづき、……それから終るのです。(『暁の寺新潮文庫 pp.17-18)

 芸術家崩れの菱川という男が本多に語って聞かせる観念的な議論は、芸術或いは「表現」という営為の備えている性質や構造を明瞭に言語化している。芸術的営為は、我々の属している卑小な現実を無闇に膨張させ、極限まで高揚させ、或る情熱的な構図の下に目覚ましい輪郭を賦与し、そして終結へ導く。眼前で生起する事態、或いは既に遠く過ぎ去った昔日の経験に関する精細な記憶、それらの題材に様々な香辛料を注ぎ込んで、一幅の絵画や一幕の芝居が形作られる。

 こうした芸術家の労役が如何なる欲望に支配されているのかを考えることは、この「豊饒の海」という作品を精密に読解する上で、決して避けて通ることの出来ない作業である。芸術家の欲望とは要するに、或る事件や事物を現実の世界から引き剥がして、作品という永遠的な記憶の装置に移植することへの熱狂的な衝迫を指している。或る瞬間的な現実の断面を時間性の軛から解き放ち、時間や歴史の流れに対する超越的な性質を事物に賦与すること、それが芸術的営為の本質的な特徴であり使命である。

 時間性の軛から逃れること、それが三島的な論理の中枢に位置する欲望の対象であることは既に幾度も述べてきた。芸術家は、対象となる事物や想念を時間の法則から切り離して、作品という一個の牢獄の裡にそれらを定着させることを己の職務としている。恐らく三島の内面においては、そうした「他者の存在を作品化する」という芸術家的な欲望と「自分の存在そのものを作品化したい」という英雄的な欲望とが絶えず鬩ぎ合っていたのではないかと思われる。

 芸術という営為を「時間の廃絶」に向けた或る幻想的な手続きであると定義するならば、三島由紀夫という人物の抱えている精神的な構造が極めて芸術的な志向性に彩られていることは明瞭である。「豊饒の海」全巻を通じて繰り返される東洋的な「輪廻転生」(それは同一の人格=魂が回帰する西洋的な「復活」とは性質を異にしている)の秘蹟において、幾度も冥界から現実の世界へ回帰するのは「夭折」という一つの実存的形態である。「夭折」という実存的形態そのものが、無限に流れて堆積し続ける「時間」の論理に対する叛逆を含み、その叛逆的性質ゆえに芸術的な特性を帯びていることもまた一つの明瞭な事実である。「夭折」という実存的形態は、人間の「生」を日常的な倦怠から救済し、その本来的な「堕落」の危険を強制的に排除する効果を宿している。言い換えれば「夭折」とは、人間の「生」における或る特権的な瞬間(無論、それは比類無い美しさによって覆われていなければならない)を永遠に凝固させ、いわば芸術的な「作品」として結晶させるような実存的形態なのである。三島にとって「芸術」は「時間」という忌まわしい「堕落」の論理への抵抗という含意を孕んでいる。けれども、彼は「芸術」という営為に必然的に装填されている間接的で傍観的な性質への不満を完璧に抑圧することに失敗した。恐らく「芸術」の世界においては、特権的な永遠性を獲得し得るのは、作者にとって飽く迄も外在的な地点に留まり続ける諸々の「作品」だけである。三島の超越的で不可能な願望は、そうした「作品」の外在性に堪えることを拒絶した。常に「他者」だけが「作品」という芸術的形態を備えて「時間」の彼方へ飛翔していくという現実、芸術家にとっては避け難い日常的な現実への抑え難い不満が、彼を「芸術の棄却」という重大な決断へ向かって跳躍させたのである。それは換言するならば「芸術家の実存そのものを作品化すること」という奇矯な主題への果敢な挑戦である。芸術家として「美」を外在的な仕方で発見し、作品の裡に定着させるという生き方に慊らない想いを懐き、その消極的で否定的な情念を極限まで煮詰めてしまった結果、彼は自己の存在そのものに芸術的な形態と様式を、つまり「時間」からの脱却という不可能な様式を賦与することに剣呑な野心を燃え上がらせたのである。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 4

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 長大な「豊饒の海」の物語の劈頭から登場する本多繁邦は、第一巻「春の雪」及び第二巻「奔馬」においては、飽く迄も脇役の位置を堅持して、主役に当たる松枝清顕と飯沼勲の苛烈で絢爛たる「夭折」の生涯を見届ける役割に専心していたが、第三巻の「暁の寺」に至って俄かに脚光を浴び、物語を推進する中心的な存在へ転身を遂げる。尤もそれは、本多が清顕や勲のように目映く悲劇的な人生へ勇気を以て踏み出したことを意味するのではない。本多は飽く迄も悲劇の「傍観者」としての安全な位置に留まりながら、その境遇に充たされぬものを感じて、極めて個人的で主観的な「葛藤」の泥濘に嵌まり込むのである。

『俺は四十七歳だ』と本多は考えていた。若さも力も無垢な情熱も、肉体と精神のいずれにも残っていなかった。あと十年もすれば死の準備をせねばならぬだろう。しかし、自分は万が一にも戦争で死ぬことはあるまい。本多は軍籍を持たなかったし、よしんば持っていても、もう戦地へ狩り出される惧れはなかった。

 若者の果敢な愛国的行為を、遠くから拍手していればよい年齢だ。ハワイまで爆撃に行ったとは! それは彼の年齢からは決定的に隔てられている目ざましい行為だった。

 隔てたのは年齢だけだったろうか。決してそうではない。本多はもともと行為をするようには生れて来なかったのだ。(『暁の寺新潮文庫 pp.128-129)

 老境に至ることは、華やかで劇的な人生から無限に遠ざかり、安閑たる境地から外界の様々な事件を専ら眺めて観察するだけの日々を送ることを意味している。無論、こうした定義は如何にも三島的な論理に即したもので、実際の老年期にある総ての人々に適合する訳ではないだろう。そして本多繁邦という人物は、未だ若年にある裡から早くも老年の原理を密かに隠し持ち、理性の鍛錬を通じてそれを着実に肥大させ、膨張させてきた。三島的な論理に基づいて定義するならば、若さは情熱と行動に結び付き、老いは理性と省察に結び付いている。こうした認識の傾向が、極めて露骨なロマンティシズムの類型を含んでいることは明瞭な事実である。

 「豊饒の海」という物語には一貫して、「行為」と「認識」或いは「情熱」と「理性」とを対蹠的な要素として二元論的に対置するロマンティシズムの構図が底流している。「行為=情熱」の領域に属する清顕や勲は転生を繰り返すが、「認識=理性」の領域に属する本多は積み重なる時間の推移の裡に佇み続けている。こうした対比は、三島的な論理を駆動する根源的な「緊張」を孕んでいる。

 彼の人生は、誰もそうであるように、死のほうへ一歩一歩歩んで来たのだが、それはともかく、彼は歩くことしか知らない人間だった。駈けたことがなかった。人を助け救おうとしたことはあるが、人に助けられる危急に臨んだことはなかった。救われるという資質の欠如。人が思わず手をさしのべて、自分も大切にしている或る輝やかしい価値の救済を企てずにはいられぬような、そういう危機を感じさせたことがなかった。(それこそは魅惑というものではないか。)遺憾ながら、彼は魅惑に欠けた自立的な人間だったのである。

 真珠湾攻撃の熱狂に本多が嫉妬を感じていたと云っては誇張になる。ただ彼は、爾後自分の人生が決して輝やかしいものになることなく終るという、利己的で憂鬱な確信の虜になったのである。今までついぞそんな輝やかしさなど、本気で望んだことのない筈の彼が!(『暁の寺新潮文庫 p.129)

 本多の考える「輝やかしさ」が、社会的な栄誉や経済的な成功に類するものではないことは明白である。本多は法曹として数多の名誉や財産に恵まれる生涯を送りながら、そうした外面的な「輝やかしさ」に充たされず、理性と情熱との狭間で「憂鬱な確信」に囚われている。この鬱屈は、敗戦以後の作家の精神を絶えず蝕み続けた宿痾のような情念ではないかと私は思う。赫奕たる壮烈な栄光、絶対的な一回性によって塗り固められた彫像のような栄光、それを絶えず望みながら容易に果たせず、老年の玄関へ辿り着いてしまったとき、彼の内部で「利己的で憂鬱な確信」は抑え難い隆起を示したのではないか。

 「行為」に対する憧れ、尤も三島の場合、この「行為」という言葉には、特殊な含意が充填されている。その「行為」は、日常的な生活や社会的な秩序を破壊する壮烈な暴力性を伴っていなければならない。それは或る人間の実存を永遠の「記憶」として固定し、表現する為の方途でなければならない。

 忌わしいもの、酩酊、死、狂気、病熱、破壊、……それらが人々をあれほど魅して、あれほど人々の魂を「外へ」と連れ出したのは何事だろう。どうして人々の魂はそんなにまでして、安楽な暗い静かな棲家を捨てて、外へ飛び出さなくてはならなかったのであろう。心はなぜそれほどまでに平静な停滞を忌むのであろう。(『暁の寺新潮文庫 p.133)

 「平静な停滞」を厭悪するのは必ずしも万人に共通する心性ではない。寧ろ「平静な停滞」を積極的に愛する精神的形態も確かに存在している。そうした傾向は恐らく「老年」に対する肯定的な意識を備えているだろう。だが、絶えず何らかの「栄光」に憧れ、美しい「生」の瞬間を「永遠」の領域へ閉じ込めて凍結しようと試みる三島的な欲望にとって、そうした「平静な停滞」は最大の宿敵に他ならない。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 3

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 作中に登場するドイツ文学者の今西という奇妙な男は、本多繁邦の別荘開きの祝宴に招かれ、客人たちの前で自身の抱懐する「性の千年王国ミレニアム」に就いて長広舌を揮う。「柘榴の国」と名付けられた、その奇怪なユートピアの秩序は、三島的な美学と論理及び「豊饒の海」という作品の基本的構造の比喩的な要約としての役割を果たしているように思われる。

『柘榴の国』の人たちは非常に聡明ですから、この世には、記憶に留められる者と、記憶を留める者と、二種類の役割しかない、ということをよく知っているんですね。

 ここまで来たら、どうしたって、『柘榴の国』の宗教について、お話ししなくちゃなりませんね。そもそもこんな慣行を生み出したのは、この国の宗教観念なんですからね。

『柘榴の国』では、復活を信じません。なぜなら神はその最高の瞬間に現前すべきであり、一回性が神の本質ですから、復活したあとで前よりも美しくなるなんてことがありえない以上、復活は無意味です。洗いざらしのシャツが、下し立てのシャツより白いということは考えられませんでしょう。『柘榴の国』の神は一回限りの使い捨てなんですよ。

 ですから、この国の宗教は多神教ではありますけれど、いわば時間的多神教で、無数の神が、肉体の全存在を賭けて、おのおのの最高の瞬間を永遠に代表したのち、消滅するんです。もうおわかりでしょうが、『愛される者の園』は神の製造工場なんです。

 この世の歴史を美の連続と化するために、神の犠牲が永遠に継続しなければならない、というのがこの国の神学です。合理的な神学だと思いませんか。その上、この国の人には偽善が一切ありませんから、美とは性的魅力と同義語で、神すなわち美に近づくには性慾しかない、ということを知り尽しております。(『暁の寺新潮文庫 pp.215-216)

 こうした描写、設定は、明らかに「豊饒の海」という壮大な作品を支えている基本的な諸条件の端的な要約である。「この世のものならぬ美しい児」と「醜い不具者」との二元論的な対比も、美しさの絶巓において儚く死んでいく松枝清顕や飯沼勲と、その夢幻的な生涯を只管座視し続ける本多繁邦との、換言すれば「行為」と「認識」との対照を意識的に踏まえているように感じられる。

 三島的な論理は常に「時間の廃絶」を企図している。それは今西の物語る理想郷において「復活」が否定されていることと符節を合していると言えるだろう。三島的な論理において「死」は絶対的な一回性の顕現を象徴する役目を担っている。若しも「死」が繰り返される「復活」の過程の従属的な前提に過ぎないのであれば、或る個体が美の絶頂において殺害され、記憶として永遠化されるという手続きは直ちにその特権的な価値を失うだろう。美しい「記憶」は色褪せ、無限に持続する反復的な実存は「死」という営為の重要な意義を相対的に衰微させるだろう。

 美に近づくには性慾、しかしその瞬間を永遠に伝えるものは記憶、……これで大体『柘榴の国』の基本構造がおわかりでしょう。『柘榴の国』の本当の基本理念は記憶なので、いわば記憶がこの国の国是なんですね。

 性的歓喜の絶頂という肉の水晶のようなものは、記憶のうちにますます晶化され、美神の死のあとに、最高の性的喚起がよびさまされます。ここに到達するためにこそ、『柘榴の国』の人々は生きているのです。その天上的な宝石に比べれば、人間の肉体的存在は、愛する者も愛される者も、殺す者も殺される者も、そこへ到達する媒体にすぎないともいえるでしょう。これがこの国のイデアなんです。

 記憶とは、われわれの精神の唯一の素材ですね。性的所有の絶頂に神が顕現したとしても、そのあとで、神は『記憶される者』になり、愛者は『記憶する者』になるという時間のかかる手続を経て、はじめて神は本当に証明され、美ははじめて到達され、性慾は所有を離れた愛にまで浄化されるんですね。そんなわけですから、神と人間存在とは、空間的に隔絶しているのではありません。時間的にズレているのです。ここに時間的多神教の本質があります。おわかりですか?(『暁の寺新潮文庫 pp.217-218

 「柘榴の国」の基本理念が「記憶」という機能に存するという一文は、三島的な論理の枢要を解明するに当たって、重要な示唆を含んでいるように思われる。彼が無際限に持続する「時間」という形式を忌み嫌い、日常生活への深刻な侮蔑を終生保ち、驚嘆すべき執念深さで「美しい死」という実存的形態に憧れ続けた背景には、自己が「忘却」されることへの異様な恐懼の感情が介在していたのではないだろうか? 換言すれば「美しい死」とは「忘却されることのない死」であり、従って「時間」の齎す風化作用を免除された「死」の異称なのではなかろうか?

 厖大な時間の流れは、あらゆる事象の歴史的な固有性を磨滅させ、その特権的な一回性の光輝を褪色させる残忍な腐蝕の作用を備えている。言い換えれば、それは歴史というものの奇態な反復性、どんなに特殊で異様に見える事象であっても、長大な歴史的推移の過程では反復され得るという退屈な性質を意味している。こうした歴史の反復的性質に抗う為に持ち出されたのが「時間の廃絶」という不可能な構想であり、「復活の否定」という教義なのだ。

 そうであるならば、この「豊饒の海」という作品が「輪廻転生」という紛れもない「復活」の枠組みを採用している事実は、作者にとって如何なる意味を有しているのだろうか?

 今西の性的な趣味には顰蹙しながら、本多は別の夢想に涵った。もしこれが今西の空想でないとすれば、われわれはすべて神の性の千年王国ミレニアムの住人なのかもしれないのである。神が本多を記憶者として生き永らえさせ、清顕や勲を記憶される者として殺したのは、神の劇場の戯れであったかもしれない。しかし今西は復活はないと言った。輪廻はともすると復活と相対立する思想であり、それぞれの生の最終的な一回性を保証することこそ輪廻の特色ではなかったろうか。とりわけ、人間存在と神との間には時間的なズレがあり、人間は記憶の中においてのみ神と出会うという今西の説は、本多にその生涯と旅とを見渡させて、茫漠たる想いへ誘うようなものを含んでいた。(『暁の寺新潮文庫 p.219)

 「輪廻」と「復活」との間に微妙な径庭を見出そうと努める思索の企図が、如何なる根拠に基づいているのか、この時点では然して明瞭には示されない。無論、作者は唯識の仏説に関する長大で煩瑣な祖述を通じて、「輪廻」という観念が、常住不変の同一的な主体の「復活」とは異質な論理に基づいていることを予め入念に読者に向かって告げている。三島の解説が正統の仏説と完全に照合するものであるかどうか、浅学菲才の筆者に判断する力量は備わっていないが、彼の言葉を信じるならば、「輪廻」とは同一的な主体の反復的な生存を意味するものではなく、我々の住む世界の「離散的な更新」という基礎的構造を論じるものなのである。

 唯識の本当の意味は、われわれ現在の一刹那において、この世界なるものがすべてそこに現われている、ということに他ならない。しかも、一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、又新たな世界が立ち現われる。現在ここに現われた世界が、次の瞬間には変化しつつ、そのままつづいてゆく。かくてこの世界すべては阿頼耶識なのであった。……(『暁の寺新潮文庫 p.163)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 

Cahier(霜月・「豊饒の海」・老醜)

*2018年も足早に暮れていく。つい此間まで異常な猛暑に苦しめられていたと思ったら、あっという間に霜月の末である。十二月に入れば、小売業の現場は俄かに忙しくなる。此処から年明けの初売りまでは一瀉千里である。そういう忌まわしくも刺激的な季節がまた廻ってきたのだと、凡庸な感慨に耽りながら日々を過ごしている。

 昨秋から始めた「三島由紀夫主要作品完全読破計画」も愈々大詰めを迎え、畢生の大作「豊饒の海」まで辿り着いた。第一巻に当たる「春の雪」を生まれて初めて読んだのは中学生の頃で、そのときは頗る退屈して早々に投げ出してしまった。三島由紀夫という作家に就いて余り詳しくない十代の餓鬼が、初手から「春の雪」に溺れられる理由も特に思い浮かばない。十代の少年には理解し難い文学作品というのは星の数ほどある。それならば齢を重ねてから纏めて耽読すれば良さそうなものだが、若年の裡に読書の習慣を帯びなかった人間が老境に至ってから、満を持して古今東西の名作を繙いたところで、頁を繰る指先が滑らかに進むとも思い難い。結局は、定期的な再読を試みるのが最も良質な選択肢ということになるのだろう。

 一年間、或る一人の作者の著した書物ばかりを読むという経験は生涯で初めてのことである。知らぬ間に頭の中身が三島的な論理と抒情に浸蝕されているのではないかという危惧を時折覚える。尤も、私には到底三島由紀夫のような生き方は出来ない。傑出した能力に欠けているという点は大前提の話で、仮に能力があったとしても、例えばああいう最期を自ら選択する勇気も覚悟もない。三島は徹底して「夭折」を尊重した人である。「日常」を軽蔑し、演劇的なヒロイズムを愛した人である。私はどちらかと言えばヒロイズムの鍍金の裏側に秘められた身も蓋もない真実に惹かれる気質で、英雄的な人生など聊かも望まない。けれども時々、平穏な日常を叩き壊したくなる衝動に駆られることもあり、それは幾らか三島的な性質であるようにも思われる。だが、倦怠に対する憎しみは、偉人凡人を問わず、誰にでも等し並みに突如として降臨する奇態な情熱であろう。

 夭折に憧れるほどの特権的な才能や富貴な出自に恵まれたことのない私にとって、三島的な絢爛たる滅びの世界は縁遠いものだが、だからこそ「三島を読む」という行為には一方ならぬ快楽や興奮が附随する。知らない世界に惹かれるのは人間の本質的な性であり、知らない世界を遮断して少しも痛痒を覚えなくなれば、それこそ三島の憎んだ「老醜」を纏い始めたことの証左になるだろう。隅々まで知悉した世界の内側に閉じ籠もって、手近な窓を開け放ってみようとも思わぬこと、そもそも窓の存在さえ失念してしまうこと、そういう愚鈍な頽落の淵に沈まない為にも、今後も私は読書の習慣を欠かさぬようにしたい。

美と芸術の蠱毒 三島由紀夫「暁の寺」 2

 引き続き、三島由紀夫の『暁の寺』(新潮文庫)に就いて書く。

 「豊饒の海」の第一巻から、常に物語の重要な証言者として登場し続けている本多繁邦は、戦時中の生活を「輪廻転生」の研究に充て、洋の東西を問わず、多種多様な文献を渉猟する。作中における「輪廻転生」に関する様々な言説の煩瑣な紹介は、明らかに「暁の寺」という物語の滑らかな構成を停滞させ、数多の読者の倦怠を誘うと思われるが、この点を作品の瑕疵として指弾するのは、作者の企図や方針を鑑みる限り、不当で狭隘な措置であろう。

 三島由紀夫にとって「美しい死」という観念は、極めて重要な価値を担っている。「美」と「死」は共に、人間の精神を時間の支配から脱却させ、或る無時間的な永遠の位相に封印する超越的な権能を有していると看做される。人間の「生」が絶えず時間の制約と支配の下に置かれ、如何なる局面においても時間の齎す変転の圧力に抗うことを禁じられているという事実に対して、三島は執拗な憎悪を懐き続けた。その憎悪の多様な表現は、彼の書き遺した夥しい数の文学作品の裡に螺鈿の如く鏤められている。

 「輪廻転生」という観念は、恐らく「美しい死」に至高の価値を認める三島的な論理に正面から対立する危険な効能を有している。輪廻の思想は、人間の生命に必ず襲い掛かる「死」という絶対的な断絶の価値を衰微させ、それを一つの凡庸な光景に塗り変えてしまうからだ。死んでも無限に生まれ変わるのならば、我々の「死」は如何なる特権的な光輝も期待することが出来ない。水面の泡沫が弾けるように或る個体が消え失せ、また次の瞬間には新たな個体として再び創造されるのならば、我々は「死」を通じて「時間」の支配から脱却するという夢想への渇仰を断念せざるを得ない。言い換えれば、輪廻とは「時間の無限性」を指す観念であり、それは三島の希求する「無時間的な永遠」の観念と完全に背反しているのである。

 三島が自らの代表作である「金閣寺」において、主役である溝口に語らせた「永遠」への憎悪は、こうした「仏教的な時間」に対する憎悪、無限に繰り返されて如何なる断絶も終焉も決して容認しない「永遠の時間」に対する憎悪を意味している。三島の愛好する「永遠」は、仏教的な輪廻転生の理念が有する「無際限の持続」という性質に対立している。三島的な「永遠」は「時間」という形式の根本的な廃絶であり、輪廻転生の可能性の全面的な棄却なのである。

 従って、三島が敢えて己の持ち前の審美的な論理を貫徹することを目指すならば、輪廻転生の教説は否定されなければならない。輪廻という観念は、死の断絶的な性質を抹消し、それを無限に持続し反復される「生」の循環の部分に組み込んでしまう。そのとき、生死の境界が有する重要で決定的な意味は蹂躙され、消滅してしまう。物理的な次元における生死の差異は、無限に繰り返される「生」の超越性の裡に溶かし込まれ、死は「生」に対する全面的な隷属の状態へ転落する。こうした現象が、三島的な論理の根幹を破壊するものであることは明瞭である。

 病者も、健やかな者も、不具者も、瀕死の者も、ここでは等しく黄金の喜悦に充ちあふれているのは理である。蠅も蛆も喜悦にまみれて肥り、印度人特有の厳粛な、曰くありげな人々の表情に、ほとんど無情と見分けのつかない敬虔さが漲っているのも理である。本多はどうやって自分の理智を、この烈しい夕陽、この悪臭、この微かな瘴気のような川風のなかへ融け込ませることができるかと疑った。どこを歩いても祈りの唱和の声、鉦の音、物乞いの声、病人の呻吟などが緻密に織り込まれたこの暑い毛織物のような夕方の空気のなかへ、身を没してゆくことができるかどうか疑わしい。本多はともすると、自分の理智が、彼一人が懐ろに秘めた匕首の刃のように、この完全な織物を引裂くのではないかと怖れた。(『暁の寺新潮文庫 p.77)

 「ヒンズー教徒たちのエルサレム」(p.73)と称されるベナレスの風景は、輪廻転生という宗教的な理念の齎す人間たちへの影響の様態を見事に反映している。人間が何度でも生まれ変わる永続的な存在であることを定められているのならば、今生の有様が如何なる悲惨に覆われていようとも、絶望や悲嘆に溺れる必要は生じない。人生が崇高な「一回性」の理念から解放され、何度でも回帰する無限の永生として顕現するのならば、死ぬことは聊かも特権的な営為ではなく、生死の境目に就いて過敏で神経質な態度を取る理由もない。総ての事物は普遍的な「黄金の喜悦」に覆われ、一切の艱難と悲劇が否定され、英雄的なロマンティシズムは、独善的な思い過ごしとして嘲笑される。

 ここには悲しみはなかった。無情と見えるものはみな喜悦だった。輪廻転生は信じられているだけではなく、田の水が稲をはぐくみ、果樹が実を結ぶのと等しい、つねに目前にくりかえされる自然の事象にすぎなかった。それは収穫や耕耘に人手が要るように、多少の手助けを要したが、人はいわば交代でこの自然の手助けをするように生れついているのだった。

 インドでは無情と見えるものの原因は、みな、秘し隠された、巨大な、怖ろしい喜悦につながっていた! 本多はこのような喜悦を理解することを怖れた。しかし自分の目が、究極のものを見てしまった以上、それから二度と癒やされないだろうと感じられた。あたかもベナレス全体が神聖な癩にかかっていて、本多の視覚それ自体も、この不治の病に犯されたかのように。(『暁の寺新潮文庫 p.85)

 こうした「黄金の喜悦」を認めることは、直ちに三島的な「悲劇」の論理の崩壊を招来する。輪廻とは「時間」という形式の永遠的な性質を信仰する思想であり、従ってそれは最終的な「滅亡」という如何にも三島的な観念に対する根源的な否定を含んでいる。読者の感興を扼殺しかねない「輪廻転生」に関する長大な論説が作中に挿入されている背景には、こうした消息が関与していると私は推察する。

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)