サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(「不機嫌な私」は他者に由来しない)

*人間は生きていれば些細なことで機嫌を損ね、刺々しい感情の虜に堕す。情緒が安定しているのが一番好ましく望ましい状態であることは理窟では弁えているのに、不機嫌に傾斜していく自分自身を押し留めようにも抑止出来ず、無意味な口論や意地の張り合いに明け暮れる。本当は極めて小さな事柄で躓いただけだったのに、それが絞られた引鉄のように無数の惨事を記憶の彼方から呼び覚ます。僅かな蹉跌が致命的な損害へ発展する。全く以て不毛な経緯であるのに、こういう現象は何時まで経っても我々の住まう世界においては払底しない。

 我々は基本的に不機嫌な状態に陥ることを望んでいないが、一方では、不機嫌という現象には奇怪で貧困な「甘露」の味わいが潜んでいる。他人を批判することの快楽が油のように滲んでいる。我々は不機嫌の原因を自分の裡にではなく、他者や物質に求める。つまり、不機嫌の原因を絶えず自分の外部に探すことで、己の不安定な情緒、己の惰弱な理性を免罪しようと企てるのである。こうした態度は聊か欺瞞的なものである。我々の不機嫌が、外界の事物との間に明確な因果関係を持たず、極めて曖昧で恣意的な相関性しか有していないことは、広く知られた経験的事実であろう。同じ出来事に遭遇しても、何とも思わず看過し得る日もあれば、無性に目障りで腹立たしく感じる日もある。このような現実を踏まえて推論すれば、不機嫌の要因は外在的なものではなく、飽く迄も自己の内部に横たわっているということになろう。

 世の中には何時も不機嫌な人間がいて、彼らは絶えず「被害者」のポジションを占有することに余念がない。他人の悪口を常時溜め込んで喧しく囀り、飢えた野犬のように吼え立てる。彼らは他人の所為で、世の中の所為で、自分の内側に形成された厖大な不満を持て余しているのだと尤もらしく告発する。社会に瀰漫する不正義が、他人の歪んだ思想や無遠慮で無神経な悪意が、自分を苦しめているのだと大声で訴える。確かに、不公正な罪悪は批判されるべきである。自分の意見を開陳するのも大切な振舞いであろう。だが、自動化された問責は、鬱陶しいだけである。自分の不幸の原因を自分自身に求めない他責的な態度に、心から敬愛を寄せる物好きは滅多にいない。

 原則として、人が不機嫌になる理由は、自分自身の落ち度である。そのように考えるのが最も建設的で賢明な態度である。他人を批判するのも憎むのも確かに個人の自由で、不合理な要求には異議を唱えることが肝腎だ。けれども、他人を批判するのは、他人の行為が自己に実質的な害悪を齎す場合に限るべきである。自分と無関係な他人の悪事を執拗に批難しても、それは遠吠えのように虚しく、誰の耳にも届かないし、現実を変革する具体的な効力も発揮しない。忌まわしい社会的な事件に憤激したり同情したりするのは大いに結構だ。けれど、そうした事件に自分自身が具体的な対処を試みたり、被害者に救済と慰藉の手を差し伸べたりする訳でもなく、単に批判的な言説を弄して満足するのは、要するにマスターベーションと同じである。他者の悪事を批判するのは簡単なことで、犯罪者を罵言で虐げるのも簡単なことだ。だが、それが一体、誰に如何なる利益を齎す行為であるのか? 単なる憂さ晴らしに過ぎないではないか。

 不機嫌な自分を発見した場合には、成る可く他者の問責という半ば反射的な選択肢から遠ざかるのが賢明である。他者が思いやりを欠いていたり、明らかに不当であると思われるような言動を見せたりしても、それによって自分自身の機嫌まで損ねる必要はない。異論があるのなら、それを相手に説明して改善を求めればいい話だ。無論、対話が不首尾に終わる場合もあるだろう。だが、どんなに親密な間柄でも他人同士の対話なのだから、成功しない対話に落胆したり憤激したりする理由はない。換言すれば、己の不安定な情緒の責任を他人に転嫁してはならない。そのように、自分自身を戒めることを心掛けたいと私は思う。

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 2

 引き続き、バートランド・ラッセルの『幸福論』(岩波文庫)に就いて書く。

 人間が「幸福」という茫洋たる観念に就いて明瞭な視界を確保したいと望む場合、差し当たってラッセルの書物に含まれている記述を悉く点検すれば、その要求は見事に叶えられるのではないかと思う。無論、人生において最も重要な点は、正しい知識を死蔵から救うことであり、知性の溌溂たる活動を極力保持することであるから、この魅惑的な書物に耽溺するだけで幸福な境涯を獲得し得る訳ではない。けれども、彼是と怪しげな教義を渉猟して血迷ったり、他人の無責任な助言に振り回されたりするくらいなら、先ずラッセルの「幸福論」を徹底的に精読した方が遥かに賢明な選択であろうと私は考える。

 ラッセルは「不幸」と「幸福」の原因及び構造に就いて、随時具体的な事例を引きながら明快な分析を縦横無尽に試みている。彼は不幸な人間の典型として三つの種族を挙げている。「罪悪感に囚われた人々」「虚栄心に塗れた人々」「権力に飢えた人々」の三種がそれである。これらの不幸な人々に共通して言えることは、他者との社会的諧和の支障である。罪悪、虚栄、権力の三つの要素は、何れも他者との対等な関係性を歪める働きを有している。

 虚栄心は、他者からの賞讃を劇しく求める心理的衝動であり、実質を欠いた表層的な虚飾で自己の外貌を彩ることに血道を上げる。これは他者に対する悪意に由来するというよりも、自己自身の価値に関する根本的な疑義に淵源を持つ現象だと言えるだろう。自身の実存に就いて確固たる方針を持たず、何を以て人生の歓びと看做すかの私的な定義を堅持し得ない為に、価値判断の尺度を他人の掌中に委ねてしまうことが、虚栄心を培養する最も基礎的な要因である。

 虚栄心に蝕まれた人間は、他者からの賞讃を通じて自己の価値を確認するという迂遠な回路を内蔵している。言い換えれば、他者からの賞讃が得られない場合には、彼らは自己の価値を確認する手段を失い、絶望と倦怠の暗闇へ転落することとなる。もっと言えば、彼らにとっては他者からの拍手喝采だけが至高の歓喜であり、それが得られない状況は直ちに堪え難い精神的窮乏を呼び覚ますのである。

 一般に人生における種々の快楽と歓喜は、自己の内部で確かめられるべき主観的経験である。しかし、虚栄心に蝕まれた人間は、自己完結的な歓喜を信用し、積極的に肯定する為に必要な心理的条件を欠いている。彼らは自己の内在的な感覚に自足し、安住する力を持たない。自己の内在的な感覚に対する絶えざる懐疑、これが虚栄心の根源的な培地である。こうした懐疑が、彼らを心理的な安定性から放逐し、外在的な基準に基づいて自己の正当性を立証しようと試みる迂遠な努力の泥濘へ幽閉するのである。

 自己の主観的事実に対する懐疑、それは一見すると倫理的な知性の象徴のように思われる。主観的事実に耽溺して外部の視線を意識しなくなることは、知的な怠慢の最も典型的な症状である。従って、こうした懐疑を虚栄心という悪徳の濫觴と看做すことに就いては、批判的な見解が集まるかも知れない。

 だが、こうした懐疑、自分自身に対する懐疑、自己否定的な懐疑を、誠実な知性の証明として称揚することは、必ずしも健全な事態に帰結しない。自己否定的な懐疑が懸念しているのは、自分の感覚や信条は事実を適切に反映していないのではないか、という問題である。無論、そのような疑念自体に罪がある訳ではない。現実に対する精確な理解を求める過程で、このような疑念に幾度も囚われることは探究の健全性を示す指標に他ならない。

 しかしながら、こうした自己否定的な懐疑は、厳密な真理は必ず自分以外の誰かが握っていると看做す不合理な信仰に基づいていることを閑却すべきではない。絶対的な真理が外部に存在し、我々は徐々に自己の迷妄を払い除けて、その外在的な真理への到達を図らねばならない、という半ば宗教的な信憑は、いわば「被保護者の論理」である。自力で物事の善悪を弁別する力を持たない幼児が信奉する類の道徳的規矩である。

 我々は「真理」を探究せねばならないが、それは既に確立された完璧に精密な事実の体系を無条件に受け容れて吸収することを意味しない。若しも既に完璧な真理が確立されているのならば、確かに我々は真理への従属以外に如何なる使命も責務も持たないということになる。実際、そのように信じ込んでいる人間は無数に実在する。幼児は親の見解を、この世界の揺るぎない「真理」であると極めて素朴に信じ込む。或いは、教師や上司や公務員や、様々な「目上」の人間の発言をそのまま「真理」として受け容れる若者も少なくない。

 だが、我々の認識能力が真理そのものに「到達」することなど不可能であると考えるべきではないだろうか。確かに我々の知性的な努力は、事物の真相へ接近する為に無数の方策を案出し、計り知れないほど多くの論理的発明を駆使してきた。だが、それらの理論の何れも、事物の真相へ「到達」したと宣言する為に必要な条件を満たしたとは言えない。我々の能力に許されているのは真理への「到達」ではなく「接近」のみである。疑わしいのは自己の享受する主観的な事実だけではない。この世界には主観的事実しか存在しないのだから、他人の声高に訴える総ての見解も、この「私」の抱懐している主観的事実と同様に脆弱な真実性しか確保することが出来ないのである。つまり、我々は誰も「真理」そのものを知覚したり立証したりする資格を有していないのである。

 そうであるならば、専ら自分自身にのみ注がれる猜疑心は、それがどんなに誠実な知性の働きに裏打ちされていたとしても、基本的な均衡を欠いているということになる。批判的な精神は自己にも他者にも等しく向けられねばならず、自己を絶対視して他者を無条件に批難する偏狭さも、他者を過剰に崇めて自己の無智を悔やむばかりの卑屈さも、共に知性的な美徳から遠く隔たっている。

 誰も真理を知らない、という普遍的な現実は、そもそも我々人類の「認識」という機能そのものに由来する構造的な限界であって、それ自体の善悪を論じるのは無益な行為である。誰も真理を知らないからこそ、銘々が自分の頭脳を酷使して、一人一人の実存的状況に応じた真理を発見していく過程に、崇高な意義が生じる。言い換えれば、自己の内在的な感覚を無闇に疑い、否認することは、聊かも「真理」への接近を意味しないのである。

 我々の認識の絶望的なまでに解消し難い主観的偏向、これは必ずしも是正されるべき異常な現象という訳ではない。寧ろ我々の主観的偏向は、人類全体を拘束する実存的な制約なのである。従って我々が重んじるべきなのは、客観的な真理を巡って不毛な論争を繰り広げることではなく、自己の意見の知性的水準を向上させることである。尤も、私は対話の価値を疑っている訳ではない。だが、要するに「勝敗」だけが重要であるような論争の類は時間の空費に過ぎないと考えている。他人を論破することに熱中するような知性の運用は、それ自体が虚栄心の産物に過ぎない。言い換えれば、我々の人生を形成する最も基礎的なプロセスは「自己自身との対話」なのである。これを単なる自閉的な遁走のように看做すのは表層的な偏見である。他者との対話や、現実的な行動によって、無限に循環する「モノローグ」(monologue)の荒寥たる頽廃が打破される場合があることは私も理解している。だが、そうした経験的な事実は「自己対話」の重要性を毫も毀損しない。自己対話のプロセスを欠いた人間にとって、他者の助言も現実的な行動も、単なる偶発的な経験に過ぎず、そこから生じる表層的な帰結を受け止める以外の選択肢は存在しない。換言すれば、自己対話を怠る人間に「他者の言葉」や「現実の出来事」の意味を理解し、咀嚼する能力が備わる見通しは皆無なのである。だからこそ、虚栄心に塗れた人間は「自己対話」の怠慢を通じて、自己自身の真実の姿を黙殺すると共に、他者から寄せられる表面的な讃辞に依存して、その讃辞が誤解に満ちたものであっても何ら痛痒を覚えずに刹那的な充足へ至るのである。

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

 

バートランド・ラッセル「幸福論」に関する覚書 1

 セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読了したので、今はイギリスを代表する思想家の一人に計えられるバートランド・ラッセルの著名な『幸福論』(岩波文庫)を繙読している。

 「幸福」という観念は、極めて内在的なものであり、事物の表層だけを捉えてその有無や強度を測ることの困難な対象である。外形的な不幸の指標、つまり暴力や貧困や疾病といった要素から、当人の主観の内実を推し量ることは可能である。だが、これらの外形的な不幸が皆無であるような条件下に暮らしていても、人間は不幸の泥濘に埋没することの出来る複雑な生物である。経済的に富裕であり、社会的な栄誉に包まれ、一見すると何の不自由もない生活を送っているように見受けられる人間の内面が、恐懼すべき荒寥たる空虚に浸蝕されているという事例は格別、奇異な事態ではない。

 だが、欲望の充足が直ちに「幸福」を意味する訳ではない、という基本的な原理を把握すれば、裕福な名士の抱えるニヒリズムに当惑する理由も消失するだろう。欲望は、自ら欠如を生み出して自ら充足するという循環的な構造を備えている。己の尻尾を呑み込む「ウロボロス」(ouroboros)のように、その円環には継目も終焉もない。一つの欲望が満たされても、ウロボロスは直ちに新たな欲望の火種を、つまり「空虚」を生み出して、自らその充足に向かって情熱を燃え立たせる。貧困に苦しむ人が金持ちに憧れて、実際に悪戦苦闘の末に成り上がったとしても、巨万の富を手に入れた途端、束の間の経済的幸福は揮発し、次なる野心が鎌首を擡げるに違いない。

 放縦な欲望の積極的な肯定は逆説的に、人間を絶えざる不満足の地獄へ陥れる。欲望に基づく享楽を堪能する為には、必ず不満足の状態が必要とされるからである。享楽の歓喜には一刻も早く到達するに如くはないから(少なくとも欲望の原理を全面的に肯定する人間にとって、無用の忍耐は悪徳に過ぎない)、自ずと「飢渇=充足」の反復の間隔は短縮されていく。この遽しいウロボロスの境涯は、所謂「幸福」の対極に位置する実存的形式である。

 既存の充足を蹂躙してでも新たな「欠如」を生成し、それを埋めることで劇しい歓喜を汲み出そうとする享楽的なウロボロスは、一つの場所に留まることも、静謐な生活に親しむことも出来ない。言い換えれば、人間が一般に「不幸」と呼称される状況へ失墜する背景には必ず、享楽的なウロボロスが蜷局を巻いているのである。無論、享楽そのものが幸福という観念に対立している訳ではない。絶えず新たな享楽を得る為に自ら眼前の幸福を破壊し続ける無際限な運動に関して、私は聊か懸念を懐いているのである。

 享楽は麻薬に似ている。両者は何れも常に刹那的な充足であることを強いられ、束の間の快楽が去った後には堪え難い苦痛と虚無が襲来する。強烈な快楽の記憶は、我々の精神を魅了し、その無際限な反復を劇しく希求するように命じる。平凡な日常を「強烈な快楽の不在」として定義する欠性的な認識の様態は、退屈な生活を慈しむ幸福を決して容認せず、承諾もしない。

 だが、欲望が自らの要求を外界によって絶対に叶えられるという見通しは、成り立たない場合が多い。我々の生活は事件と奇蹟の連続ではなく、叶えられる夢よりも踏み躙られる夢の方が多いのが通例である。そうであるならば、享楽的な実存は夥しい不遇の時間に苛まれる公算が大きいということになる。しかも享楽の歓喜は、充填される欠如の大きさに比例するので、前回と同等の歓喜を期待する為に要求される労力の水準は無限に高騰していく。従って享楽の歓喜を得ることは加速度的に困難の度合を増していくのである。

 この災いの原因は、幸福の主な源泉として競争して勝つことを強調しすぎる点にある。成功感によって生活がエンジョイしやすくなることは、私も否定はしない。たとえば、若いうちはずっと無名であった画家は、才能が世に認められたときには、前よりも幸福になる見通しがある。また、金というものが、ある一点までは幸福をいやます上で大いに役立つことも、私は否定しない。しかし、その一点を越えると、幸福をいやますとは思えない。私が主張したいのは、成功は幸福の一つの要素でしかないので、成功を得るために他の要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を支払ったことになる、ということである。(『ラッセル幸福論』岩波文庫 p.54)

 「成功」への執着に関するラッセルの指摘は、様々な事態に共通して適用され得る普遍的な警告である。成功そのものが罪深い訳ではなく、享楽そのものに致命的な瑕疵が内在している訳でもない。問題は、そうした経験を無際限に反復しようと試みる執拗な衝迫の裡に存しているのだと言える。過去の成功、過去の幸福、過去の快楽、つまり二度と戻らないものを無理にでも召喚しようと企てる理不尽で法外な要求が、様々な事物に対する病的な依存と固着を形成し、静謐な幸福の境涯を徹底的に破壊してしまうのである。

 完璧な過去への熱烈な執着、理想的なものへの異常な憧憬、つまり「存在しないもの」への抑制し難い欲望が、人間の幸福に対する最も厳格な宿敵であることに、我々は注意を払わねばならない。我々の関心が倫理的な性質を保持する為には、その照準が「現に存在するもの」へ向かって定められている必要がある。換言すれば、具体的な外界の現実に対する適切な理性的注視だけが、我々の欲望、我々の享楽を倫理的に浄化し、その健全性を保障するのである。

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

 

Cahier(「奴隷」の道徳)

*人間は誰しも他者からの評価を気に病む。毀誉褒貶に一喜一憂し、自己の存在や行動を、多数派の他者が築き上げた普遍的な規矩に合致させることに、奇妙な社会的幸福を感受する。こうした他律的な生き方は、余りにも深く我々の魂を蚕食しており、それ以外の生き方を想像することさえも困難な作業に仕立て上げている。

 他者からの評価に直面し、その趣旨や論点に就いて精確な理解を期することは倫理的な振舞いである。評価の良し悪しに関わらず、その評価の中身を綿密な省察の対象として取り上げる努力は、当人の成長の為には明らかに有益である。しかし、そうした倫理的態度は、自分自身に対する充分な客観的距離を保持している人間だけが選び得るものである。自分自身の主体的な見解を、それも単なる独善的な直感に基づくものではなく、日常的な考察の蓄積の上に築かれた主体的な意見を有さない人間は、必然的に他者からの評価の善悪や妥当性を裁定する能力を持ち得ない。

 私が懸念するのは、こうした「他者からの評価への依存」という心理的状況である。他者の意見を尊重し、共感し、時に反駁するという自然で合理的な行動の規範を妨げるのは、こうした「世評への依存」という病態であるからだ。私は決して「褒められて嬉しい」「貶されて悲しい」という素朴な情念自体を問責したい訳ではない。自己の主体的な意志とは無関係に生起する感情、つまり本質的に無責任なものである感情に対して、道義的責任を問うのは無益な行為である。問題は、そうした感情に対処する倫理的な基準を持ち得るか否かという点に尽きている。

 好ましい世評を得ることを、己の人生の規範として信奉することに、私は賛成しない。他者の評価に依存し、人生の幸福に関する生殺与奪の権利を自ら無数の群衆へ譲渡することの軽率な危険を懸念するからである。自らの実存的形式の決定権を他者に委任するということは、自らの人生を他者への供物として捧げることと同義であり、従ってそれは奴隷の道徳に該当する。

 不毛な誤解を招くことを懼れて慌てて附言するが、私は決して世評を軽視したり、黙殺したりすることが至善であると唱えている訳ではない。世評の全面的な排除と扼殺は、人間の堕落の紛れもなく重大な要因の一つである。だが、世評への全面的な従属と依存も同様に、堕落の根本的な要因であることに注意を促したいのである。重要なのは、世評と対等な立場で向き合い、議論の応酬に努めることであり、完全な黙殺も完全な隷属も共に、世評というものが有する教育的効果を減殺するという点においては共通している。

 世評とは要するに「自己の意見」の巨大な複合体であって、その本質的な価値は「私自身の意見」と等価である。従って世評に対峙する際には、傲慢な素振りも卑屈な態度も共に無用の長物である。我々が専心すべきは「自己の意見」を丁寧に養育し、有意義な発展へ導くことであり、世評はその育成に資する肥料のようなものである。時には、他者の意見に震撼されて、従前の意見が悉く灰燼に帰する場合もあるだろう。それさえ、地道な育成の途上で起きた意想外の事件であるならば、決して「奴隷の屈従」には該当しない。奴隷は絶えず世評の顔色を窺うが、それは飽く迄も自己の保身の為であり、断じて自己の成長の為ではない。従って、奴隷は世評の内実に就いて誠実な省察を加えようと試みる基本的な意志さえ欠いているのである。奴隷は世評の忠実な使徒であるかのような仮面を被っているが、肚の底では何も真剣に受け止めていない。そのような世評が下された理由を自分なりに考えて解釈してみようともしない。奴隷にとって重要なことは、世評が自分を優遇するか否かという一点に限られており、待遇が悪化しないのならば、世評の内実が明らかに不当なものであっても意に介さないのである。つまり、誤解の上に築かれた栄誉ならば恥知らずにも好んで貪るのである。不当で過分な栄光を峻拒し、真実の自分を公表しようとする殊勝な心意気は、決して奴隷の胸底には宿らない。また、不当な冷遇に対して反駁を試みる果敢な精神とも無縁である。不当な世評には屈せず、自身の見解を更に錬磨し、成長させることで報いようと努力する勇猛な情熱は、奴隷の持ち物ではない。

 つまり、奴隷の本質は「阿諛追従の精神」である。たとえ過分なものであっても、優遇さえ購えれば手段を選ばず、如何なる節操も放擲するという精神が、奴隷という実存的形式の本質を構成している。金が儲かればそれでいい、親や教師に褒められればそれでいい、安楽な生活が営めればそれでいい、他人の意見に唯々諾々と従っているだけの生活が一番気楽で望ましい、という奴隷の道徳は、私の最も軽蔑する生き方である。無論、私も古代ローマの賢者たるセネカに倣って「私が悪徳に非を鳴らすとき、その悪徳は何よりも私自身のそれなのである」(「幸福な生について」)という自戒の金言を掲揚することを忘れないように努める。

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 5

 セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)を読了した。

 二千年前の著述が未だに「生」の現実に対する有効性を失っていない。その厳然たる事実に私は驚嘆せざるを得なかった。セネカ古代ローマの激動の時代を生き抜いた有能な政治家であり、その生涯を苛み続けた波瀾の凄まじさは名状し難いものである。つまり、平成末期の極東の島国に暮らす凡庸な会社員である私と、セネカとの間には、特筆すべき如何なる類縁性も存在していない。しかし、セネカの書き遺した粘り強い思索の航跡は、雑事に埋もれ、忙しない日々を歩んでいる私の胸底に夥しい豊饒な示唆を投じてくれた。

 セネカの書き遺した哲学的な思索の燦爛たる輝きと、彼自身が過ごした血腥い政治的闘争の日々との矛盾に着目し、言行の不一致を咎める声は、彼の生前から(つまり二千年前から!)存在していたようだ。確かに彼は「閑暇の生」を称揚し、社会の齎す種々の繁忙に巻き込まれる境涯を厳しい筆致で断罪している。しかし彼自身は隠遁や厭世から程遠く、寧ろローマの皇帝を輔弼する卓越した貴顕の人物であった。その矛盾を、他人から問責されるよりも先に、セネカ自身が明瞭に自覚していたことは疑いを容れない。

 「哲学者は言っていることを実践しない」。だが、現に哲学者は言っていることの多くを実践し、その誠実な心に抱いたことの多くを実践している。なるほど、彼らの言葉と行動が完全に一致するに越したことはない。彼らにとって、それ以上に幸福なことがあろうか。とはいえ、それでも、彼らの善き言葉や、善き思想に満ちた心根を軽蔑してよい理由はないのである。健全さをもたらす学問研究は、たとえ成果が得られなくとも、賞讃すべきものなのだ。険峻な山に挑んだ者が頂きに到達できないとしても、何の不思議があろう。少なくとも君が立派な男子なら、壮図に敢然と挑む者を、たとえ彼が志半ばで挫折しようとも、敬意のまなざしをもって見上げるがよい。みずからの(後天的な)力ではなく、みずからの本然の力を恃んで高邁な企てに挑むこと、きわめて勇敢な精神に恵まれた人でさえ果たしえないほどの壮図を心に期することは、高貴な人にして初めてなしうる業なのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.172-173)

 理想と現実との間には必ず乖離がある。寧ろ、理想は現実との乖離を自らの定義として内包していなければならない。現実と密着し、埋没した理想は、理想ではなく一つの追認である。だから、理想と現実との隔たりを理由に、理想の無効を論うのは無益な振舞いである。同時に、理想を一足飛びに実現しようと焦躁に駆られるのも愚挙の一種だ。簡単に達成される理想は、理想の称号に値しない。

 セネカは享楽的な実存の形式を批判し、自己に立ち返ることの重要性を繰り返し強調した。他人に振り回されたり、欲望の虜囚と化したりすることを厳しく戒めた。それは彼自身が他人の思惑や目紛しく移り変わる欲望の渦中で日々を過ごしていた事実と矛盾するだろうか? その矛盾は彼の欺瞞を証明する根拠以外の意義を持たないのだろうか? 彼は理想に就いて語り、理想と現実との距離を常に弁えていた筈である。

 君は言う、「お前は、言っていることと現実の生き方が違うではないか」と。誰よりも悪意に満ちた者たちよ、優れた人間を見れば誰彼なしに誰よりも敵意をあらわにする者たちよ、その非難はプラトーンに投げかけられ、エピクーロスに投げかけられ、ゼーノーンに投げかけられた。それも故なしとしない。彼らが語っていたのは、自分がどう生きているかという問題ではなく、自分がどう生きるべきかという問題だったからである。私が語っているのも、徳についてであって、私自身についてではないし、私が悪徳に非を鳴らすとき、その悪徳は何よりも私自身のそれなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.169)

 こうしたセネカの言葉を、狡猾な弁明に過ぎないと看做して軽侮し、排斥してしまえば、それで議論は終わってしまう。だが、他者の排撃と断罪が我々の成長を促すことがあろうか? そもそも、人間的な成長とは一回限りの悟達のようなものではなく、絶えず反復的に争われる永久的な苦闘の累積である。一旦辿り着けば、二度と滑落する虞のない安全な境涯が「賢者の幸福」であるという訳ではない。禅宗においても、悟達は幾度も反復されるものであり、尚且つ悟達の裡に逼塞することは戒められる。「閑暇の生」は他人を排斥するものではない。他者の思惑に攪乱されない自己を形成することは、世界から「他者」という名の異物を放逐する為の企図ではない。

 欲望が常に「欠如」を欲する衝動であることに就いては既に述べた。そして「幸福」が既に存在するものへの自足によって齎される精神的状態であることに就いても先述した。それが動物的な自閉性、つまり他者の存在を消去することによって得られる閉鎖的な幸福なのではないかという懸念に関しては、セネカの次のような言葉を引いて報いるべきだろう。

 ある種の自由さをもって論じ始めたのだから、こうも言えよう。幸福な人とは、欲望も覚えず、恐れも抱かない人であるが、ただし理性の恩恵によってそうであるような人である、と。なぜなら、木石にも恐れや悲しみの感情はなく、家畜もまた同様だからである。だからといって、幸福が何であるかの理解が欠如しているものを幸福なものとは誰も呼ばないであろう。愚鈍になった本性と、己に対する無知のせいで家畜や獣の部類に身を落とした者たちは、そうした木石禽獣と同類とみなすべきなのである。そのような人間と木石禽獣のあいだには何の相違もない。なぜなら、木石禽獣には理性というものがいっさいなく、そのような人間にあるのは、己の災いを招く、邪悪さに長けた歪んだ理性だからである。実際、真理の埒外に放り出された人間は誰一人幸福な人とは呼べない。したがって、幸福な生とは、正しく確かな判断の上に築かれた、安定的で不変の生のことなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 p.143)

 これらの経緯は、坂口安吾の言葉を借りれば「人間の尊さは自分を苦しめるところにあるのさ。満足は誰でも好むよ。けだものでもね」(『風と光と二十の私と』)と表現すべき消息であろう。人間は単に動物的な「幸福」の裡へ逼塞すべきものではない。少なくともセネカの考えている「徳」の内実は「木石禽獣」の幸福に身を委ねることを意味しないだろう。重要なのは、世界に関する正しい認識、即ち「真理」を得ることなのである。これは何も怪しげな新興宗教の勧誘の文句ではない。世界の構造と秩序を精密に理解することへの絶えざる理性的努力は、或る固定的で恣意的な結論によって世界の秘密を解決したかのように振舞う「邪宗」の論理の対極に位置している。真理の把握、ただそれだけが、無際限な享楽に堕落することのない本質的な愉悦を、我々の精神に授与するのである。快楽は固より、幸福でさえも人間的な希求の最終的な目標ではない。我々の情熱は只管に、真理への到達に向かって捧げられるべきなのである。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

セネカ「生の短さについて」に関する覚書 4

 引き続き、セネカの『生の短さについて』(岩波文庫)に就いて書く。

 欲望は絶えず「欠如」の認識によって触発され、飢渇に導かれて亢進する。言い換えれば、享楽的な主体は常に自らの所有しない対象、不在の対象、欠如した対象に向かって認識の焦点を合わせている。未だ手に入らないものを求める気持ちが欲望という心理的現象の構造なのだから、享楽的な主体が「欠如」に対して莫大な関心を支払うのは当然の理窟である。

 一方の幸福は、そのような「欠如」への視線を意識的に抑制することで成立するものであり、既に存在しているものへの「慈愛」を自らの倫理の根幹に据えている。事物の欠性的な側面に着目するより、現に存在しているものへ主要な倫理的関心を寄せる方が、欲望に攪乱される危険が相対的に減少するので望ましい、と考えるのが「幸福」の基礎的な方針である。

 だが、我々の内なる享楽性は、既に存在し、手許に潤沢に与えられているものの価値に感謝の念を捧げることよりも、未だ手に入らないものを獲得して、更に己の持ち分を増殖させること、その増殖に附随する「歓喜」の経験に深甚な執着を示すのが通弊である。こうした「増殖」への欲望は、現状と想定される未来との相対的な較差に基づいて喚起されるので、原理的に最終的な「満足」を得る見込みを欠いている。言い換えれば、我々は想定される可能的な未来との較差という形で絶えず自ら「欠如」を形成し、その欠如を埋めることで歓喜を堪能するという無限の循環の裡に幽閉されているのである。自ら欠如を生み出し、自らそれを補填することで快楽を享受するという欲望の原理(これは資本主義の構造そのものではないだろうか?)は、我々の実存に対して片時も休止を許さない。欠如を生み出し、欠如を遠方に設定し、彼我の較差を埋める過程そのものに快楽を発見する欲望の運動は、休止によって死滅するからである。それは享楽的な主体にとっては実質的に「死」を意味している。或いは「涅槃」(nirvana)と呼び換えてもいい。

 だが、冷静に考えてみれば、このような欲望の原理は奇態な機構ではないだろうか? 態々平地に波乱を起こすように、熟睡している赤児を揺さ振って覚醒させるように、欲望は或る純然たる充足の境地を自ら破砕して、現状に対する「不満」を死霊の如く召喚する。そして自ら喚起した飢渇に苛まれ、駆り立てられて、欲望を鎮静する為の夥しい労役に挺身するのである。その過程で得られる「歓喜」の強烈な記憶が、反復への衝動を無限に再生産し続ける。

 恐らくセネカが批判しているのは、こうした欲望の原理であり、享楽的な実存の形式である。欲望の原理は「静謐」という倫理的な美徳に正面から背馳する。そして退屈な日常に亀裂を走らせ、混乱を作り出すことに剣呑な野心を燃え上がらせる。既に存在するものに満足せず、現在の環境に意識を集中することも、眼前の責務に専念することも拒んで、絶えず関心の羅針盤を浮遊させ、様々な外在的表象に操られ、首尾一貫した計画や方針や理念を持たず、欲望の充足という目標に実存の総体を支配されること、こうした生き方を、セネカは「不精な多忙」と呼んで指弾したのである。

 「しかし、精神も快楽を覚えるはずだ」、そう言う人もいる。いかにも、精神にも快楽を覚えさせ、奢侈と快楽の審判人の席につかせるがよいのである。精神をしてみずからを、感覚に喜びを与えるのが常であるありとあらゆる快楽で満たさせ、さらには過去を回想させ、過ぎ去った快楽を思い浮かべてはかつての快楽に酔いしれさせ、さらに将来の快楽を今や遅しと待望させ、次から次へと続く期待に胸ふくらまさせ、肉体が栄養満点の餌に満腹して寝そべりながら今という時を過ごしているあいだ、来るべき未来の快楽に思いを馳せさせるがよいのである。その精神は私にはなおさら不幸に思えるだろう。なぜなら、善きものの代わりに悪しきものを選ぶのは狂気の沙汰だからである。(精神の)健全さがなければ誰も幸福ではなく、いまだ来らざる未然のものを最高善とみなし、それを追い求める者は誰も健全ではない。したがって、幸福な人とは判断の正しい人のことなのである。幸福な人とは、それがどのようなものであれ、現在あるもので満ち足りている人、今あるみずからの所有物を愛している、みずからの所有物の友である人のことなのである。幸福な人とは、理性の勧めに耳を傾け、理性の勧める、みずからが関わる物事のあり方を受け入れる人のことなのである。(『生の短さについて』岩波文庫 pp.144-145)

 セネカの定義する「幸福な人」は、明らかに享楽的な主体の対極に位置付けられている。「幸福」は「存在しないものを追求する」という欲望の原理からは決して析出されない。欲望の原理は寧ろ「幸福への自足」を否認することで駆動し始める。換言すれば、欲望の動力源となる主要な養分は人間の「不幸」なのである。我々が欲望の目指す「享楽」の経験へ到達する為には必ず「不幸」という淵源を作り出さねばならない。それが人類の革命的な進化を支える基礎的な原理であることは確かに明瞭な事実である。だが、進化や成長が必ず我々の「幸福」に寄与すると断定し得る絶対的な根拠は存在しない。

 生理的な「欲求」は完全に満たされることが出来る。空腹という身体的状況は食事という手段によって物理的に解消され得る。だが、例えば「美味しいものを食べたい」という享楽的で審美的な欲望には、完全な充足など有り得ない。何故なら、欲望は常に可能的な未来との関連性を備えているからだ。恐らく我々の欲望の肥大は「記憶」の発達によって促進されている。過去の記憶の蓄積、そこから類推される可能的な未来図、こうした要素が我々を眼前の現実から遊離させ、無限の享楽へ通じる危険な扉を開放しているのである。

 極論を言えば、幸福であるということは原始的な動物性への回帰を含意しているのではないか? 過去に囚われず、未来に煩わされず、眼前の現実に満足すること、そのような自足の境涯を維持すること、それは人間を荒々しく衝き動かす様々な欲望を全面的に否認することである。

 いや、性急な結論に縋るのは控えるのが賢明であろう。セネカも、欲望の根源的な廃絶を提唱している訳ではない。

 さらに、さまざまな欲望には、遠くのものではなく身近にあるものを求めさせ、捌け口を与えてやるようにしなければならない。われわれの欲望は完全に閉じ込められることには耐えられないからである。実現不可能なもの、実現可能であっても困難なものは断念し、身近にあり、われわれの期待に望みをもたせてくれるものを追い求めるようにしよう。ただし、すべてのものは、外見は種々の様相を見せはするものの、内実は等しく虚しいものであり、よしないものであることを知っておかねばならない。(『生の短さについて』岩波文庫 p.104)

 欲望が記憶や想像といった人間の大切な精神的機能と分かち難く緊密に結び付いたものである以上、我々は悪しき欲望の原理と完全に絶縁することは出来ない。だが、そもそも総ての欲望が常に放縦な「享楽」の経験と癒合している訳ではない。つまり、総ての欲望が「幸福」に背馳するという理由だけで自動的に「邪悪」の範疇へ移管される訳ではないのである。

 単に「欠如」そのものを認識し得ないのならば、それは確かに一つの幸福だが、動物的な幸福に過ぎないと批難することも可能だろう。満足は獣でも好むと、かつて坂口安吾は自伝的な小説の一隅に書きつけた。「存在しないものを認識する」という人間の革命的な能力は、無際限な享楽の濫觴であると同時に、人間を動物から類別する重要な指標でもある。「欠如」を認識しながら、敢えて「自足」に留まろうと努める倫理的な苦闘が、セネカの縷説する「徳」の形成に最も本質的な貢献を捧げるのではないだろうか。

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

 

Cahier(「婚姻」の改革)

 「婚姻」という制度を「離婚」という破局(如何なる正当な事由が介在していようとも、論理的に考えれば「離婚」が「婚姻」の失敗した形態であることは明白である)から救済する為には、「婚姻」に附随する様々な有形無形の義務を削減する以外に途はない。

 「婚姻」を「愛」や「幸福」と無条件に接合し、一体的な秩序として取り扱うのは世界的に浸透した考え方であるが、それが半ば宗教的なイデオロギーであることに、我々はもっと明晰な注視を傾けるべきである。「婚姻」は一つの社会的制度であり、「愛」は崇高な感情であり、「幸福」は欲望の断念或いは抑制である。これらの要素は必ずしも相互に緊密な関係や必然性で結び付いている訳ではない。若しも、これらの三位一体が不可避的な現象であるならば、現に「不幸な婚姻」や「愛のない婚姻」が存在する事実を説明出来ない。

 そもそも「婚姻」とは何か、という問題が我々の眼前には立ち開かっている。個人の間で営まれる性愛的な関係そのものが「婚姻」と同じ実質を備えていたとしても、直ちにそれが「婚姻」という観念に値するという訳ではない。単なる恋愛関係が「婚姻」の地位を得る為には、それが社会の定めた規範に則って公式に是認されねばならない。言い換えれば、社会が「夫婦」として認可した関係は総て強制的に「婚姻」の範疇へ移管されるのである。

 従って「婚姻」の具体的な定義に就いては、当人の所属する社会の要請や規範が専ら決定権を有しているということになる。「婚姻」の目的は固より、それが成立していると看做されるのに必要な諸条件は、その制度を決定し運用する社会の性質に左右されるのである。例えば日本の民法は「婚姻の効力」として「夫婦同氏」「同居・協力・扶助の義務」「貞操義務」「成年の擬制」などを明文化している。換言すれば、これらの「婚姻の効力」に対して同意し得ない人間は、日本という社会において「結婚」という法律的手段を選択することが出来ない。

 社会的な合意、或いは社会的な理想や正義と、実際に社会が置かれている状況、その急激な変貌の過程との間には、多かれ少なかれ誤差が生じる。社会的に規定された「婚姻」の定義と、個人の有している「婚姻」の主観的な定義との間には、常に乖離の生じる懸念がある。「同性婚」や「選択的夫婦別姓」などの問題は、こうした乖離に附随する葛藤の具体的な表象である。

 両者の葛藤、つまり「婚姻」の定義(理念)と現実との乖離が増大すればするほど、婚姻の破綻する確率も、婚姻そのものの成立しない割合も上昇していくこととなる。昨今の離婚件数の増加、未婚率の上昇といった統計的現象は、正にこうした乖離と葛藤の深刻化を示す明瞭な徴候であると言える。

 婚姻に関する法律的な規定が、社会的な構造の実情や、国民の価値観との間に良好な融和的関係を有している場合には、離婚件数は抑制されるであろうし、非婚という選択肢を採択する人数も減少するだろう。個人の私生活における一般的な方針や理念と、婚姻の社会的定義との幸福な合致は、かつての日本がそうであったように「皆婚」という奇蹟的な情況を現出させるだろう。

 そもそも「婚姻」の件数を増やし、尚且つ「離婚」という破局を回避することが如何なる目的や理念に資するのか、という根源的な問題に就いて、我々の思索は充分に行き届いていないのではないかと思う。「結婚することが必ずしも幸福を意味する訳ではない」という認識は徐々に一般化しつつあるが、そのような命題の背景に「現状の婚姻制度が個人の幸福と対立する要素を増大させつつある」という認識が存在するのならば、問題は「婚姻か、非婚か」という二者択一の優劣を論じることに集約されるのではなく、そもそも「幸福な婚姻」を成立させる為には如何なる制度設計の変更が必要か、という観点が、議論の主要な基軸として承認されねばならない。

 「婚姻」を「幸福」の手段として定義することに我々が固執するならば、我々の生活の現実、社会の置かれている具体的な実情と乖離した「婚姻」の制度は改革されねばならない。時代的な情況の変貌に即応して制度の更新や改廃を推進するのは、何ら不合理な営為でも、破滅的な選択でもない。伝統の侮辱を意味するものでもない。また「婚姻」と「生殖」を直結させる従来のイデオロギーも見直しの対象となるべきである。児童虐待の問題、つまり子供を適切に養育する資質や能力を欠いた人間が、親権や監護権を主張して第三者の介入を拒みながら、被保護者たる子供を虐待し、場合によっては殺害してしまうという社会的惨劇の背景には、所謂「家庭」の構造の歪みが確実に影響を及ぼしている。育てることが出来ずに産んだ子供を殺害してしまうという悲惨な事例に眼を向けるならば、今後の我々の社会は「出産」と「養育」を一体的に捉えて運用する従来の「家庭」の制度設計にも改訂を加えねばならないだろう。そうであるならば「血縁」に基づいて設計される「家庭」という旧来の基礎的な理念は一旦、否認される必要がある。それは「出産」と「養育」の責任を個々の「家庭」に委任するという既存の価値観の重要な変更を意味している。

 「婚姻」の必須の条件から「出産」と「養育」を除外すれば、恐らく現状では根強い反発と逆風の為に封じられている「同性婚」の問題も、血縁に基づいて構築された「家庭」を社会の基礎的な単位として定めている為に遅々として進捗せずにいる「選択的夫婦別姓」の問題も、解決に向けて大きく前進するのではないだろうか。「里親」制度の拡大も、児童虐待の問題を解決する上では不可避の取り組みであると考えられるが、従来の「血縁」という理念が、その推進に対する障碍や抑圧の効果を発揮している現状は否み難い。つまり、我々は「婚姻」に纏わる夥しい数の偏見や先入観を根本から訂正しなければならない社会的状況を迎えているのである。換言すれば、こうした改革の手続きを粛々と進めない限り、百年後には総ての国民が独身であるような社会が完成することになるだろう。