サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

地上の愛慾に身を焦がして 三島由紀夫「みのもの月」

 三島由紀夫の短篇小説「みのもの月」(『ラディゲの死』新潮文庫)に就いて書く。

 表題の「みのもの月」とは漢字で書けば「水面之月」であり、要するに水面に映じた不安定に揺らぐ月影を意味している。劈頭に掲げられた「往生要集」からの引用が示唆するように、この「水面之月」は内なる煩悩に衝き動かされ、悪しき外縁げえんに誘われて正しい道を逸脱し続ける脆弱な人心の惑乱を象徴している。

 こうした額縁の裡に嵌め込まれた「みのもの月」という作品は、所謂「書簡体小説」(epistolary novel)の様式を選んで、王朝時代の貴族の恋愛に関する心理的移ろいを精妙な筆致で描き出している。平安期に成立した古今和歌集に収められている「我が恋は/むなしき空に/満ちぬらし/思ひやれども/行く方もなし」「夏虫の/身をいたづらに/なすことも/ひとつ思ひに/よりてなりけり」などの和歌が、書簡の文面に然り気なく織り込まれているのも、作者の細心な工夫を感じさせる。

 フランス文学の伝統的精華と謳われる繊細で観念的な「心理小説」に親しみ、別けても夭逝したレイモン・ラディゲの作品に極めて情熱的な崇拝を捧げていた三島が、日本の古典文芸に就いても造詣の深い人物であったことは広く知られている。持ち前の犀利な心理的分析の才能を活かし、繊巧な悲恋の物語を織り成すに当たって、彼が選んだ舞台背景は、中世以降の剛毅で血腥い武家社会ではなく、和歌に託して秘められた恋心を交わし合う平安期の典雅な公家社会であった。古めかしい措辞と現代的な表現が、書簡体小説という様式の強いる口語的な文体の裡で滑らかに溶け合い、躍動的なリズムを伴って、幾重にも折れ曲がった複雑な心理的葉脈の姿を読者の視野に浮かび上がらせる。「花ざかりの森」や「苧菟と瑪耶」といった他の若書きの作品と比較して、小説としての完成度は群を抜いて優れているように思われる。

 描かれている心情の遷移は、凡庸であると言えば確かに凡庸で、恋する者と恋される者との主導権を巡る陰湿な鍔迫り合いの過程が、纏綿たる告白体の文章の裡にぎっしりと詰め込まれている。恋愛においては「惚れた方が負け」という通俗的な経験則が頻々と囁かれる。自分と相手と、何れがより強く深く惚れているかという感覚的な計測に対する固執は、誰しも身に覚えがあるだろう。「自立/依存」という簡明な対義語で示されることもある、こうした恋心の煩瑣な消息は、正に「心理小説」の重要な、或いは唯一の主題である。追い縋る者と逃げ惑う者、これらの心理的立場は決して恒久的に不動である訳ではなく、些細な出来事を契機として幾度でも反転し得る。これらの心情の繁雑な遷移は、厳密には如何なる結論にも帰着しない。「結婚」が一つの完結的な答えであると看做すのは安直な思い込みであり、法律や宗教による「婚姻」という様式の賦与が、恋愛における厄介な感情の交錯を無条件に整除し、解決することはない。

 そもそも自ら蒔いた種であるとはいえ、友人である少将に女の慕情を奪われた男は、浮世の縁を絶ち切って出家遁世した後、間もなく入寂して浄土へ赴くこととなる。それは現世における錯雑した煩悩の密集からの、一つの決定的な救済であり解放である。出口のない愛慾の煩悶から免かれる唯一の方途として古来、仏道の教えは重要な役割を担ってきた。肉身を去った男は穢土の柵を離れ、清浄な彼岸へ移行して煩悩の累積から脱却する。しかし、地上に遺された女は、男の没後も猶、底知れぬ愛慾の苦しみの裡に閉ざされて、超越的な救済から見限られているのである。

 あまねき虚空界の荘厳を、あなたは目のあたりみていられるのでございましょう。そよかぜにゆれうごく四色の蓮や、瑠璃の池、珊瑚の花々も、百宝の色鳥のこえも、もろもろの宝樹に熟れづく綾うつくしい木の果も、いつかはわが身の今日となるのでございましょうか。いいえ、それはなりますまい。瓔珞のかげからどうぞわたくしに繽紛と花のはちすをお降らし下さいまし、はるかのそらにかかる無量の琴のねを、この地上にあって哀しみにたえております女の耳におきかせ下さいまし、わたくしは、みのもの月でございますから。(「みのもの月」『ラディゲの死』新潮文庫 pp.35-36)

 掉尾を飾る女の絶唱は、例えば中上健次の「岬」や大江健三郎の「他人の足」の幕切れに匹敵する鋭く哀切な印象を、私の心に植え付ける。十代の若さで、斯様に卓越した音楽的な語り口を自在に操り、一篇の古雅な悲恋の物語を仕立て上げた三島の技倆はやはり、瞠目すべき才能だったのだと痛感させられる。

ラディゲの死 (新潮文庫)
 

「夭折」の再演 三島由紀夫「朝の純愛」

 三島由紀夫の短篇小説「朝の純愛」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 昭和期の戦後文学を代表する多才な文豪であった三島由紀夫の業績を要約して、要するに彼の取り扱った最も重要な主題は「アンチエイジング」(anti-aging)であったと断定したら、何を下らない戯言を吐いているのかと世人に叱られるだろうか。しかし、この簡素な要約は決して荒唐無稽の偏見ではない。実際に彼の遺した作品の随所に「老衰への恐怖」の心理的痕跡を発見することは少しも困難な作業ではないからだ。「老境の美」や「精神の美」といった言い訳がましい審美的理念を、彼の肉体的感性に対する執着心は聊かも尊重しなかった。例えば、美しい同性愛者の青年と、彼を寵愛する老年の作家との複雑な関係を描いた大作「禁色」には、次のような記述が含まれている。

 二条派の歌人頓阿の歌集や、志賀寺の上人の頁をひらいた太平記や、花山院退位の件りの大鏡や、夭折した足利義尚将軍の歌集や、古いいかめしい装幀の記紀があった。記紀には、多くの若く美しい王子が、邪まな恋や叛乱の謀事の挫折と共に、青春のさかりに命を絶たれ、あるいは自ら命を絶つという主題が、執拗に反復される。軽皇子がそうである。大津王子がそうである。挫折した古代の多くの青春を俊輔は愛した。(『禁色』新潮文庫 p.672)

 三島にとって「美」は絶えず肉体的な感官を通じて享受されるべきものであり、例えば「人柄」を「美」と看做すのは単なる抽象的な比喩の表現に過ぎない。従って、三島にとっての「美」は、必ず「若さ」との間に不可分の紐帯を有する。老化は「美」の緩慢な腐蝕と崩壊の過程であり、敢て老残の身の上に或る精神的で理智的な「美しさ」を読み取ろうとする欺瞞的な認識の努力は、少なくとも三島の耳には無益な詭弁としか響かなかっただろう。従って「美の絶頂において死ぬこと」が、三島の審美的な規矩においては、最も理想的な様態であるという結論が導き出される。「青春のさかり」を過ぎても猶、朽ちていく肉体を伴って生き永らえることは無惨な敗北の過程に過ぎず、如何なる「美」も宿命的な「半減期」の経過を免かれることは出来ないのである。

「さあ、呑みたまえ」と俊輔が言った。「秋の夜、君がそこにいる、葡萄酒がここにある、この世に欠けたものは何一つない。……ソクラテスは、蟬の声をききながら、朝の小川のほとりで、美少年パイドロスと語った。ソクラテスは問い且つ答えた。問いによって真理に到達するというのが彼の発明した迂遠な方法だ。しかし自然としての肉体の絶対の美からは、決して答は得られないのだよ。問答は同じ範疇の中でだけ交わされる。精神と肉体とは決して問答はできないのだ。

 精神は問うことができるだけだ。答は決して得られない、谺のほかには。

 私は問い且つ答えるような対象を選ばなかった。問うことが私の運命だ。……そこには君がいる、美しい自然が。ここには私がいる、醜い精神が。これは永遠の図式だ。どんな数学もお互いの項を換えることはできないのだ。尤も今では、私は自分の精神を故意に卑下したりするつもりはない。精神にもなかなかいいところがある。(『禁色』新潮文庫 pp.676-677)

 三島にとって「美」は、感性的なものから切り離し得ない官能的現象であり、その反対に「精神」は、本質的に醜悪な機構として定義される。少なくとも「精神」そのものが直接的に「美」という具体的な形象の姿を伴って、人の感官を潤すことは不可能である。「精神」は外在的な「美」を観照することは出来るが、決して自ら「美」の内部に到達し、「美」そのものに化身することは出来ない。

 恐らく三島の性急な不幸は、彼が「美」を観照し、認識する側の人間であることに自足し得ず、例えば谷崎潤一郎のように女性の神々しい「美」に向かって拝跪し平伏することだけでは満たされずに、自らの存在そのものを絶対的な「美」へ化身させ、他者の欲望の対象として提起することに極めて強迫的な執着を懐いていたことに由来すると思われる。

 美は、これに反して、いつも此岸にある。この世にあり、現前しており、確乎として手に触れることができる。われわれの官能が、それを味わいうるということが、美の前提条件だ。官能はかくて重要だ。それは美をたしかめる。しかし美に到達することは決して出来ない。なぜなら官能による感受が何よりも先にそれへの到達を遮げるから。希臘人が彫刻でもって美を表現したのは、賢明な方法だった。私は小説家だ。近代の発明したもろもろのがらくたのうち、がらくたの最たるものを職業にした男だよ。美を表現するにはもっとも拙劣で低級な職業だとは思わないかね。

 此岸にあって到達すべからざるもの。こう言えば、君にもよく納得がゆくだろう。美とは人間における自然、人間的条件の下に置かれた自然なんだ。人間の中にあって最も深く人間を規制し、人間に反抗するものが美なのだ。精神は、この美のおかげで、片時も安眠できない。……」(『禁色』新潮文庫 pp.679-680)

 「美」を観照したいという感情と「美」そのものに到達したいという感情とは、必ずしも等号では結ばれない。他者の美しさを愛でることと、自己を美しく装って他者の嘆賞を購うこととは同義ではない。「認識」における「美」は、必ず外在的対象との適切な「距離」の介在によって成立する。しかし「存在」としての「美」は、自ら「美」として存在し、振舞い、評価されるがゆえに、そのような「距離」を持たず、言い換えれば「美」そのものと、僅かな間隙さえ生まずに一体的に融合している。これらの違いは三島にとって決定的な意味を有していた。

 「禁色」における檜俊輔と南悠一、或いは「豊饒の海」における本多繁邦と松枝清顕や「女神」における周伍と朝子、そして「金閣寺」における溝口と「金閣」の対比的な関係は悉く、こうした「美」に関する「認識/存在」の二元論的な構図を踏まえていると言える。「朝の純愛」においては、自らの肉体を通じて顕現する「美」を如何にして永保ちさせ、時間の経過に伴う宿命的な衰滅から逃れるかという実存的な意識が、作品の主題として挙げられている。美しいものは、時間の経過という不可逆的な腐蝕の圧政の下に虐げられ、必ず当初の崇高で瑞々しい価値を喪失するよう定められている。例えば「結婚」の論理は、そのような時間的腐敗を恒常化させ、一つの様式として整備する為に組み立てられている。情熱的で悲劇的な「恋愛」の論理と比して、その保守的な性質、避け難い「倦怠」を常態化する「結婚」の論理は、恐らく三島にとって受け容れ難いものであったに違いない。彼が「幸福な夫婦」を描く代わりに専ら「不倫」や「情死」といった破滅的な「恋愛」の諸相を取り扱ったのも、そうした理由に根差していると思われる。彼が容認し得る「幸福な夫婦」の稀少な範型は、例えば「憂国」において描かれた若く美しい夫婦の姿だけで、しかもそれさえ崇高で厳粛な「大義」の名の下に自裁することで「時間」に基づく腐敗を免かれた為に、辛うじて許容されているに過ぎないのである。

 それとも二人だけの愛の思い出に生きていた、と云ったほうが適当かもしれない。彼らは一刻一刻を、あの最初の出会に、あの美しい最初の愕きに賭けていた。玲子は五十歳の良人に、くりかえし二十三歳の面影を見出し、良輔は四十五歳の妻に、たえず十八歳のういういしさを発見していた。

 これはグロテスクなことだろうか? これほどまでに主観的な美の幻影を、他人に納得させるのは不可能なことだろうか? 実は二人が実際に二十三歳であり十八歳であることをやめてこのかた、すなわち彼らの二十四歳と十九歳以来というもの、これは人生に於て、というよりは、人生を向うに廻しての、二人のもっとも重要な課題になっていたのだ。彼らは実に執拗に諦めなかった。何度でも最初の幻影に戻って来てそれを確かめ、かれらの外見の異常な若さがそれを扶けた。(「朝の純愛」『女神』新潮文庫 p.316)

 良輔と玲子の夫婦は、絶えず「時間」の経過による肉体の劣化に抗い、肉体と密接に結び付いた「美」の劣化を否定しようと格闘している。傍目には、こうした努力は明白に「グロテスク」であり、少なくとも不自然である。如何に徹底的な謀叛を試みようとも、刻々と過ぎ去り積み重なる「時間」の不可逆的な進行を、人間の賢しらな努力が食い止めることは不可能に等しい。

 二人が呼び起そうとしたことは単純なことで、ある五月の朝、さわやかな少女の目が、愛する青年の姿にそそがれ、野には露が充ち、地平線には戦争と生の不安が大きく立ちふさがり、別れが予定され、接吻が暁の最初の一閃のように二人の若い唇をよぎり、……そういう忘れがたい愛の至福の姿であった。しかし結婚して二十年このかた、良人はいつもそこにおり、妻はいつもそこにいた。誰がそれを咎めることができたであろう。そこにいる、ということは、変えようのないことであり、そこにいるということが確実になったときから腐敗は進行する。二人は世のつねの夫婦とちがって、全力をあげてこの腐敗と分解作用に抵抗しようとしたのである。(「朝の純愛」『女神』新潮文庫 pp.319-320)

 良輔夫婦の努力は「結婚」という社会的制度が強いる一般的な要請に正面から逆らっている。彼らは「恋愛」の情熱を恒久的に保持しようとする奇態な祈りに魂を拘束されているのである。時間の経過によって毀損されることのない「恋愛」の新鮮な活力を繰り返し蘇生させる為に、彼ら夫婦はあらゆる術策を弄した。見ず知らずの本物の若者との情事を通じて「幻影」を極限まで強めた二人は、遠い昔に失われた鮮烈な「恋愛」の記憶を体現してみせる。その幻想的な絶頂に達したところを、欺かれた若者の兇刃に刺し貫かれて果てるのは、夫婦にとっては思わぬ余慶であったかも知れず、或いは不快な誤算であったかも知れないが、作者にとっては完璧な審美的幻想を仕上げる為の素晴らしい着想であったに違いない。殺されることによって、彼らは「生の腐敗」という悲劇的な宿命から救済されたのである。言い換えれば、この「朝の純愛」において描かれたのは「夭折の再演」であり、謂わば「青春のさかり」に完璧な死を遂げることの出来なかった男女が、人為的な策略を通じて喚起された幻想的な「青春のさかり」において、擬似的な「夭折」を実現する物語であると要約することが出来るだろう。それは戦時下の青春において英雄的な「死」の栄誉に与ることの出来なかった作者が、容易に捨て去れず抱懐し続けた不可能な夢想の反照のようにも感じられる。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫
 

近親姦と死者 三島由紀夫「雛の宿」

 三島由紀夫の短篇小説「雛の宿」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この簡素な作品には、歴然たる霊異の彩色が盛られており、官能と禍々しさの入り混じった情景の数々は、単純な怪談とも割り切れない独特の風味を備えている。女子の成長を祈念する桃の節句と、胡散臭い安手の娼館とを結び付けるのは如何にも悪趣味な結構だが、果たして彼らは本当に単なる売春の母子に過ぎないのか、読者に疑わしく想わせる微妙な匙加減が(そもそも、語り手である「僕」が情事の代価を払う描写は作中に存在しない)、不穏な気品を作品の全篇に行き渡らせている。特に「雛の宿」を秋に再訪した「僕」が、庭から硝子戸越しに雛壇と母子の姿を目撃する場面の怪異なイメージは、有り触れた自然主義的な現実を巧みに遠ざけて、読者の感性をふわりと宙に浮かせるような効果を担っている。

 若しも深入りしたら、謎めいた母子の思惑通り、この迂闊な青年は「男雛」として迎えられ、二度と俗世間へ復帰することが出来なくなるのではないかと想像させる「異界」の手触りは、近隣の住人によって与えられた「あの母子は色情狂に過ぎない」という無粋な証言にも拘らず、簡単には薄れようとしない。「僕」が一夜の契りの記憶だけを遺して立ち去って以来、この「雛の宿」の時間は無限の膠着へ陥ったようにも見受けられる。彼ら母子の存在を「色きちがい」という単純な要約で片付けてしまうのが適切なのかどうかも判然としない。

 繰り返し男を引き込んできたと証言される母子の雛祭りが、時候を過ぎても終わらずに続いているのは、語り手である「僕」が、彼ら母子によって最愛の「男雛」に相応しいと見込まれた人物であり、彼が戻らなければ「雛壇」の秩序が完成しないからではないかと推測することは可能である。彼らは切実な理由に強いられて優れた「男雛」の登場を待望している。しかし、過去に幾度も男を引き込んだと証言されていながら、継続的に「男雛」の役割を務めている人物が見当たらないことを鑑みると、彼ら母子の宿願は絶えず失敗に帰着してきたのだろう。或いは、もっと怪談めいた解釈を試みるならば、歴代の「男雛」たちの身の上を何らかの血腥い不幸が見舞ったのだと考えることも出来る。

 けれども、近所の住人の「ここ半年ほど、男の噂もきかないやね」(p.309)という証言を考慮に入れると、やはり「僕」の登場は彼ら母子にとって特別な存在であったように思われる。だからこそ「僕」が去った後も雛壇は片付けられず、母子は「その少女のかたわらに僕がいたときと同じ姿、同じ位置、同じ向きに坐っている」(p.310)のである。この記述は明らかに「雛の宿」において時間の流れが停止していることを示唆している。

 僕はずいぶん永いことそうしていた。母子は微動もしなかった。まるで木彫の彫像のようだった。そしてもし僕が声をかければ、彼らは本当の木彫の彫像に化してしまうのではないかと思われた。……(「雛の宿」『女神』新潮文庫 p.311)

 大事な「男雛」が立ち去って戻らなかった為に「雛の宿」の時間は停止し、母子は「木彫の彫像」のように身動きしなくなっている。或いは、この母子は雛人形の化身であるのかも知れない。その間接的な証左を、次のような記述の裡に読み取ることが出来るのではないか。

 僕は大そうおどろいた。二人の膳は、呆れるほど小さかったのである。

 それは誇張して云えば、灰皿ぐらいの大きさの膳で、膳部はまた、ピンセットで作ったかと思われる料理だった。お膳の上には、ちゃんと、椀もあり、御飯茶碗もあった。椀をあけると、淡紅のごく小さな麩の断片と、三四本の春雨と、みつばの一葉が浮んでいた。(「雛の宿」『女神』新潮文庫 p.303)

 雛人形の精巧な小道具を想わせる、これらの食器に関する描写は、彼ら母子が人外の存在であることを暗黙裡に物語っているように思われる。「男雛」の消滅は、彼らを再び「人形」の状態へ復帰させたのである。それは何故なのか。彼らは時間の堆積を乗り越えて「男雛」の再来を待つ為に「人形」の状態へ回帰し、いわば「不朽」の鎧を纏おうと試みたのだろうか。或いは、こうした「不動」の状態こそ、彼ら母子の本質である「人形」の様態を露顕させた姿であると単純に解釈すべきだろうか。

 しかし、若しも「僕」という「男雛」への執着がそれほど劇しいものであるならば、彼らは何故、再び巷間に踏み込んで「僕」の所在を暴き立てようとしないのか。彼ら母子は何故、頑なに揺るぎない「待機」の状態へ踏み留まり続けているのか? そのように考えると、やはり「男雛」の消滅によって「雛の宿」における時間の流れそのものが停止したと看做すのが妥当な推論であるように思われる。彼らは意図して「待機」しているのではなく、そのような「待機」の状態を不可避的に強いられているのだ。しかし、何故「男雛」の消滅が、彼ら母子の「雛祭り」を無限の停止へ陥らせるのだろうか? 語り手の「僕」自身が作中で訝ったように「どうして僕でなければいけないんだろう」(p.294)か?

 例えば次のような記述は、これらの疑問を解明するに当たって何らかの有益な手懸りを提供してくれるだろうか。

 僕はパチンコのハンドルをはねながら、横目で彼女の横顔をぬすみ見た。

『おや、死んだ妹だ』

 とその瞬間、僕は思った。

 この印象はふしぎだった。つくづく見ると、少女はそれほど妹に似ていはしなかった。眉のやや濃いところも、丸顔の頬のえくぼも(おそらくそのえくぼは、パチンコに熱中して、力を入れて口をつぐんでいるために、現われたものだった)、可愛らしい鼻も、大きな目も、これと謂って、妹と似ていたわけではない。多分妹の死んだ年齢と同年輩の少女を見ると、すぐ妹を思い出す癖が、そのころの僕についていたせいだろう。(「雛の宿」『女神』新潮文庫 p.289)

 「雛の宿」の少女と、昨夏に亡くなった妹が、必ずしも物理的な意味で類似している訳でもないのに、半ば反射的に同一視されていることは意味深長である(三島自身、十七歳で病死した妹に特別な愛情を寄せていたという)。「僕」は死んだ妹を想起させる女と、成り行きに強いられた結果であるとはいえ、官能的な一夜を過ごす。けれども、その甘美な経験にも関わらず、彼は「雛の宿」に戻らなかった。単純に解釈するならば、それは死んだ妹と重ね合わされた女性との情事が、近親姦の禁忌への抵触を暗示している為だろう。

 「たえがたい衝動」(p.308)に襲われた「僕」が「雛の宿」を再訪したとき、母子は身動きせずに無言で対座し、雛人形は半年前と変わらず煌びやかに飾られたままである。この「時間の停止」は「死」を暗示しているように思われる。雛人形が古来、嫁入道具の一つに数えられてきたことは周知の事実だろう。その雛人形が「男雛」を欠いたまま、無限の膠着の裡に閉じ込められている情景は、若くして男を知らずに亡くなった妹の不幸な境遇を比喩的に示しているように思われる。主を失って用済みとなった憐れな雛人形は、そのまま不朽の沈黙の裡に留置されるしかないのである。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫
 

Cahier(総てが「物語」であるのならば)

*まるで定期的な衝動が迫り上がるように、難解な古代ギリシア思想の断簡や後世の概説を啄む日々から離脱し、懐かしい風景に巡り逢うように、三島由紀夫の短篇小説を読み漁る生活に復帰している。

 哲学は専ら純然たる理窟の伽藍であるように思われがちだが、如何なる歴史的文脈にも規定されない生粋のロゴスなど存在しない。例えば柄谷行人は『哲学の起源』(岩波現代文庫)において、イオニアの自然哲学の特質を、当時の社会や政治の状況と密接に重ね合わせながら論じているが、或る思想家の置かれている実存的な状況と、その思想家の信奉し提唱する学説との間に相関や因果を見出すのは当然の成り行きだろう。それならば、哲学的な思惟というのも煎じ詰めれば「歴史」であり「物語」ではないのか。そういう外在的なコンテクストを完全に離れて、何かを論じたり訴えたりすることは誰にも出来ないのではないか。誰もが歴史的な制約、相対的な条件の下で考え、それが普遍的な真理に到達することを願っているが、そんなものは何処にも存在しないのではないか。普遍を願うことが一つの積極的な美徳であるとしても、それは当初から不可能な夢想ではないのか。誰が絶対的に正しいのか? そんな絶対的な正しさが本当に人間には必要なのだろうか。

 所詮、総てが「物語」に過ぎないのならば、つまり「霊魂」は「肉体」という「棺桶」に葬られた不幸な亡骸であり、肉体的な死は霊魂の復活と救済を意味するという宗教的な説話も、マスクを着用すれば感染症の予防に役立つという当世流行の素朴な医学的信憑も、悉く相対的な「物語」以上の特権性を持ち得ないのであれば、理窟ばかり追い回すのも馬鹿馬鹿しい。自分の相対性を迂闊に失念するくらいならば、如何にも「真理」に相応しい表情で緻密な論理を構築するプラトンの几帳面な思惟を一蹴した方が賢明ではないか。プラトニズムは、それ自体が一つの「物語」である。普遍的な「真理」の啓示を標榜する様々な権力に尻尾を振り続けるのは退屈だ。だったらいっそ、無限に生起する浮薄な「物語」の群れに紛れて泳いでいる方が遥かに健康的ではないか。

 別に私は哲学の価値を殊更に貶下している訳ではない。その空理空論が、何らかの実存的な経験に由来するものであるならば、その浮世離れした論理的構成を無闇に批難する理由もない。けれども、随分と抽象的な仕方で語る必要があるだろうか。少なくとも、それは「私」という人間の個性に相応しいだろうか。結局、誰もが何らかの「物語」を語っているのであり、問題はそれを語るナラティブの形式の違いの裡に存するだけではないか。それならば、そもそも「語る」とは如何なる意味を含んだ言葉なのだろう? 音楽を奏でることも、映画を撮ることも、複雑な数式を書き連ねることも、酒場で女の子の髪を撫でることも、要するに何らかのメッセージを発信しているという意味では、同じ「語る」行為に他ならず、その表層的な差異は専ら技法の差異に関わっている。

 私は絵空事の「物語」に埋没するのではなく、もっと直截に、実際的な仕方で「世界」に就いて学びたいと願ったのだった。けれども、どんなに実際的な論説に触れてみたところで、それが一つの相対的な「世界観」の表明に過ぎないという意味では、同じことではないか。少なくとも「生きる」という現場の局面においては、難解な理窟も身勝手な情念の吐露も同じ一つの表現に過ぎないのではないか。私はもっと彩りのある言葉で綴られた「世界観」に触れたいと感じたのかも知れない。整理された思想史の概略が聴きたいのではなくて、もっと難解で屈折した、切実な個人の「物語」を欲したのかも知れない。「世界観」が一つの限られた「主観」に他ならないことは明瞭だ。言い換えれば、私はもう「正しさ」なんか嫌いなのだ。「正しさ」には必ず有効期限が附せられているのに、その永久的な栄誉を信奉する人々の独善的な自負がもう退屈なのだ。「正しい」というだけで、何の価値があるのか。それで何が満たされるのか。馬鹿げている。私たちは完璧なアンドロイドじゃない。座標軸から逸脱した「物語」の歪みだけが魅惑的なんじゃないのか。

退屈な幸福と、ロマネスクな不幸 三島由紀夫「鴛鴦」

 三島由紀夫の短篇小説「鴛鴦」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 一般に「鴛鴦」とは仲の睦まじい夫婦や恋人の比喩に用いられる言葉である。その比喩に相応しく、この作品に登場する久一と五百子のカップルは頗る気の合う二人で、無難で保守的な処世訓の信奉者である点においても見事な類似を示している。

「僕たちはどうあってもあんな人たちと同じ道は歩かないように気をつけましょう。僕たちはことあれかしと祈っている人たちの犠牲になってもはじまらない。早まりすぎた云い方かもしれないが、僕たちは後悔のない行い、着実な幸福、篤実な満足、大きすぎず又小さすぎない自尊心、こういうものに則った行動しかとりますまい。僕たちはありふれていて何一つとして例外のない生活だけを一生の目安にしようと努めましょう。僕たちは過誤あやまちに忠実であるように、理性にも忠実になりましょう。そうしてもう芸術家なんかが大きな口をきけないようにしてやりましょう。僕は創造つくられているだけで満足しているのに、あいつらは僭越にも創造ろうとする。それでいてあいつらは、人間の子供ほどに完璧なものを創造ったためしがないのです」(「鴛鴦」『女神』新潮文庫 pp.279-280)

 この麗しい恋人たちが共通の宿敵として挙げているのは「小説」であり「芸術家」である。彼らの健全な市民的道徳、如何なる不満とも無縁の即自的な充足は、わざわざ絵空事を拵えたり、他人の醜聞を題材に大仰な物語を作って大衆の拍手喝采を購ったりする小説家の不道徳な生活に対する敵意を養っている。彼らの幸福は完璧で、世間の模範として仰がれるに相応しい堅実な充足に鎧われており、それゆえの自己愛的な陶酔が、あらゆる煩瑣な苦悩を無効化するように彼らの精神を薄汚れた外界から防護している。小説家に対する彼らの清々しく不遜な蔑視は、彼ら自身の完璧で実際的な幸福に根差しているのだが、作者の視線は底意地が悪く、二人の幸福な自己陶酔の共有が所詮は幻影に過ぎないことを淡々と告知する。但し、作者の皮肉な眼差しは両義的な振幅を孕んでいるようにも感じられる。

「偶然の暗合ってあるものだね。久一も五百子も、おのおのの母親が小説家に欺されて生んだ子なんだよ。安心したまえ。その小説家は同一人じゃないさ。小説家なんて掃いて捨てるほどいるんだからね。ところで母親が芸術家を呪って胎教を施した。その結果、あんな見事な子供が生れたのさ。今日の新郎新婦の最大の幸福を教えようか? それはかれらが出生の秘密を知らないということなんだ」

 ――しかし私はこの皮肉家の中傷をきくまいとして耳に栓をした。(「鴛鴦」『女神』新潮文庫 pp.281-282)

 恐らく多くの典型的な小説は、登場人物が自らの「出生の秘密」を目の当たりにすることによって初めて物語のダイナミックな運動の渦中に抛り込まれる。けれども久一と五百子の健全な市民的幸福は、如何にも通俗的な「出生の秘密」という観念を排除することで成立している。彼らの欺瞞的な充足と陶酔を、作者の筆鋒は確かに揶揄しているが、その一方で、この作品の語り手である「私」は「皮肉家の中傷」に対して不快を覚え、耳を塞いでいるのである。それは「小説的なもの」によって毀損されようとしている健全な幸福の呪われた運命に対する拒絶の身振りではないのか。「芸術的なもの」と「市民的なもの」との折衷し難い疎隔に就いて、作者の価値的な判断は曖昧に結論を保留しているように思われる。

 久一は絵に描いたような好青年で、学業に就いては怠慢であっても、恵まれた家庭に生まれ育ち、就職には困らず、馬術という優雅な趣味を嗜み、優しくて温和な為人を備えている。彼は小難しい「分析」の悪癖に汚染されておらず、暴力的な肉慾に苦しめられて性急な悪事へ手を染めるような愚行とも無縁である。狂おしい恋愛の情熱と、それに伴って生じる数々の悲喜劇は、所謂「小説」というジャンルの取り扱う主題の中で最も普遍的な代物だが、そのような常軌を逸した奇行や乱行の類は、健全な市民的幸福の正統的な体現者である久一の与り知らぬ世界である。彼は専ら健康で安全な「自己満足」に淫している。

 恐らく作者は、久一と五百子が味わいつつある無難で退屈な幸福、日常性の権化であるような凡庸極まりない幸福を決して信頼せず、心から満足することも出来ない性質の人間である。しかし、それゆえに「完璧な幸福への自足」という聊か愚かしい男女の肖像に、一抹の憧憬を懐いたのではないかと推察することも出来る。尤も、そのように堅実で瑕疵のない即自的な幸福が、他ならぬ芸術家との不倫という如何にもロマネスクな出来事の所産であることを殊更に付け加える辺りに、作者の皮肉な冷笑を聴き取ることは容易である。三島の示した微かな憧憬が、嘲弄と綯い交ぜになった複雑な感情の或る側面に過ぎないことは明確だ。彼自身は決して、久一と五百子のような、殆ど「退屈」と同義語の市民的幸福に満腔の賛意を捧げようとは考えない。三島のロマネスクな本能は、赫奕たる日輪のような悲劇的栄誉を死ぬまで欲し続けたのである。日常的な現実への痛烈な峻拒は、彼の生得的な欲望が齎した必然的な措置なのだ。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫
 

「訓誡」に化身した宗教的愛慾 三島由紀夫「侍童」

 三島由紀夫の短篇小説「侍童」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 年長者が教育や訓誡を建前として年少者を寵愛する風習は、例えば古代ギリシアにおける「少年愛」(paiderastia)などの豊富な歴史的事例を備えている。この「侍童」における伊佐子と久の迂遠な関係は、ソクラテスが愉しんだパイデラスティアとは違って異性愛の範型に則っているが、愛情が訓誡の仮面を被って顕れている点では同様である。若く美しい未亡人である伊佐子は、凡百の嫉妬を宗教的な罪悪の観念と結び付け、久に対する通俗的な肉慾を崇高な教育者の情熱と巧みに掏り替えている。恐らく「結婚」という社会的制度は「敬虔な基督教徒」である伊佐子にとって特別な重みと倫理的な聖性を兼ね備えた営為であり、従って夭逝した亡夫への貞節は、クリスチャンとしての信仰に関連する道徳的な格率と分かち難い。離婚や姦通を断固として容認せず、婚姻という秘蹟を神意の賜物として崇めるカトリックの教義を信奉する限り(尤も、死別の場合の再婚は赦される)、久への素朴で官能的な恋慕が峻厳な抑圧の裡に閉じ込められるのは自然な成り行きである。

 抑圧された感情は、宗教的な解釈に基づいて翻訳され、単純な恋慕の情熱は、道徳的な博愛の観念と等号で結ばれる。伊佐子は娼婦を買った久の罪悪を浄める為に神へ祈りを捧げ、彼を穢れた過ちから救済する為に熱心な訓誡を垂れる。彼女はそれを自らの宗教的な誠意として、信仰に対する情熱の所産として定義するだろう。しかし、それは精妙な欺瞞に過ぎないのではないか。抑圧された感情は決して消滅せず、相反するものの扮装に隠れて密かに当初の目的を遂げようとする。彼女の訓誡は、痛切な愛情の告白と同義なのである。

 教育や訓誡への意志が、官能的な性愛に対する欲望と極めて容易に癒合し得るものであることは、広く知られた経験的真理である。そして伊佐子の訓誡は明らかに、娼婦との享楽的な姦淫に溺れる久を「正しい愛」へ導こうとする崇高な意図を誇示している。その神聖な理想主義が、素朴な恋情に賦与された精緻な仮面であることは疑いを容れない。有り触れた平凡な嫉妬、少年の美しい容色への好意を、彼女の内なる道徳律に適合させる為の煩瑣な手続きが、そのような訓誡の擬制を要求するのである。そうしなければ、彼女の久に対する慕情は、久が娼婦に対して懐く享楽的な執着と同一の次元に属することとなり、彼女の苦悩は見苦しい嫉妬の焔に過ぎなくなる。尚且つ、久への官能的な執着は不可避的に、亡夫への貞節を裏切る浅ましい衝動的欲望を意味することとなる。こうした身も蓋もない散文的な現実の直視は、伊佐子の「敬虔な基督教徒」としての実存的な自意識を無惨に破綻させてしまいかねない。倫理的な観念と密接に結び付いた彼女の矜持は著しく毀損され、美しく彩色された過去の生活は悉く踏み躙られてしまうだろう。

 これを「偽善」と呼ぶのは不当な措置だろうか。「正しい愛」へ導く年長者の敬虔な情熱は、脆弱な年少者の依存的な魂の形式を必要とする。伊佐子の純潔な至誠は暗黙裡に、穢れた罪深い魂、美しい肉体に覆われて享楽の囁きに抗し難く惹き寄せられていく貧弱な魂の存在を要求している。弱者への愛が美しく輝く為には、訓誡を試みる年長者の器量を超越しない弱者の存在が不可欠の前提となる。それならば、結局「正しい愛」への崇高な志は、罪悪を免かれ得ない本質的な弱者の恒常的な出現を暗に望むのではないか。言い換えれば、伊佐子の敬虔な愛情は倫理的な弱者に依存し、罪人の存在と相補的な仕方で成立するものであるということになり、彼らの関係は所謂「共依存」(co-dependency)の症例に該当するのではないだろうか。「正しい愛」から得られる潔癖な道徳的充足は、寧ろ不断に倫理的弱者が産出されることを期待し、それゆえに基督教は「原罪」という画期的な神話を発明したのではないか。弱者の絶えざる供給が得られなければ、救済を通じて相対的な権威を確保する宗教的活動は維持し難い。けれども、自己の道徳的充足の為に絶えず弱者の出現を望むという心性は、極めて欺瞞的で暴力的な原理に根差しているように思われる。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫
 

「媚態」のニヒリズム 三島由紀夫「恋重荷」

 三島由紀夫の短篇小説「恋重荷こいのおもに」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品を一つの簡素なラベルで要約するとすれば、恐らく「三角関係の話」ということになるだろう。尤も、この短い小説の裡に詰め込まれた幾つかの場面には、一般に「三角関係」という言葉から連想される濃密な嫉妬に基づく手荒な惨劇の類は殆ど映じていない。情熱的な性交や、暴発する独占欲に教唆された暴力は登場せず、総ては抑制された微妙な心理的推移として、理性的な猿轡を咬まされた状態で描写されている。

 人を好きになるのは尊いことだと朗らかに断言して憚らないのは随分と楽観的な態度であり、実際には誰しも、その心理的な深淵に多かれ少なかれ辟易しているのではないかと思われる。片恋で気が済むならば安全で大いに結構だが、相手の歓心を購いたくなったり、その移り気な恋情を拘束して自分の手許に独占しておきたいと切に願ったりするようになれば、華やかな恋心も忽ち堪え難い「重荷」に転化する。恋心は必ず独占への欲望と密通しており、愛しい人のことを考えて夜も眠れなくなったり嫉妬や怨嗟に魂を焦がしたりする情熱の劇しさは明らかに、こうした「所有」へのエゴイスティックな固執に淵源を持っている。相手が浮気しても一向に差し支えないと心から思えるのは、一般に恋心の欠如と看做される。相手を所有したいと願う気持ちを、呑気な面構えで「尊い」とか「微笑ましい」とか、そういった類の言葉で形容するのは余りに軽率で安直な振舞いである。

 世の中には、意図的であるかどうかを問わず、自分に対する他人の恋情を煽動し、眩惑する才能に恵まれた人間が少なからず実在する。彼らは如何なる誠実な約定も、束の間の衝動的な感情の介入を理由として滑らかに破棄し、そのことに大した痛痒も覚えない。彼らの才能は、目紛しく移り変わる情念の波動を軽やかに乗りこなす器用な技巧の裡に存する。言い換えれば、彼らは次々に湧き起こる己の感情に対して非常に忠実であると同時に、社会の規範や他人との約束事には無関心なのである。けれども、何らかの魅惑的な要素を備えている為に、彼らの感情の不安定な動揺は、他者にとって純然たる嘲笑や賤視の標的には留まり得ない。不安定な彼らの一挙手一投足が、恐ろしい不実の懸念と共に、信じ難い親密さの暴発を予感させるがゆえに、彼らの魅惑に囚われた人々は、相手の不実だけを理由に関係を絶ち切る禁欲的な勇気を維持することが出来なくなってしまうのだ。

 媚態に長じた人間は、本音を巧みに隠蔽するのみならず、時に理智の抑制を振り切って、自己の内面に生じた過激な衝迫に向かって大胆に身を躍らせたりする。重要なのは純然たるポーカーフェイスではなく、感情的な変容を素朴に優先することによって形成される「一貫性の欠如」なのだ。彼らは移り気で、必ずしも貞節を遵守しないばかりか、時折異常な道徳的潔癖を発揮して、貞節の権化であるかのように振舞う。それゆえに周囲の人間は誰も、媚態に長じた者の本質を見究められず、安堵も絶望も共に収奪されて、不穏な宙吊りの状態へ留置されることとなる。「一貫性の欠如」は、言動の真偽に関する明瞭な基準を失効させる。「私の無意識な嘘の本能」(p.225)という修辞は、礼子が単純な嘘吐きであることを意味するものではなく、真実と虚偽との境界線が本質的に不分明であることを物語っているのだ。

 夏衛と康親との間で演じられる、虚栄心に塗れた「恋の鞘当て」は、礼子の「無意識な嘘の本能」によって喚起されている。康親の不実が、彼女の誠意を挫いたに過ぎないのならば、話は簡明である。しかし厳密には、礼子の不分明な「媚態」こそが、康親の有り触れた遊蕩の原因なのである。彼女の感情は一定の状態に固着することを拒み、絶えざる浮薄な遊動の裡に置かれることを望んでいる。単一の感情に総身を捧げられない者は、その危うい不実のゆえに他者を魅了し、相手の儚い期待を常に膨張させ、安易な希望にも確固たる絶望にも決して縋れないように仕立て上げる。絶対的で普遍的な原理を持たず、規則的な変化にも従属せず、常に逸脱していく心理的な現象が、媚態のニヒリズムを形作る。如何なる価値も信頼しない人間は却って、如何なる価値にも忠誠を誓うことが出来るし、その誓約を随意に破棄することが出来る。誰のことも愛さない人間は、誰にでも真摯な愛情を打ち明けることが出来る。この不穏な逆説は、恋愛に関する素朴な肯定の足場を無言の裡に突き崩してしまうだろう。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫