サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「分かり易さ」の功罪(最大公約数の理解力)

 分かり易いということ、理解するのに努力を要さないということ、それらの啓蒙主義的な価値観は、私たちの暮らす世界では、節操を欠くほどに猖獗を極めている。その最たるものは、例えば広告収入を当て込んで製作される民放のテレビ番組で、ちょっとでも視聴者の関心を維持することに失敗すれば直ちにチャンネルを切り替えられてしまうという、その極めて苛酷な根本的条件に強いられた結果であろうが、あらゆる手段を駆使して読者の理解力に微量のストレスも及ぼさないように努める創意工夫が、浅ましいほどに徹底されている。そこでは「分かり難い」ということは殆ど重大な犯罪にも等しい落ち度として排撃されるのであり、視聴者の思考力や理解力、想像力に信頼を寄せることは「甘え」として断罪されることになる。

 これは無論、テレビ業界に限った現象ではなく、顧客満足金科玉条として掲げるあらゆる商業的分野において、刻々と強化されつつある抗い難い傾向である。難しい問題を単純明快に咬み砕いて解説することが、つまりは「啓蒙」が、高度な情報化に晒されつつある現代社会においては崇高な正義なのだ。だが、そのような啓蒙主義的手法が総ての問題に該当し得る汎用性を備えていると信じ込むのは早計で、本来的に複雑な問題を「分かり易い解説」に落とし込む過程で、不可避的に減衰していく知見や情報が存在することに関して、私たちはもっと注意深い態度を堅持すべきだろう。分かり難いものを分かり易い言葉に置き換えることが可能かどうかは、単なる技術的な巧拙の問題には還元し得ない。それは何かを犠牲にしたり、省略したり、誇張したりする様々な編集のプロセスを通じて対象の形式を書き換えるということであり、その変換の過程で失われていくものを見落としたまま、素朴に「分かり易さ」を称揚するだけでは、私たちの理解力は劣化していく一方である。

 例えば「言葉」は不完全で離散的な表現の様式であり、その離散的な表現力が森羅万象を在るがままに(この「在るがままに」という言葉の意味については議論が百出するだろうが)映し出すことは不可能である。無論、その離散的な表現力が宿命的に抱え込んでいる表象の限界を、それが森羅万象を在るがままに映し出せないということを理由に否定したり排斥したりするのは横暴であり、不毛である。重要なのは、そこから零れ落ちていくものが確かに存在するということであり、その零れ落ちていくものへの繊細な感受性が備わっていなければ、話したり書いたりすることはもっと単純明快な作業に落ち着いてくれる筈だ。言い換えれば、私たちの言語的な表象は常に、何かしらの「過不足」を感じ続け、離散的な表現力の間隙に吸い込まれていく「沈黙する知見」の蒸発を捉え続けることによって、逆説的に駆動されているのである。

 以前、会社の上司からプレゼンテーションの指導を受けたとき、起承転結ということを口を酸っぱくして叩き込まれたことがある。少しでも伝え方が甘ければ「分かり難い」と弾劾されるのが、苛酷な自由主義・資本主義社会の鉄則であることは、愚かな私でも漠然と理解することは出来るが、その徹底的な「分かり易さ」への志向性は往々にして事実に関する情報の「減衰」を齎す。要約すること、表層的な現象に惑わされずに、事物の本質を把握することは確かに崇敬されるべき営為だが、そのような要約が含んでいる不可避的な「減衰」の事実を、繁忙な生活に追い立てられ、急き立てられる私たちは容易く忘れ去ってしまう。「難しいことを平明に語ること」の尊さが過度に称揚されることで、私たちは或る知見が「難解である」だけで、そこに度し難い怠慢を見出す短絡的な反応に搦め捕られてしまっているのだ。だが、分かり易いもの、手持ちの理解力で巧く咀嚼することの困難な事実に直面したときに、その「分かり難さ」を指弾して事足れりとするのは寧ろ「理解する側の怠慢」ではないだろうか。

 あらゆる事物が、荒削りの原木を鉋で削ぐように、つるつると滑らかに磨き抜かれていく世界で、少しでも「滑らかな表面」に不備を抱えるものは、断罪の対象として名指しされてしまう。そのような世界の息苦しい「窮屈さ」は、マーケティング至上主義のビジネスや、啓蒙的な実用書が蔓延する「平坦な社会」の構築に深く関与し、貢献している。難解であることは恥ずべき怠慢であり、それは表象を分かり易く改善していく努力の欠落であると難じられる。だが何故、世界中のあらゆる表象が「分かり易く」なければならないのか? 分かり難いことが何故、それだけで「罪悪」の誹謗を免かれ得ないのか? 最大公約数の理解力を基準に据えて物語ることが、極めて公共性の高い領域(市役所の文書、学校の教科書など)で重んじられるのも、数多くの人々の支持を確保しなければならない商業的な分野で追求されるのも、必然的な現象であることは認めざるを得ない。不当な難解さが、啓蒙主義的な理念を深々と毀損する「暴力」としての側面を有していることも確かな事実であろう。

 それでも、これが勝算の乏しい虚しい論述であることは明瞭に理解した上で、私は「分かり易さ」の過剰な称揚に異議を唱えたい。何もかも簡潔に要約することが正義であるという健気な信憑に留保を附したい。どんな出来事も複雑な渾沌を孕まずにはいられない筈であり、どのような視点もそれが「公正中立」であるという慢心とは距離を置くべきだと私は信じる。無論、こうした私自身の信憑も、世界による相対化の裁決からは自由ではいられない。

 だが、本当に私が気に入らないのは「公正中立」という自己定義に基づいた表象なのかも知れないという疑義が今、この文章を書きながら、私の意識に上昇してきた。「分かり易さ」の啓蒙的な意義を否むことは、私の本意ではない。ただ、そのような「分かり易さ」を過度に称揚する人々の健康な高慢さが、私の内なる批判的な視座を刺激するのかも知れない。「分かり易い」ことは素晴らしいことであり、総ての「難解さ」は悉く是正されるべきだという信憑が、地方的な偏見であることを、多くの人々は理解していないだろう。彼らはそれが「公正中立な見解」であり、所謂「社会的正義」なのだと素直に信じ込んでいるのだ。その鈍感な思考の経路が腹立たしいのかも知れない。要するに、どれだけ仰々しく飾り立てた文章であったとしても、この記事は私の個人的な「愚痴」に過ぎないということなのだ。