サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 2

 大切なものの有難味を、人は失ってから初めて悟ると、世間は口を酸っぱくして哀しげに、憂鬱な表情で何度も言い募る。手垢に塗れた言葉だが、実際、それは揺るぎない真理だろう。燈里が普通の少女として、親である私の手許で成長し、掛け替えのない日々の暮らしを営んでいた頃にも、彼女の、つまり愛娘の存在の尊さを感じていなかった訳ではない。だが、虚空に漂う無表情な酸素へ向かって、殊更に日頃の円滑な呼吸に就いて謝辞を述べることがないように、当たり前に存在するものの価値を、絶えず明瞭に意識し続けるのは困難である。
 だが、総てが手遅れとなった今では、その困難に何故、当時の自分は挑まなかったのかと、歯咬みしたくなる気持ちもある。過ぎ去ってしまえば、これほど胸が苦しくなり、悔恨が満ち潮のように高まり、どうにかして時計の針を逆さに回して眼前の現実を根底から引っ繰り返すことが出来ないものかと、不毛な苦悩に時を費やすことになるというのに、事件の渦中に身を置いている間は、つまり喪失の予感など想像だにしない間は、貴重な瞬間を呑気に溝へ投げ捨てて平然としているのだ。それが根本的な錯覚であることを心から悟る為には、現実の鉄壁が脆くも崩れ去り、隠されていた荒寥たる原野が視界を封じる必要がある。無論、そのときには万事休す、手遅れだ。終電を逃がした酔客と同じ自失と苛立ちと、暗澹たる未来への嫌悪、それらが綯交ぜになって漏れ出した重油のように心を濡らし、情熱の翼から羽搏く力を奪ってしまう。
 彼女が地上を去った後、私はあらゆる想い出の切れ端を拾い集めて、脳裡のスクリーンへ繰り返し執拗に投影した。それ以外に迫り上がる厖大な虚無に立ち向かう術は思い浮かばなかった。或いは、それこそが内なる暗黒を無際限に膨張させる命取りの悪手だったのかも知れない。だが、悪手だと悟っても猶、その唯一の道筋から踵を返すことが可能であったかどうかは心許ない。他に私の選び得る道程が存在しただろうか? 燈里の消滅の痕跡を、その実在の痕跡と置き換えようとする涙ぐましい悲惨な試みを、冷め切った沈着な心境で蔑視することなど出来ただろうか? 不可能を夢見ても、息苦しさが一層募るばかりなのは最初から心得ている。それでも、心は半ば自動的に、選びようのない仮定法の未来に憧れ続けることを止めないのだ。
 幼稚園に上がったばかりの頃、私は燈里の入園祝いに数冊の図鑑を買ってやった。分厚く、綺麗な写真や図版が豊富に掲載されている、幼稚園児には聊か難解な内容の図鑑であった。それでも、細々とルビを振られた文字や記号以上に、圧倒的な輝きを示す数多の美しい図版は、幼い燈里の仄白く繊弱な顔つきに、燦めく好奇心の宝珠を幾つも植え付けた。取り分け彼女が好んだのは、天体や宇宙や気象といった超越的な主題を扱った図鑑で、コンピュータの力を借りて鮮やかに彩色された星々の魅惑的な姿態を、貪るように見凝める横顔には、神々しいほどの無垢な情熱が宿っていた。天体を支配する典雅で絶対的な法則、それを暗示する見慣れない言葉や数値や記号、それらの織り成す華麗な虚空の伽藍、その神秘的な物語を、彼女の澄み渡った円らな黒眼は溺愛した。満月から新月へ移り変わっていく月齢の繊細で精妙な遷移図、地球と月との間に絶えず保たれる一定の透明な漆黒の距離。そうした天空の秘密が、どれだけ幼い燈里の感情を波立たせ、その知性を貪婪に誘惑したことか。それさえ後年の徴候であったと、今になって振り返れば思い当たるけれども、当時の私は娘の熱烈な向学心を微笑ましく眺めているだけの幸福な父親であったから、熟練した占星術師のように、意想外の未来図を言い当てることなど到底不可能であった。
 夜の帷が街衢を包めば、燈里は空に浮かび上がる星座の観察に我を忘れた。薄汚れた地方都市の夜空、人工的な建造物が放つ過度に煌びやかな火箭の犯された不完全な夜空には、図鑑で学んだ壮麗な星図の現物を探し求めることは難しかったけれど、限られた漆黒の裡に、辛うじて光芒を刻む有力な一等星たちの姿を発見するだけでも、彼女の野心は充分に満たされるらしかった。あらゆる星の瞬きは、天空の深みから送り届けられた貴重な贈り物のように、燈里の痩せた胸許を、その繊弱な心臓を熱く騒めかせた。ベランダに佇む彼女の小さな背中に、夜風を防ぐ為の上衣を着せかけてやりながら、私たち親子は、夥しい電線と家並の稜線に切り取られた無惨な天空の暗闇を仰いで、多彩な光の象形文字を次々に読んだ。幼い天文学者の少女は、舌足らずの発音で、異国の古人が星々に授けた神話的な異名の数々を、無学な父親に教授しようと躍起であった。その背伸びした横顔、父親に向かって年上の女を気取るような口吻の記憶は、今でも私の胸を温かい感傷で隅々まで濡らしてしまう。