サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「月影」 3

 小学校に上がる少し前から時折、燈里は夢遊病者のような振舞いを示すようになった。居間の隣の、家族三人の寝室に充てていた和室の襖越しに夜半、唐突に不自然な物音が漏れてくる。何事かと思って身を硬くすると、瞼の開いていない燈里が寝乱れた黒髪を複雑に縺れさせて、覚束ない足取りで襖の隙間からぬっと顔を出す。明らかに意識は覚醒しておらず、瞼は殆ど閉ざされて、眩しそうに顔を顰めている。此方が話し掛けても、明瞭な返事はなく、ただ重ね合わされた幼い唇の向こうで曖昧な言葉の塊が不気味に凝るばかりだ。
 最初は寝惚けて用便に立とうとしているのだろうと軽く考えていたが、時には症状が昂じて、そのまま二階へ通じる階段を黙々と攀じ登っていくこともある。慌てて追いかけて行くと、彼女はベランダの硝子戸を何度も小さな拳で叩いて不満げに肩を怒らせていた。それでも二つの瞼は閉ざされたままで、明瞭な言葉を発する訳でもない。ただ無限に迫り上がる奇態な情熱に衝き動かされて、硝子戸の向こうの静まり返った沈鬱な暗闇へ恋い焦がれるように迫っているのである。その小さくて痩せた背中、千々に乱れて絡み合った無造作な黒髪、月明かりに照らされて浮かび上がる白く華奢な項、その鮮やかな黒白の画面が今も鮮明に、この眼裏に消え残っている。不意に差し出された紙芝居の一葉のように、焼け爛れた夏の路上に転がるフィルムの断片のように、それは時折、弾丸のように時空の隔たりを貫いて、私の意識を俄かに眼前の現実から剥離させるのである。
 しかし目醒めてしまえば、彼女は夜半の記憶を殆ど何一つ保っていないことが露わになった。何かに導かれるようにベランダの彼方の闇へ縋っていたことも、その不可解な衝動の所以も、燈里の意識の裡には全く痕跡を刻んでいなかった。寝不足の彼女はただ、普段よりも強い眠気に苛まれて不機嫌な表情を見せるだけだった。唯一、それだけが深更の奇態な行動の残響であり、彼女の得体の知れない変異の微かな傍証であった。
 妻は酷く心配して、一度医者に診てもらった方がいいのではないかと言い出し、果たして夢遊病なるものに明確な治療法が存在するのだろうかと疑いつつも、敢えて伴侶の自然な不安を弊履の如く路傍へ投げ捨てる理由もなかったから、近隣に暮らす親戚の紹介を頼って、私たちは或る精神科の開業医の許を訪ねた。彼は普段の燈里の行状に就いて一通り、能面のように沈着な面持ちで聴き取りを行なうと、高価な万年筆を指先でくるくると弄びながら、至極あっさりとした口調で「夢遊病というものには、特効薬みたいなものを期待しても仕方ありません。器質的に原因が究明されているものではないですから。向精神薬みたいなものを、こんな年齢の子供に処方するのも考え物ですし、差し当たって彼女から眼を離さないということ以外に、手の打ちようはありませんね」と言い切った。妻は露骨に憤慨した様子で、帰宅の途次も精神科医の冷淡な事務的対応に声高な不満を述べ続けたが、私としては漠然と想定していた回答であったので、今後も事故の起きぬように自分たちで監視するしかないと覚悟を決めた。
 妻は居間から廊下へ出る扉を施錠しようと提案したが、私は反対した。夢遊病者の行動を無理に妨礙しようと試みた場合、激越な反撃を招き、却って危険な修羅場を現出させる虞のあることを、以前に何かの本で読み齧っていたのである。未だベランダの塀を飛び越えられるほどの背丈も膂力も備わっていない年頃であるから、知らぬ間に転落して頭蓋骨を砕くようなことはないだろうと説得し、燈里を重度の精神病患者のように拘禁する事態は回避された。それに、夜中に起き出して階段を頼りなく登り、中天に懸かった燃えるような満月の輝きへ、哀しいほどに精一杯、両手を差し伸べて何かを訴えようとする燈里の後姿には、たとえ肉親と雖も安易に侵してはならないと思わせる清澄な神威が滲んでいたのである。
 未就学児の奇態な習慣に、高貴な聖性を感じて立ち竦むなどという大仰な言種は、厚顔な父親の迂遠な自慢に聞こえるかも知れない。娘を曖昧模糊たる理由で失った惨めな男が、幸福な過去を顧みて感傷の快楽に溺れる余りに、みっともない大声で歌っているだけだと、世人は嗤笑するかも分からない。だが、幼女の儚い横顔には時折、そういう侵し難い聖性のような、凛冽たる気配が宿るものである。そこには達観した賢者の理智のようなものが、磨き上げられた庖丁の腹の如く閃いて、俗っぽい大人たちの不躾な闖入を厳しく拒んでいる。彼らは誰にも理解することの出来ない峻厳な秘密を、華奢な体躯の裡に、ジャックナイフのように畳み込んでいるのだ。彼らの真意を、穢れた大人たちの使い古された知性はどうしても正しく理解することが出来ない。世俗に溺れて垢の詰まった耳孔では、どうしても彼らの奏でる静謐な音律を聴き取ることが出来ない。