サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 5

 椿と亘祐は人前で露骨に戯れ合うことを好まなかったし、二人の絆の縺れ合いを他人の酒肴に供することも嫌っていたから、特に出口の見えない恋愛相談や厚かましい惚気話は常に差し控えた。無論、世間は狭いので、どんなに夜の暗がりに息を潜めても、新宿の眩暈を覚えるような殷賑に紛れてみても、誰かしら顔見知りの穿鑿する眼差しに知らぬ間に身を貫かれて、彼らの関係は学内の人々の間を口伝に伝播していった。時には冷やかしや揶揄を浴びせられることもあったが、少なくとも椿は何の感慨も持たなかった。誰だって恋に落ちている間は盲目になるものだし、そういう連中を傍から観察して口さがなく論評するのは手軽な暇潰しだ。要するに御互い様じゃないかと思えば、猥褻な皮肉も御節介な忠告も鼓膜を素通りして跡形もなかった。どんなに色恋の指南に熟達した冷静沈着な男女でも、いざ自分が恋の当事者となれば持ち前の理論は空転し、報われない嫉妬に身を灼き焦がしたり、叶わぬ片想いや非道な横恋慕に一年でも二年でも費やしたりするのが世の習いである。だから椿は、小説を読むことは好んでも批評の類は一切身辺に近付けなかった。他人の行動を高所から眺め下ろして課題を指摘したり瑕疵を難詰したりするのは無益な情熱で、直属の上司が部下の怠慢や過誤を叱正するのならば兎も角、それぞれの場所でそれぞれに咲いている花々が互いの色味や形態を批判したり嘲罵したりするのは時間の空費に他ならない。読みたければ読めばいいし、読む必要がなければ書物を閉じて古本屋に売り払えばいいだけの話ではないか。
 それは日頃の人間関係にも共通して言えることで、利害の直接的な対立が絡んでいるならば別だが、赤の他人の色恋に高邁な教訓を垂れようとするのは畢竟、自分の賢さや知識の深さ、理性の健全さを誇示する為の迂遠な手続きでしかないというのが、椿の基本的な信条であった。つまり、ゴリラがドラミングしたり犬が吠えたり猫が毛を逆立てたりするのと同じ振舞いで、彼らは他人の称讃に餓えているだけだった。要するに矜りがないのだ、と椿は考えた。自家発電の機能が薄弱だから、他人に認められることで辛うじて電力の逼迫を免かれようと慌てふためいているのだ。そういう人間にとって、恋に落ちた愚かな男女は何時でも恰好の餌食に見えるのだろう。
 だが、そもそもの話、自家発電の機能が充分に強靭であるならば、人は恋に落ちる必然性を持たないのではないかと考える夜が、時折椿の静かな部屋を訪れた。彼女は確かに亘祐に惹かれていたし、その慕情の理由は複数の仮説で構成されていたが、煎じ詰めればそれは、足りないピースを他人の懐中に探し求めることと同じであるように思われた。椿の眼には蟻の行列にしか見えない洋書のアルファベットをすらすらと解読して、その羅列された暗号の彼方に豊饒な世界の広がりを確かめている亘祐の颯爽とした思慮深い横顔に憧れることはそのまま、自分自身の欠乏の輪郭を指で辿る行為に酷似していた。恋する者も、恋人たちを笑う者も、共に他者の讃嘆と鮮やかな栄光に餓えている点には変わりがないのだ。それならば、批評に明け暮れる饒舌な閑人たちを殊更に忌み嫌うのも大人げない振舞いなのかも知れないと椿は思った。
 椿と亘祐は定期的に二人きりの時間を持ち、時には通俗的な恋愛の雛型に則って遠出した。海を見に行ったり、山に登ったり、自転車に跨って当所もなく彷徨したりした。散りかけの桜を眺めたり、露の滲んだ紫陽花の写真を撮ったり、海月の薄暗い水槽に並んで顔を寄せたりした。合間に喫茶店で憩み、時には差し向いに座って無言で銘々に読みかけの本を開くこともあった。まるで若く不仲な夫婦のように、彼らは一時間でも二時間でも平気で一つの沈黙を分かち合っていた。銚子電鉄の列車に揺られて犬吠埼の夕陽を見たり、伊香保温泉の急な石段を散策したり、古びたホテルの窓から河口湖の船影を眺めたりした。それらの懶い日々、同じ沈黙に懐かれ、同じ景色の裡に溶け入る日々を送りながら、彼らは魂の燃えるような劇しい恋心と無縁であった。確かに彼らは、御互いの裡に自分に欠けている何かを探して結ばれていた。けれども、欠けているものは欠けているものとして、殊更に欲望しないという節制が、彼らに共通する持ち前の資質であったから、激越な執着が培われる見込みは最初から存在しなかったのだ。その意味では、彼らの恋愛は日常を破壊するものではなく、寧ろその骨組みを強化するものであった。自分が自分でなくなるような、足許の砂地がさらさらと崩れて確かな支えが失われていくような不穏な緊張は、彼らの与り知らぬ心情であった。退屈な恋愛、それは如何にも平穏な幸福に似ていた。若しも健全な「家庭の幸福」というものが地上に存在するとしたら、恐らくこの絆の佇まいはその似姿に違いないと椿は確信していた。