サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「不義密通」に就いて

 江戸時代、日本では配偶者以外の人間と肉体的な関係を持つことを「密通」と称して、厳しく禁圧していた。独身の男女同士が関係を持つことさえ「密通」の定義に含まれていたのである。

 公共的な規律に基づいた「婚姻」以外の総ての性的関係を「不義密通」と看做して断罪する潔癖な道徳性は、時代の変化に伴って著しく緩和されてきた。独身の男女が性交渉へ赴くことは、現代においては明瞭に個人の自由と権利の範疇に属し、叱責や処罰とは無縁である。

 けれども、そもそも「恋愛」という観念自体が「結婚」の正統な公共性に対する抵抗の要素を含んでいるということを軽視すべきではない。自由な恋愛、公認された恋愛というものの矛盾した性質を看過すべきではない。つまり「恋愛」という営為の核心に埋め込まれた反社会的な含意を閑却してはならない。

 「恋愛」という言葉を聴いて、反社会性などという重苦しく攻撃的な観念を思い浮かべる人は限られているかも知れない。現代の社会において「恋愛」という精神的営為は原則的には明朗で肯定的な事象として捉えられ、位置付けられている。つまり、公共的に是認されているように見える。だが、それは現代の社会が「恋愛=結婚」という公理を導入していることの結果であって、必ずしも普遍的な思想であるとは言い難い。長い間、この国では「恋愛=結婚」の公理は一般的な規矩として認められていなかった。そもそも「結婚」という制度自体が本質的に、男女間の個人的で主観的な好悪の情などとは無関係に存立しているものであることを見落としてはならない。

 現代においては稀薄化しつつある定義であるとはいえ、歴史的に「結婚」という制度の機能的な核心は恐らく「生殖」という点に存している。配偶者を対象としない総ての性交渉を「密通」という背徳的な範疇に繰り入れる社会的な思想の根本には、そうした考え方が抜き難く横たわっている。種族の繁栄という観点から眺めれば、相互に愛し合う男女だけが周囲の祝福を享けて婚姻するべきであるという現代的な通念は極めて非効率である。感情などという曖昧で移ろい易いものを基準に据えて婚姻の可否を定めれば、夫婦の離合集散が著しくなることは眼に見えている。「皆婚社会」を成立させる為には、聊か逆説めいて聞こえるが、男女間の恋情などに重きを置いてはならないのである。生殖を目的とした婚姻の仕組みに、先ずは年頃の男女を捻じ込んでしまうことが肝要であって、両者の愛情や慈しみは後天的に育んでいけばいいと考えるのが、皆婚社会の基本的な理念なのだ。

 男女間の私的な好悪の情を「結婚」という制度に接続してしまえば、未婚率も離婚率も上昇するに決まっている。目紛しく変動する感情を基準に、数十年間の人生の行路を決定せねばならないという不可能な決断への気後れが未婚率の上昇や晩婚化を惹起し、結婚した後の感情の変動に抗いかねて、離婚を選択する夫婦が増加する。結婚の要諦が夫婦間の好悪の情に存するのであれば、配偶者に対する愛情を失ったときに離婚を選択するのは至極尤もな成り行きである。少なくともそこに論理的な矛盾は生じていない。「恋愛」を基礎に据えた結婚、換言すれば「結婚の恋愛化」という時代の趨勢は不可避的に離婚率の劇的な上昇を齎すのである。

 「結婚の恋愛化」が亢進すれば、相対的に「結婚」の有する社会的な権威は衰微していくだろう。「結婚=セックス」という厳格な戒律が緩和され、男女の自由な交情が容認されるようになれば、敢えて「結婚」という保守的で不自由な制度に固執する必然性も乏しくなっていく。

 同時にそうした趨勢は「恋愛」に関連する異様な情熱の衰弱を齎すだろう。「恋愛」の劇しい情熱は往々にして、それが「結婚」に対立する性質を備えていることに由来している。生殖を目的とした「結婚」の共同性と、好悪の情に基づいた「恋愛」の共同性との間には、本質的な懸隔が存在する。換言すれば「結婚」は生活の部類に属し、「恋愛」は遊戯の部類に属するのである。このように書くと「恋愛は遊戯に過ぎない」と侮蔑しているように聞こえるかも知れないが、それは私の本意ではない。「恋愛」の本質には、個人の思想や感情を尊重するヒューマニスティックな「自由」の信条が象嵌されている。個人主義の発達は「恋愛」の発達と同期している。けれども、個人主義の情熱は常に「個人と社会との相剋」という界面の摩擦を前提として燃え盛るものである。「不義密通」の適用される範囲と要件が緩和されるほどに、個人主義的な情熱は炎上の必要性を逓減させていく。換言すれば「恋愛」そのものが根源的な反社会性を帯びているのではない。「結婚」の絶対的な権威が信奉されていた時代と環境において「恋愛」が反社会的な役割と含意を担わずにはいられなかったと看做す方が一層精確であろう。同じく近代的な個人主義と足並みを揃えて登場した「小説」が極めて頻繁に「恋愛」を主題として取り上げてきたことも、単なる偶然ではないと私は思う。

複数形の「私」の共存共栄

 昨日の自分と今日の自分は別人である。今日の自分と明日の自分もまた別人である。私たちはそれらを首尾一貫した同一の存在として認識している。そのように考えなければ、私たちの世界観は成り立たない。

 或いは、私たちは自分を或る明確な一個の存在であると思い込んでいる。こういう人間であるという定義を持っている。だが、その定義は日常的に崩れ落ち、日常的に錯乱している。人間は自分でも信じられないような行動に踏み切ってしまうことがある。それまで信じていた「自分」の定義とは全く相容れない、奇矯とさえ感じられる言動に傾斜することがある。私たちはそれを突発的で異常な現象だと判断したがる。そのように位置付けない限り、それまで信奉してきた「自分」の秩序が瓦解してしまうからだ。しかし、それは本当に正しい考え方であろうか? どんなに異常だと思っても、その言行が実際に為されたのであれば、それは紛れもない「自分」の一部である。「自分」を構成する要素の一つである。それを異常な、突発的な故障のように捉えれば、確かに従来の自画像は混乱せず、毀損されない。そうやって頑迷に「自分」の定義を後生大事に守り抜いている限り、人間は変貌と無縁である。新しい「自分」に出逢う心配もない。少なくともその萌芽は、当事者の視野から除外される。

 「私はこういう人間である」という自己定義は、余り頼りにならないのが世上の通例である。少なくとも、そうした自己定義を純粋に客観的な解釈であると看做すのは素朴な対応である。人間の自己定義には、このように見られたいという願望、こういう自分でありたいという希求が入り混じっているものであり、従って厳密な「事実認識」のようなものを期待することは難しい。「私はこういう人間である」という解釈は往々にして恣意的なものであり、客観的な妥当性を欠いている。

 自己定義から食み出すものの存在を認めず、涼しい顔で扼殺することは出来ない。主観的な認識の上で、そうした隠然たる暗殺に踏み切ることは出来ても、殺された者の亡骸が、風に押し流される霞のように消滅することはない。或る不可解な行動、失錯、過誤、それらの事件が如何に従来の「自分」の枠組みから隔たった性質を持っていたとしても、それが実際に起こったことならば、それを「自分」の範疇から除外して考えるのは「改竄」に類する行為であると言わざるを得ない。存在したものを、存在しなかったように取り扱うのは明白に「改竄」の一例である。

 私たちは寧ろ複数形の「自分」の曖昧で緩やかな連合体なのではないかと思う。「自分」という曖昧で緩やかな旗標の下に蝟集した複数の「私たち」として、この「自分」というものは構成されているのではないかと思う。換言すれば、普通に生きているだけでは、私たちは「自分」の全体を理解することなど出来ない。或いは、このように言うべきだろうか。私たちは「自分」の範疇の内部に、夥しい数の「他人」を養っているのだと。自分という存在の中に取り込まれた無数の他者は、偏狭な自己定義の律法から逸脱して、時に私たちを想像もつかない奇矯な言動の渦中へ拉致する。それは本当に異様な悲劇に過ぎないのだろうか? それは悲劇であると答えるとき、その人物は余りにも劇しく「自己」に総てを捧げ過ぎている。内なる他者の蔓延を厭うのは、自分自身の内部に存在する不透明な暗部さえも完璧に統制したいと願う希求の反映であろう。

 自らの力で自らを治めること、つまり「自立=自律」の理念を実現すること、その輝かしい尊厳に就いて、私は幾度も雑然たる思索を巡らしてきた。自らの掲げた目標、倫理、規則に基づいて自己を支配すること、自分で自分を統制すること、それは確かに崇高で美しい「生き方」には違いない。だが、そんな風に総てを鮮やかに切り分けることが可能だろうか? そうした支配が完璧な専制へ近接するほどに、同じ熱量の「失われるもの」が存在する。内なる他者を獄舎へ繋ぐこと、自立のストイシズムは、そのような厳格な治安維持の上に辛うじて成立する理想である。無論、理想は常に、原理的に美しい。けれども、私の心は本当に、そのような精神的「独裁」の美しさを希求しているのだろうか?

 絶えず揺れ動く曖昧な自己を肯定すること、朝令暮改を戒律に定めること、昨日までの自分を信じないこと、明日の自分を予測しないこと、こうした習慣は、危険な刹那主義に属していると一般的に考えられている。だが、或る超越的な理念の下で、様々な「内なる他者」を選別し、厳格に統御するという軍隊式の生き方を、最も崇高な「善性」或いは「美徳」として崇めるのは、偏狭な話ではないか。複数形の「私」を否定し、或る確固たる明瞭な自己へ無理に集約しようと試みる腕尽くのストイシズムに、私は好意を維持することが出来ない。「内なる他者」の殺戮は最終的に、往来を行き交う普通の「他者」への殺意に転化しかねない。自縄自縛の悪弊を振り切って「他者への寛容」という美徳を正しく樹立しない限り、自主独立の崇高なストイシズムは、正義という名の暴力へ横滑りしてしまうだろう。

三島由紀夫「金閣寺」再読 3

③「美的なもの」の破壊に就いての先覚者

 「金閣寺」における「私」とプラトニズムとの対決の過程には、或る脇役の存在が重要で決定的な影響を及ぼしている。「私」が大谷大学へ進学した後に知遇を得る「柏木」という級友である。彼の思想は、色々な意味で「私」に多様な示唆を与えている。言い換えれば、彼の存在は「私」と対蹠的な思想の秩序によって織り成されているのである。或いは、悪徳に蝕まれた思想的「陽画」であると言ってもいい。

 そうだ。俺は自分の存在の条件について恥じていた。その条件と和解して、仲良く暮すことは敗北だと思った。怨みようならいくらもある。両親は俺が幼児のときに、矯正手術をしてくれるべきだったのだ。今となってはもう遅い。しかし俺は両親に対しては無関心で、怨みを持ったりするのは億劫だった。

 俺は絶対に女から愛されないことを信じていた。これは人が想像するよりは、安楽で平和な確信であることは、多分君も知っているとおりだ。自分の存在の条件と和解しないという決心と、この確信とは、必ずしも矛盾しない。なぜなら、もし俺がこのままの状態で女に愛され得ると信じるなら、その分だけ、俺は自分の存在の条件と和解したことになるからだ。俺は現実を正確に判断する勇気と、その判断と戦う勇気とは、容易に馴れ合うものだと知った。居ながらにして、俺は戦っているような気になれたのだ。(P120)

 小説において登場する様々なキャラクターが、如何なる文学的意図にも関与せず、純然たる偶発的事件として顕れることは有り得ない。何故なら小説は、如何に素朴なリアリズムに基づいて克明に描かれていようとも、現実の単純で不完全な模写ではなく、人間の手で捏造された可能的な現実であり、従って虚構であるからだ。従って私たちは「柏木」という人物が登場することの意味を、この「金閣寺」という作品との関係において考え、捉えなければならない。

 「私」と「柏木」との複雑な友情の端緒が、銘々の抱え込んでいる身体的な「存在の条件」に基づいていることは明白である。「私」にとっての「吃音」と「柏木」にとっての「内翻足」が、彼らの間に生じた友誼の基本的な条件なのだ。両者は全く性格の異なる人物として設定されているが、彼らの間に「存在の条件」と如何にして向き合うかという実存的な課題が共有されていることは言うまでもない。

 「私」は「吃音」によって形成される内界と外界との隔たりを、プラトニズム的な二元論に基づいて認識し、処理している。「外界」の現象を「内界」に存在する超越的な理念の不完全な反映であると看做す「私」は、いわば「内界」の優位性に依存することで「外界」に対する「行為」への可能性を自ら扼殺している。換言すれば「私」は「外界」に対して常に「認識者」として留まり続けることを自らの存在に命じているのである。

 では、一方の「柏木」は、如何にして現実との関係性を処理しているのだろうか?

 俺はこういう不合理に納得がゆきかねた。その実俺の欲望はだんだん烈しく募って来ていたが、欲望が彼女と俺とを結ぶとは思われなかった。彼女がもし他人をでなくこの俺を愛しているのだとすれば、俺を他人から分つ個別的なものがなければならない。それこそは内翻足に他ならない。だから彼女は口に出さぬながら俺の内翻足を愛していることになり、そういう愛は俺の思考に於て不可能である。もし、俺の個別性が内翻足以外にあるとすれば、愛は可能かもしれない。だが、俺が内翻足以外に俺の個別性を、俺の存在理由を認めるならば、俺はそういうものを補足的に認めたことになり、次いで、相互補足的に他人の存在理由をも認めたことになり、ひいては世界の中に包まれた自分を認めたことになるのだ。愛はありえない。彼女が俺を愛していると思っているのも錯覚だし、俺が彼女を愛していることもありえない。そこで俺はくりかえし言った。「愛していない」と。

 ふしぎなことには、俺が愛していないと言えば言うほど、彼女はますます深く、俺を愛しているという錯覚の中へ溺れた。そうして或る晩、とうとう俺の前へ体を投げ出すようなことをやってのけた。彼女の体はまばゆいばかり美しかった。しかし俺は不能だったのである。(P123-P124)

 「柏木」は「世界」との和解を異様なほどの峻厳さで拒否している。柏木にとって生来の内翻足という「存在の条件」は断じて解消されてはならない絶対的な根拠としての役割を担っているように見える。彼は自分が「愛されない」存在であることを確信することで、己の精神的な秩序を安定させている。彼は「外界」と敵対し、永久に「和解」を拒み続けるという決意に基づいて、己の個人的な哲学を成立させているのである。

 こうした拒絶の美学が、柏木の人生に齎す具体的な効用とは何であろうか?

 俺は恥じていたが、内翻足であることの恥に比べれば、どんな恥も言うに足りなかった。俺を狼狽させたのはもっと別のことである。不能の理由が俺にはわかっていた。その場になって、俺は自分の内翻足が彼女の美しい足に触れるのを思って、不能になったのだ。この発見は、決して愛されないという確信の持っていた平安を、内側から崩してしまった。(P124-P125)

 柏木自身は、その絶対的な「拒絶」の効用を「平安」という言葉で呼んでいる。「絶対に女から愛されない」という「安楽で平和な確信」は、外界の現実への卑屈な従属からの解放という心理的効用を含んでいる。或いは「内翻足」という身体的条件を抱え込んだまま、社会的な現実との間に生産的な関係を取り結んでいくことからの解放を含意している。言い換えれば、彼が自らの「存在の条件」との和解を拒否するのは、それによって自らの存在を「外界」から保護する為である。この段階では、柏木の精神的秩序は「私」のそれと同一の水準に属しているように思われる。外界の現実から自らの存在を切り離し、内界の現象や観念に、外界のそれを上回る価値を賦与しようと試みる自閉的な姿勢が、彼らに共通する根源的な性質なのである。

 他人から絶対に理解されず、愛される見込みもないという内在的で独断的な確信が、何故「平安」を齎すのか。それは他者との間に繰り広げられる錯雑した社会的関係性からの離脱を意味し、その離脱を正当化する根拠として機能するからである。如何なる理解も愛情も与えられることがないという峻険な孤独の条件は、柏木の内部から、世界と和解し、世界に内属して生きようと努める理由を剥奪する。そのとき彼の孤独は、彼の絶対的な覇権を、つまり他者という厄介な異物を完全に排除した後に成立する完璧な主権を機能させる根拠と化す。愛され、理解されることに対する拒絶は、換言すればナルシシズムの「平安」を棄却することに対する拒絶なのである。自己に対する自己の評価を、他者という異物は多様な視角に基づいて身勝手に攪乱する。そのとき、自己の独裁的な視点の権威は無限に相対化され、他者との間に果てしなく持続する社会的な合意形成のプロセスが開拓される。

 柏木は「愛されても愛されなくても、どちらでも構わない」という開放的な身構えを選択することが出来ない。それは事態の決定権を他者に委任し、自己の受動的な状態を肯定することを意味するからだ。換言すれば、柏木はあらゆる対象への決定権を独占したいという幼稚なナルシシズムの欲望に囚われており、その根源には、一切の「他者的なもの」「外部的なもの」への恐懼と軽蔑が巣食っているのである。

 何故なら、そのとき、俺には不真面目な喜びが生れていて、欲望により、その欲望の遂行によって、愛の不可能を実証しようとしていたのだが、肉体がこれを裏切り、俺が精神でやろうとしていたことを、肉体が演じてしまったからだ。俺は矛盾に逢着した。俗悪な表現を怖れずに言えば、俺は愛されないという確信で以て、愛を夢見ていたことになるのだが、最後の段階では、欲望を愛の代理に置いて安心していた。しかるに欲望そのものが、俺の存在の条件の忘却を要求し、俺の愛の唯一の関門であるところの愛されないという確信を放棄することを要求しているのが、わかってしまったのである。俺は欲望というものはもっと明晰なものだと信じていたので、それが少しでも己れを夢見ることを必要とするなどとは、考えもしていなかった。(P125)

 これは飽く迄も我流の解釈に過ぎないが、柏木の「欲望というものはもっと明晰なものだと信じていた」という告白は要するに、欲望が如何なる他者的=社会的な枠組みとも無関係に、自律的に存在し、稼働するものであると信じていたという意味であろう。ナルシシズムの内界に閉じ籠もっていたとしても、欲望はそれ自体として独立的な実体を持ち、堅固な輪郭を備えて、愛情という社会的な関係性を媒介せずとも自在に発露し、充足させることが可能であるという確信が、柏木の内面においては「愛されないという確信」と共に同居していたのである。しかし実際には、欲望は主体の内面や他者との関係性から切り離された自律的な「機械」などではなく、明確に他者との社会的な関係性の内部に象嵌された現象であった。その認識が、彼の堅牢なナルシシズムの完結性に亀裂を走らせたのだ。欲望は明晰な独立的存在ではなく、絶えず他者との社会的な関係性の内部で構造化されているという認識は、ナルシシズムの平安の本質的な不可能性を告示するものである。他者との関係を断ち切り、世界との和解を拒否し続ける限り、欲望は機能せず、従ってその充足も成立しない。

 無論、それも一つの人生の様態であるかも知れない。つまり、本質的な意味で「欲望」の社会的な性質を拒み続けること、如何なる欲望とも無縁の状態を把持すること、出家遁世の求道者として世俗の享楽から離脱すること、それによって「涅槃の平安」を勝ち得ること、そうした生き方を選択するのは個人の自由である。

 だが、柏木はそうした仏教的修養の道筋を選び取ったのではなかった。つまり、欲望の不可能性を悟り、その抜本的な断念によって生きようと考えたのではなかった。彼は欲望というものの性質を書き換え、世界との和解を経由せずとも成立し、充足させることの可能な欲望の形態を発見したのである。

 不安の皆無、足がかりの皆無、そこから俺の独創的な生き方がはじまった。自分は何のために生きているか? こんなことに人は不安を感じて、自殺さえする。俺には何でもない。内翻足が俺の生の、条件であり、理由であり、目的であり、理想であり、……生それ自身なのだから。存在しているというだけで、俺には十分すぎるのだから。そもそも存在の不安とは、自分が十分に存在していないという贅沢な不満から生れるものではないのか。(P126-P127)

 生きている理由や目的の喪失、稀薄な実感、決して充実することのない生存、そういった感情は確かに「自分が十分に存在していない」という奇怪な認識に由来している。自分自身の生存の意義を明瞭に見定められぬとき、人間は己の存在を虚無的に捉え、その価値を怪しみ、生死の境目の実効性さえも疑い始める。つまり、生きていることと死んでいることの境界線が曖昧に霞んでしまうのだ。

 けれども柏木にとっては、生きていることは死ぬことと混同しようがない。彼は常に「内翻足」という「存在の条件」を直視せずにはいられず、従って彼は己の生存を透明な空気のように看做すことが出来ない。言い換えれば、彼は結局のところ、他者の眼差し、外部的で社会的な眼差しを黙殺することが出来ない。彼は他者から見られることを常に意識し、他者の視線に支配されることに慣れ切っている。彼が自らの「存在の条件」と和解出来ず、結果的に世界との和解にも至ることが出来ないのは、前述した見解と矛盾するが、寧ろナルシシズムの不可能性という決定的な傷痍の為ではないか?

 聊か論述の流れが混濁してきているので、一旦整理しておこう。彼が「愛されないという確信」から奇怪な「平安」を抽出するのは、彼がナルシシズムの監獄に逼塞して、不動の安寧を確保しているからではない。寧ろ彼は「内翻足」という「生存の条件」と和解しないことで、内翻足に対する社会の差別的な視線を内面化し、ナルシシズムの存立する基盤を徹底的に蹂躙しているのである。彼は自閉的なナルシシズムの揺籃に横たわり、懶惰な夢を貪っているのではない。そのような特権的幸福を享受する可能性は、内翻足という条件によって根本的に毀損され、否定されている。

 他人から見られるとき、彼の欲望は不能に陥る。他人から見られるとき、彼は自分の存在が世界から拒絶されているという悲劇的な真実に目覚めずにはいられない。彼が自らの欲望を成就する為には、他人からの抑圧的で差別的な視線を完全に排斥することが必要である。

 このときから、俺には精神よりも、俄かに肉体が関心を呼ぶものになった。しかし自分が純粋な欲望に化身することはできず、ただそれを夢みた。風のようになり、むこうからは見えない存在になり、こちらからは凡てを見て、対象へかるがると近づいてゆき、対象を隈なく愛撫し、はてはその内部へしのび入ってゆくこと。……君は肉体の自覚というとき、或る質量をもった、不透明な、確乎とした「物」に関する自覚を想像するだろう。俺はそうではなかった。俺が一個の肉体、一個の欲望として完成すること、それは俺が、透明なもの、見えないもの、つまり風になることであったのだ。(P125-P126)

 「透明なもの、見えないもの、つまり風になること」が実現したとき、柏木は一切の外部的な視線の抑圧から解き放たれて「純粋な欲望に化身すること」が出来るだろう。彼の欲望の形態は、窃視症を連想させる。彼にとって他者の眼差しを浴びることは、欲望の不能の重要な原因である。そうした不能の原理が「内翻足」という「存在の条件」が齎した特殊な構造であることは論を俟たない。そして柏木の固陋な精神は、飽く迄も「内翻足」と「世界」との間に穏健で友愛に満ちた和解が成立することを了承しない。「内翻足」という「存在の条件」を肯定し、容認することは、彼にとって心理的な敗北を意味している。それは「世界」の求める一般的な規則に適合しない自己を肯定することであり、従ってそれは「世界」に対する敗北を自ら容認することに他ならない。

 「愛されないという確信」の把持は、内翻足という端的な現実を受容しないという高潔な覚悟と相関している。換言すれば、彼は自分自身よりも世界を優先しており、内在的な価値観よりも社会的な規矩を尊重しているのである。内翻足だから愛されないという認識への絶対的な同意は、実際に内翻足である自分が具体的な他者から愛を享けるかどうかという実際的な判断とは無関係である。内翻足である限り、他者から愛されることは有り得ないという強固な妄信は、彼が常に外在的な価値の基準に依拠していることの露骨な明証であると言えるだろう。

 ここには「仮面の告白」において明瞭に示され、描き出された「正しさへの欲望」が残響している。本来ならば内発的であるべき欲望を「知的な仮構」と看做す異様なストイシズムの陰翳が滲んでいる。そうした観点から眺めるならば、柏木は「内界への逼塞」という甘美な安逸を根源的に剥奪された人間である。彼は他者の眼差しによって隅々まで占有された存在であり、他者の眼差しを内面化している為に決して自分自身の存在、厳密には「内翻足」という「存在の条件」を意識の領野から棄却することが出来ない。

 鏡を借りなければ自分が見えないと人は思うだろうが、不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。その鏡に、二六時中、俺の全身が映っている。忘却は不可能だ。だから俺には、世間で云われている不安などというものが、児戯に類して見えて仕方がなかった。不安は、ないのだ。俺がこうして存在していることは、太陽や地球や、美しい鳥や、醜い鰐の存在しているのと同じほど確かなことである。世界は墓石のように動かない。(P126)

 柏木は断じて自らの「存在の条件」を忘却することが出来ない。換言すれば、彼は断じて他人の眼差しを、他人の視点を、他人の審美的な基準を黙殺することが出来ない。彼の眼差しは常に社会的な眼差し、他人の眼差しによって占拠されており、それが彼の欲望の発露と成就を禁圧してしまう。この厄介な罠は決して逃れることが出来ない。何故なら、他者の眼差しを逃れる為には、彼は自らの存在そのものを透明な「不在」に書き換えなければならず、それは無論、不可能な夢想に過ぎないからである。そして彼の内部には既に他者の視線が陥入しており、彼にとって他者は自己の外部ではなく内部に根を張っている。「しかし忽ち内翻足が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑固な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる『物』として、そこに存在していた」(P126)という文章を徴すれば明らかなように、最早「内翻足」という条件は、他者的な視線の象徴そのものにまで高められているのである。「内翻足」は、決して透明にならない。それは絶えず他者の眼差しに晒され、審美的に吟味され、社会的に鑑定されている。彼は他者の眼差しを仮想的に内面化することで、欲望の不能に陥り続ける。

 「俺は欲望というものはもっと明晰なものだと信じていたので、それが少しでも己れを夢見ることを必要とするなどとは、考えもしていなかった」(P125)という文章を改めて想起してもらいたい。この文中の「己れを夢見ることを必要とする」という言葉は、如何なる事態を指し示しているのか? それは恐らく、ナルシシズム的な夢想に耽溺することである。他者の眼差しに囚われず、外在的な基準を無造作に踏み躙って、個人的で主観的な欲望の閉域に自足することである。だが、内翻足という存在の条件を通じて他者の眼差しを内面化している柏木にとって「己れを夢見ること」は、それ自体が永遠に到達の不可能な夢想に過ぎない。

 老い寡婦の皺だらけの顔は、美しくもなく、神聖でもなかった。しかしその醜さと老いとは、何ものをも夢みていない俺の内的な状態に、不断の確証を与えるかのようだった。どんな美女の顔も、些かの夢もなしに見るとき、この老婆の顔に変貌しない、と誰が云えよう。俺の内翻足と、この顔と、……そうだ、要するに実相を見ることが俺の肉体の昂奮を支えていた。俺ははじめて、親和の感情を以て、おのれの欲望を信じた。そして問題は、俺と対象との間の距離をいかにちぢめるかということにはなくて、対象を対象たらしめるために、いかに距離を保つかということにあるのを知った。(P129)

 この発見は「金閣寺」という作品を貫く最も重要な主題との間に、密接な関連を有している。「己れを夢見ること」とは即ち「美的なものへの耽溺」である。美的なものに接近し、耽溺する為には、対象の美的な性質を夢想し、確信することが肝要である。或いは、美的な存在によって包摂された自己を信じることが必要である。しかし「内翻足」という存在の条件によって他者の審美的な眼差しを刷り込まれた柏木の欲望は、美的な対象に接近することで不本意な挫折を強いられてしまう。彼が自らの欲望を成就するに際しては、対象の美的な性質は歓びを強める触媒ではなく、寧ろ致命的な障碍となるのである。

 結果として柏木が編み出したのは「美的なものの否認」という心理的技法であり、一切の美的な観念を排除して事物の「実相」に到達するという冷徹な身構えを内面化することであった。美という尺度そのものを否認し、拒絶し、如何なる美しいものも煎じ詰めれば「夢」=「仮象」に過ぎないと断じることで漸く、彼は己の欲望の不能から脱却することに成功したのである。その意味では、柏木という友人は語り手の「私」にとって重要な先覚者の位置を占めていると言える。

 見るがいい。そのとき俺は、そこに停止していて同時に到達しているという不具の論理、決して不安に見舞われぬ論理から、俺のエロティシズムの論理を発明したのだ。世間の人間が惑溺と呼んでいるものの、相似の仮構を発明したのだ。(P129-P130)

 性的な「欲望」は一般に対象との想像的な融合を図るものだが、柏木の編み出した論理は、それとは対蹠的な性質を帯びている。彼は寧ろ欲望の対象から無限に遠ざかることで、己の肉体的な興奮を維持し、高揚させる。一見すると禁欲的な「停止」の状態が、性的な欲望を成就する為の決定的な要件であるという逆説が、いわば彼の「人生」の方法論なのである。彼は美的なものを「仮象」に過ぎないと断じることで、欲望の不能から、つまり「人生」の不能から恢復した。その独特な論理が、プラトニックな理念の虜囚と化した「私」の眼に示唆的な仕方で映じるのは当然の理窟である。

金閣寺 (新潮文庫)

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「不倫」に就いて

 漸く精神的な整理がついてきた気がするので、恥を忍んで、考えたことを書き遺しておきたい。人目に晒すような話ではないが、これを書くことは、私が建設的な未来へ向かって生きていく上で本当に重要なことなのだ。

 私は以前、短い期間であったが不倫をしていた。一回りも歳の離れた若い女性と、性的な関係を持った。しかも当時の私は、度し難いほど愚かで軽率で、彼女との関係を単なる遊戯や道楽の範疇に留めておくことが出来なかった。刻一刻と、私は彼女を切実に愛するようになった。最初はせめて性交渉だけは控えようと思っていた。けれども、感情の高鳴りを抑制することが出来なかった。私の理性は、情熱の前に無力であった。

 妻に不倫が露顕して修羅場が持ち上がり、私は事態の経緯を洗い浚い白状した。私は散々悩み抜いた末に、不倫の関係を清算することに決めた。清算した後も暫くは、私は苦悩を捨てられなかった。哀しみを振り払うことが出来なかった。未練が熾火のように燻っていた。

 不倫という関係であっても、私は彼女に対する愛情を本物だと信じていた。妻子を持っていても、人を好きになる感情自体は抑え難いものだと、自分自身を正当化していた。けれども、今では思う。その愛情が誠実であり、真実であったとしても、それは不倫を正当化する根拠にはならない。相手に対して誠実な愛情を懐き、自分の総てを捧げたいと願うのならば、不倫という構図の中で、性的な関係を持つべきではない。どんなに言い訳を塗り重ねても、不倫は不実であり、欺瞞であり、卑怯な行為である。それは配偶者に対する不実であると同時に、不倫の相手に対する不実でもある。全力で愛していると言うのならば、全力を捧げられる状況を構築した上で、それを告げるべきである。つまり、離婚した上で改めて愛情を伝えるべきである。離婚する決断をせずに、世間の眼を盗んで秘密裡に男女の関係を持つのは、結局のところ、現実からの逃避に過ぎないのだ。二つの互いに矛盾する正しさの間で、勇気を以て一個の選択に総てを投じようとする果断を嫌がり、決定的な破局を迎えるまでの未決定の期間の中で、それらを矛盾したまま、共存させようとする怯懦は、どれだけ美名で飾り立てようと、或いは愛情の真実さを楯に糊塗しようとも、逃れ難い倫理的な頽廃として胸底に疼き続ける。

 不倫という関係性は、あらゆる誠実な愛情、真摯な愛情を、自動的に頽廃させるような危険な毒素を備えている。不倫の渦中にあるとき、当事者の男女は、この愛情が掛け値なしの本物であり、決して刹那的な快楽を追求するものではないと信じることによって、つまり自分たちの愛情は正真正銘「誠実なもの」であると相互に確認することによって、不倫という悪徳を美化しようと企図する。しかし、どんなに誠実で真摯な愛情であっても、それが不倫である限り、その愛情に発展的な未来はない。この「未来の欠如」という根本的な条件が、誠実で真摯な愛情に対しても、救い難い頽廃と堕落の成分を混入させるのである。

 完全に割り切って、つまり如何なる未来も欲する積りはないと割り切っていられるのならば、不倫は暫時の火遊びに終わる。酒を呑んだり、博打を打ったり、夜通し踊り続けるのと同じような「道楽」の範疇に留まる。そのとき不倫は、限りなく「セックス」の同義語に近付くだろう。男女の関係という肉体的な官能性だけを味わう為に、それを純粋に抽出して愉しむことだけが目的ならば、寧ろ不倫という関係性は都合がいい。そこには如何なる発展的未来も存在せず、従って性的な関係に諸々の厄介な倫理的観念(愛情や貞節や誠意や配慮や共感や理解など)が頑固な油汚れのように付き纏う心配もない。そのとき「セックス」は一切の政治的影響を排除された純然たる「スポーツ」に近付く。「スポーツ」そのものには善悪など求めようがない。同じく「セックス」そのものにも善悪という道徳的な尺度を宛がうことは無益である。しかし現実の社会で「スポーツ」が様々な政治的思惑との野合を避けられぬように、純然たる「セックス」も家族や共同体の道徳的規範から完全に自由であることは難しい。

 その意味では、完全なる遊戯として不倫に走っている人々は未だしも賢明であり、物事の関係性や構造を精確に捉えているのかも知れない。彼らは極端に言えば「セックス」という享楽を経験する為に貞操義務を裏切るのであって、彼らの愛情そのものは飽く迄も配偶者と家族の許にある。だが、そのように「セックス」と「愛情」、つまり肉体的なものと精神的なものとを便宜的に線引きし、使い分けられない人間にとって、不倫という関係性は最悪の悲劇である。つまり「愛情」の関与しないセックスは有り得ないと信じている人間が不倫の泥濘に嵌まり込んだとき、それは取り返しのつかない悲惨な事故へと高確率で発展するのだ。

 私自身は「セックス」というものに純粋な肉体的関心だけを見出す性格ではない。「スポーツ」に熱中する人々のように「セックス」に熱中する人間ではない。無論、私はそういう人々を断じて批難している訳ではない。そういう人々が存在するということは充分に理解出来るし、それを道徳的に批判する必要を聊かも認めない。ただ、私はそのように「セックス」を純然たる肉体的問題に還元することが出来ない。換言すれば、私は「セックス」を目的として捉えることが出来ず、飽く迄も「愛情」に通じる一個の手段として位置付けて生きているのだ。だから極端に言えば、相互の関係性の中で「愛情」を明瞭に感じることが出来ていれば、たとえ「セックス」が出来なくても別に困らない。私にとって「セックス」はゴールではなく、いわば一つのスタートに過ぎない。

 最初の結婚生活の末期、私に対する愛情を失った前妻は、私との性交渉を拒絶した。風俗へ行ってもらっても構わないので、私には指一本触れないでくれと明言された。その当時、私は死ぬほど苦しんだ。厳密には、私はセックスに飢えていたのではない。私は何より、前妻からの愛情の欠如に苦しんでいた。誰もがセックスという行為を好む訳ではない。道徳的、或いは生理的な嫌悪から、セックスという行為を単なる子作りの手段以上には考えない人々も決して少なくない。だから前妻がセックスを好まないのならば、それを無理強いしようとも思わなかった。問題は、彼女がセックスの拒否を通じて、私という人間を拒否していることだった。セックスの有無よりも、愛情の有無の方が遥かに私にとっては切実な問題であった。愛情さえあれば、別にセックスは不要であった。

 民法が性交渉を「不貞行為」の本質的な要件に定めているのは、セックスと愛情とのアマルガムを社会的な通念として認識していることの反映であろう。この通念は、セックスを純然たるスポーツとして捉えている人々には巧く適合しない。だが、私の場合に関して言えば、私は愛情の一環として不貞行為に及んだのであるから、民法の規定に本質的な意味で抵触したのである。

 私は二つの愛情の狭間で苦しんだ。私は妻を愛していないのではなかった。前妻との破局から、私は色々な反省を得た。そのとき、最も私が重く受け止めた教訓は「相手に依存しないこと」と「相手に愛されるような人間となる為に努力すること」の二つであった。自立した人間となり、相手に愛情を注ぎ、相手の幸福の為に行動すること、それによって今度こそ「離婚」という悲劇的な破局を回避すること、これが再婚に際しての私の重要な実存的課題であった。私は生来、我儘な人間であったが、そういう自分を改革せねばならないと痛切に感じていたのである。

 無論、我儘な性格が外殻を衝き破って露頭してしまうことも一再ではなかったが、私は粘り強く「愛情深い夫」として振舞うことに努力した。その努力が常に不足しているのではないかという不安を、片時も忘れることが出来なかった。何故なら、そうした努力の過不足は、妻の心理的情況によってのみ、測定されるものであったから、私は私自身の努力の過不足を、自分の考えで判定することが出来なかったのである。振り返ってみれば、それは異常な心理的情況である。妻がそれを求めた訳でもないのに、私は常に妻の顔色を窺うような生き方を選択していた。それは結局のところ、根本的な次元において、私が妻のことを信頼していなかったということだろう。離婚以来、私は如何なる男女も、永遠の愛を誓い合った男女でさえも、僅かな蹉跌の為に関係を破綻させるものであり、従って片時も油断してはならないという信仰を捨てることが出来なくなっていた。だから、私が妻の機嫌を損ねるような行動に出れば、妻は私を不要品の籠に抛り込むだろうと勝手に決め付けていた。私は妻の幸福を遮げない範囲で、自分の主張を訴えた。成る可く相手の要望に譲歩するように努めた。私は少しずつ主体性を失い、妻の機嫌を配慮することが生きることの根本を占めるようになっていた。繰り返すが、妻はそれを殊更に望んでいたのではない。恐らく妻は、私が考えていた以上に、私のことを愛情深い人間として評価してくれていた。ただ、彼女はそれが私の人工的な仮面であることには気付いていなかったと思う。この相互的な誤解は、私たちの関係を不幸なものに変えた。

 水滴が刻々と溜まるように、私の内部で限界が近付きつつあった。顔色を窺うと決めたのは私の独断であるのに、顔色を窺わなければ成り立たない状況に、私は不満を蓄積していった。丁度折悪しく、妻は育児のストレスに苦しめられて余裕を失っていた。彼女が不機嫌になる時間は増えていた。彼女が不機嫌であるということは、私の立場においては、人生の失敗である。不機嫌な妻の顔を見ることは、私にとっては、自らに課せられた使命の不履行を意味していた。私は苦しんだ。どうすればいいのか分からなかった。私は彼女の幸福の為に生きなければならないのに、彼女の不機嫌な顔は、私の努力の不足を暗示している。丁度年末の繁忙期で、小売業の現場は精神的にも肉体的にも過重な負担を私に強いた。家でも職場でも、私は安心するということが出来なかった。私は随分と疲れていて、自分の信ずるべき正しさが何処にあるのか、見えなくなっていた。そのとき、私は不倫相手となった部下の女性と共に働き、言葉を交わすことに、僅かな慰藉を得ていた。一度意識し始めると、感情の亢進は一瀉千里であった。一歩間違えばセクシャル・ハラスメントで告発されるところだが、幸いにして、彼女もまた私に好意を持っていた。無論、彼女は私に妻子があることを知っていたから、自ら積極的に関係を画策しようとはしなかった。総ては私が決断し、主導したことであった。その意味では、先方もまた被害者である。

 何故、私は不倫という関係性に逃げ込む前に、きちんと妻と向き合って話し合わなかったのだろうかと思う。結局、私は孤独な芝居を演じていただけだ。妻に嫌われることを懼れ、勝手に善良な夫を演じ、その芝居に堪えられなくなって潰れかかっても、妻に本音を打ち明けられず、結果として余所の女に手を出して慰藉を求めた。何もかもが幼稚で、独善的な構図であった。

 不倫が発覚したとき、私は妻と別れようと思った。それが不倫相手に対する誠意でもあると思った。きっと妻も、こんな穢れた男とは別れたがるだろうと思っていた。けれど妻は、私が不倫をしたという事実を知っても猶、二人の未来を信じようとしていた。私は妻にそんな覚悟があると思っていなかった。そもそも結婚は二人で合意して始めたことなのに、私は自分だけが相当な覚悟を背負っているような積りでいた。私が婚姻の成否に関わる総ての責任を負っているような積りでいた。私が何か手酷い行為に及んだら、妻は直ぐに絶望して、私の許を去るだろうと思い込んでいた。けれど、彼女は逃げなかった。私に傷つけられても、私を見捨てようとしなかった。私は今まで、彼女の何を見ていたのだろう。私は彼女が私の仮面を見破ってくれないことに不満を覚えていた。けれど、結局は私も同罪ではないか。私は彼女の真実を見ようとしていなかった。彼女の本気の覚悟を信じていなかった。そういうことが、不倫とその発覚という経緯を通じて、初めて分かった。

 結婚して数年が経ち、娘も生まれ、その間に私たちは随分と互いの真実を理解しているような積りになっていた。しかし本当は、互いの善良な部分しか見ていなかった。或いは、表面的な態度しか見ていなかった。今までの私たちの結婚生活は、茶番に過ぎなかった。子供の飯事に過ぎなかった。けれど、これからは違う。これから、私たちは本当の意味で、夫婦になるのだ。相手の顔色を窺うのではなく、自分の本音を勇気を以て伝え合うのだ。それで口論になったとしても、それは失敗ではなく、必要な過程なのだ。「愛している」という言葉は、不倫相手に対しても、幾らでも使うことが出来る。けれど生涯の伴侶に対しては「愛している」という安っぽい甘言は相応しくない。伴侶に対して言えるのは、「何があっても共に生きていこう」ということだけだ。この言葉は、不倫相手には決して言えない。何故なら、不倫には共に生きていくという未来が原理的に存在しないからだ。にも拘らず、私は不倫相手を愛してしまった。未来を与えぬままに愛した。それは彼女に対する罪であった。未来を与えぬ愛など、愛ではない。愛しいという気持ちがどれだけ切実なものであったとしても、未来を与えぬ者に、人を愛する資格はない。それが不倫の根本的な悪徳であると、愚かな私は、今になって漸く痛感しているのだ。

「決断」に就いて 2

 丁度一年前に「『決断』に就いて」という表題の記事を書いていた。はてなブログから、定期的に送られてくる振り返りのメールを開いて、偶然に知ったのである。それに触発されて再び「決断」という観念、或いは行為を巡って、文章を認めたいと思った。

 人間は日々、何らかの決断を下しながら生きている。厳密に言えば、それは個別的な「判断」と称するべきかも知れない。一年前の記事では、私は次のように書いていた。

 否応なしに、私たちは常に、刻一刻と「決断」を迫られている存在である。何も選ばないという選択さえも、否応なしに一つの「決断」として何らかの具体的な現実を喚起してしまう。

 だが現在の私は、この文言に若干の訂正を加えたいと考えている。つまり、私は日々の営みの中で半ば自動的に行なわれている反射的で慣習的な「判断」とは異質な次元に属するものとしての「決断」に就いて、検討を試みているのだ。

 「判断」は、予め出来上がった大局的な枠組みの中で、いわば過去の延長線上で為される決定である。人間は誰しも記憶の中に様々な試行錯誤の経験や、他人から教わった知識や事柄を蓄えている。「判断」を下すのに要する時間の多寡は状況によって多少は増減するが、何れにせよ、それが既存の価値観や世界観の内包する原理に基づいて行なわれるプロセスである点に変わりはない。

 だが「決断」は、そのような「判断」を可能にする従来の体系や秩序そのものを瓦解させ、転倒させ、更新するような決定である。つまり、それは既存の価値観に基づかないどころか、その内在的な矛盾や亀裂を根拠として形成される重要な分水嶺なのである。「決断」の前後では、日々の「判断」の性質や方向性さえも変容を遂げてしまう。「判断」を支える根底的な基盤が書き換えられてしまうのだから、そのような変貌が生じるのは当然である。

 そう考えると「決断」には畏怖すべき重要な役割、巨大な意義が課せられていると言える。「決断」に踏み切るとき、私たちは今までの自分自身の秩序を抛棄しなければならない。古びた自分を否定し、新しい世界へ通じる扉を押し開ける為には、従来の「判断」の蓄積に対する依存を断ち切らねばならない。この重要な決定が多大な心理的混乱を招来するのは自然な現象である。それは今までの自分が浸っていた安楽で馴染み深い環境や条件を棄却することと同義であるからだ。過去の栄光や幸福に対する訣別の表明であるからだ。過去の自分が依存し、立脚し、執着し、慈しんでいた世界からの出発を意味するからだ。

 「決断」は孤独なものである。それは如何なる約束や、確実な希望や、外在的な庇護とも無縁であり、あらゆる事前の保障から見放されている。「決断」は、半ば習慣化された自動的な「判断」の安定した精確さに頼ることが出来ない。過去の尺度は通用せず、過去の反復によって乗り超えることも出来ない世界へ移行することが「決断」の本義である。「決断」は孤独なものであり、他人の基準に縋って決定することも引き受けることも出来ない。「判断」には根拠がある。累積した過去という材料が与えられている。しかし「決断」には根拠がない。可能性に対する信頼だけが、つまり未来に対する意志だけが「決断」という重要な営為を支えているのだ。

saladboze.hatenablog.com

相手から依存されることに喜びを見出すのは、自分が相手に依存していることの証拠である。

 依存するというのは、弱者が強者に縋りつくような関係性のことを指していると思われがちだが、少なくとも依存的な関係が長期化する場合には、依存される側にも何らかの利益が発生していると看做すのが自然な推論である。依存される側に立っている強者が、相手から突き付けられる種々の理不尽な要求にも拘らず、保護者的な振舞いを熱心に行なっているとき、その光景を恰かも「無償の愛情」の崇高な実例であるかのように捉えてしまうことがある。だが、それが本当に如何なる報いも求めず受け取らない「無償の愛情」であると認定し得る事例は決して多くない。大抵の場合、その相対的な強者は特定の依存的な人物との間に共犯的な関係性を築いており、そこから何らかの心理的実益を吸い上げている。物質的な利益を何も得ていないように見えるからと言って、その保護者的人物が崇高で剣呑な自己犠牲にばかり身を挺していると判断するのは短慮である。世の中には、依存されることによって自分の存在を肯定し、承認し、信頼することが出来る種類の人間がいるのだ。

 それは一見すると健全な在り方のように見える。つまり、弱者に手を差し伸べて庇護することに歓びを見出すという人格的な特性は、多くの公共的な実益を齎す好ましい美質であるように見え易い。だが、物事の表層だけを捉えて、その真価を判定する性急な態度は慎むべきであろう。

 本当の意味で「与えること」そのものに歓喜を見出す人物ならば、あらゆる社会的称讃に値すると言えるだろう。だが、他人から「依存されること」に歓喜を見出すという人格的特性は、厳密に検討すれば、或る危険な徴候の所有者であると看做し得る。彼らは他人に与えることを通じて、自己の存在に対する信頼の源泉を確保している。換言すれば、彼らは誰からも依存されなくなったとき、自己に対する信頼の根拠を喪失してしまう。特定の人間関係に深く執着することで自己の実存を支えているという意味では、保護者も依存者も、根本的な次元において同類である。両者は、同じコインの裏表程度の違いしか持っていない。相手に依存し、絶えざる庇護を求める弱者だけが、その関係性における倫理的な「頽廃」の責任を問われるのではない。依存者を庇護することに己の実存の基盤を求め、相手から依存されることで己の価値を確かめようとする相対的強者の側にも、同等の責任が問われるべきなのである。

 こうした客観的事実を、相互的な依存関係の当事者たちが、その渦中に身を置いたままの状態で、正しく理解することは難しい。そこには数多の錯雑した謬見と誤解が折り重なっていて、厳粛な真実への眼差しを遮蔽している。保護者は、依存的な伴侶(この場合の「伴侶」という言葉は広義に解されねばならない)への献身的な奉仕を、相手に対する崇高で誠実な愛情の発露であると容易く信じ込んでしまう。この謬見は、傍目には美しい愛情の発露として映じる可能性が高いので、なかなか覆されることがない。或いは、沈着な第三者から、その献身的な奉仕の病的な過剰さを指摘されたとしても、当事者は尤もらしい理窟を弄して、相手に対する過度の献身を「崇高な愛情」であると強調することが出来る。その内面的で観念的な虚飾は、沈着な第三者にとっては直接的な利害の生じる対象ではないので、献身と庇護の病的な過剰さに対する批判的な言及は往々にして、控えめな指摘のままに留まり、決定的な効果を発揮することは稀である。

 こうした困難は、愛情という理念を過度に「内面的なもの」として定義する近代的な通念の齎した宿痾であると言えるだろう。愛情の有無、その性質を、外面的な言動を材料として判定するのではなく、飽く迄も当事者の内面的な問題として測定する態度は、愛情に関する心理的構造の不可視化を促進する。「眼に見えないもの」を重んじる神秘主義的な態度が、近代的な愛情の観念と結び付くとき、共依存の内包している頽廃的な性質は、熾烈な情熱という美名の下に隠匿されてしまう。相互扶助の重要性は言うまでもないことであり、それが人間の形作る社会の根本的な原理であることも明白な事実である。だが、力の及ぶ限り、自主独立の精神を貫徹するという大原則がなければ、相互扶助の美徳は直ちに失墜して、単なる頽廃的な共依存の深淵へ嵌まり込んでしまう。共同体の原理が、単なる馴れ合いの体系に過ぎないのであれば、そこには如何なる革新的な未来も、建設的な成長も到来することがない。

 自主独立の精神を欠いた相互扶助は、責任という意識を欠いた依存的な人間の集合に過ぎない。あらゆる不平不満の解消を他人に求め、決して自らの力で責任を全うしようと志すことのない倫理的な頽廃が猖獗を極めれば、共同体の醜悪な瓦解は時間の問題となる。相互扶助は、銘々が己に課せられた責任を当事者として引き受けることを原則としており、それは怠惰な依存や、過剰な自己犠牲とは異質な次元に属する、崇高な社会的理念である。

機智と空想 三島由紀夫「永すぎた春」

 三島由紀夫の「永すぎた春」(新潮文庫)を読了したので、感想を書き留めておく。

 「金閣寺」や「禁色」の限界まで彫琢された硬質な文体の恐るべき威力に慣れた眼から眺めると、この「永すぎた春」という作品の文体は随分と砕けて弛緩しているように見える。無論、この場合の「弛緩」という言葉は、作者の意図的な選択と戦略の賜物であって、技術的な拙劣を意味するものではない。作者は敢えて弛緩した、彫琢の行き届かない文章(厳密には、彫琢を行き届かせぬように配慮した文章)を駆使することで、この作品が過剰な文学性の外観を纏わぬように手加減したのであろうと思われる。

 「純文学」と「大衆文学」という古臭い区分が現代においても有効性を保っているのかどうかは知らない。ただ、芸術性と娯楽性との間に何らかの線引きを試みることは、文学に関する評価や思索を進める上では、少なくとも補助線程度の役には立つのではないかと思う。端的に言って、芸術性とは、社会における通俗的な観念を破砕し、日頃は抑圧されている非合法な思考と情熱の世界に、尖鋭的な表現を与えるものである。一方の娯楽性は、既に公共的な合意を得ている社会的な観念の枠内で、いわば「公序良俗」を尊重するような仕方で、時代の観念に適合し、それに奉仕することである。公然と認められた価値観、公然と認められた快楽に奉仕すること、いわば「安全な快楽」を提供することが、娯楽的な文学の背負っている主要な目的である。それは芸術性が自らの目的と使命を果たす過程で、頻々と社会的な通念や公共的な合意を蹂躙してしまうのとは全く対蹠的な性質であると言えるだろう。

 こうした便宜的区分に従って論じれば、この「永すぎた春」は明らかに娯楽的な文学の範疇に属しているように見える。同時期に並行して執筆された「金閣寺」の禍々しい反社会性と比較すると、作者は自らの精神的な平衡を維持する為に敢えて「永すぎた春」という作品を構想したのではないかと思われる。「永すぎた春」には三島一流の、底意地の悪い穿った心理的描写が、服用し易いように適度に稀釈されて鏤めてあるが、それを反社会的な観念と呼ぶことは如何にも大仰な虚飾である。長い婚約期間における男女間の様々な波乱を描くという発想には、幾らでも三島の美学と哲学に基づいた犀利で狡猾な省察を刻み込むことが可能であるように思われるが、実際には、作者は「永すぎた春」の随所に時代の一般的な通念に対する甘い配慮を忍ばせている。「金閣寺」で凄まじいほどの反社会的な悪意と敵愾心を撒き散らした反動のように、或いはその埋め合わせのように、作者は時代の通念に対して素朴な礼儀を堅持している。様々な波乱が起こっても、それらは総て、最終的な「幸福」への伏線でしかない。つまり、波乱は生じても一向に「破局」が生じない。国宝の金閣寺に火を放つような「破局」の危険性は注意深く排除されている。その結果として、物語や登場人物に対する解剖学的な眼差しも、慎み深い紳士のように、無害な領域ばかりを見凝めて、本当の深淵を覗き込もうとしていない。この作品が当時、十五万部を売り捌くベストセラーとなったという歴史的事実は恐らく、そうした禁欲的な姿勢の産物であろう。通俗的な理念に精緻な技巧で奉仕する三島の皮肉な文業に、社会の側が歓んで拍手喝采を送ったのである。

 或る意味では、この作品は「潮騒」と同様に、一つの通俗的な童話であり、喜劇的な機智に縁取られた清々しい空想の物語である。恐らく作者は少しも斯様な「幸福」の形態を信じていないのではないかと思われる。少なくとも「金閣寺」や「禁色」を書いた三島由紀夫という人物にとって、「潮騒」や「永すぎた春」に充ちている典雅な「幸福」の形象は、皮肉で逆説的な憧憬の対象に留まっているのではないか。「仮面の告白」を書いた作者が「永すぎた春」の通俗的異性愛の範型を、心の底から信頼することなど有り得ないと私は思う。その意味で、これは確かに作者の「余技」であり「娯楽」であり、単に黙って読んで愉しめばいいだけの作品である。往時の風俗を偲ばせる様々な描写を好奇の眼差しで拾い集めて愛でるのに適した小品である。或いは作者は、己の社会的な成熟に自信を持ったのかも知れない。「仮面の告白」において明瞭に示されている「正しい欲望への欲望」或いは「道徳的な欲望への憧憬」を、落ち着いた心境で統御し得る段階に到達したことの反映なのかも知れない。何れにせよ、余り小難しい理窟を弄してページを捲るべき作品ではない。

永すぎた春 (新潮文庫)

永すぎた春 (新潮文庫)