サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「無垢」のフィルター、恩寵としての「情死」 三島由紀夫「岬にての物語」

 三島由紀夫の短篇小説「岬にての物語」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 幼い少年の視線を通じて描かれた、この悲劇的な情死の物語は、例えば晩年の傑作「憂国」のように、当事者である若い男女に焦点を合わせていない。専ら少年の眼に映る風景が、幼さゆえの無垢と無智の為に幻想的な衣裳を被せられて、綿々と綴られていく。しかも、その文体は後年の引き締まった論理的圧縮の代わりに、三島の若年期に特有の、抒情的な贅言を塗り重ねる油絵の風情を備えていて、作品を支配する夢幻の雰囲気を一際強めているように感じられる。少年の幼気な心情と、間接的に暗示される惨劇との間に、途方もない断絶と落差が穿たれていることも、非現実的な色彩の氾濫という印象を与える要因として働いている。

 美しく若い一組の男女が、余人の眼には定かならぬ理由(それは読者に対して語られず、語り手である少年にも明晰には理解されない)に強いられて、断崖から静謐な汀へ飛び込み、情死するという主題は、三島の豊饒な文業を徴する限り、作者にとって最も重要なオブセッションであったのだろうと推察される。少年の眼を通して語られている所為か、情死する男女の間には「憂国」のような噎せ返るほどの官能的臭気は微塵も滲んでおらず、二人はまるで明朗な御伽噺の主人公のように、生々しい肉体的な質感を欠いた澄明な影絵の如き存在として描かれている。

 三島の作品における「情死」は、紛れもない「恩寵」として、飽くなき崇拝と憧憬の対象に推戴されている。美しさの絶頂において時の流れを止めること、それは虚無的な「時間」の圧政に抗う最も崇高な方法として定義されており、そうした考え方は晩年の「天人五衰」における本多繁邦の重苦しい述懐にまで引き継がれている。恐らく三島にとっては芸術的創造という営為さえも、無機質な時間の遷移に対する抵抗の役割を担っていたのだろう。時空を限定することで生み出される、凝縮された「時間」の結節点としての「作品」は、無限に持続する「時間」の廃絶に向けて投じられた賭け金なのである。

 この凝縮された「時間」の結節点は、別の表現を用いるならば「宿命」であり、或る瞬間的な現在の特権化を含意している。「宿命」とは予告された意味の顕現、事前に定められた掟の介在であり、それに捕縛された人間は、無意味な「時間」を免かれて何らかの「物語」の領域へ強制的に編入される。彼は「意味」を持たない無際限な継起、偶然性だけで織り上げられた虚無の「時間」から解放され、隅々まで明確な「意味」で充たされた堅固な人生を駆け抜けるのである。そのとき、彼の思想や行為は悉く、超越的な星図との間に特別な照応を示すだろう。物語という天蓋によって世界を蔽い尽くすこと、荒涼たるニヒリズムに渾身の力で叛くこと、それが三島由紀夫という作家の胸底に宿った最大の野望なのである。

 尤も、この「岬にての物語」において、無垢な少年に擬せられた作者の視点は未だ、宿命的な物語を生きる当事者の苛烈な内奥には達していない。彼は儚い目撃者のように、到来する悲劇の片鱗を辛うじて瞥見するだけに留まる。それは丁度、戦時下の青春期に華々しい「夭折」の悲運に憧れながら、遂に戦場の英雄となる資格を得られぬまま、忌まわしい終戦詔勅を拝受した作者自身の境遇に酷似している。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

 

「いつわりならぬ実在」への憧憬と恐懼 三島由紀夫「苧菟と瑪耶」

 三島由紀夫の短篇小説「苧菟おっとお瑪耶まや」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品は「花ざかりの森」同様、小説であるというよりは観念的な抒情詩に近い散文であり、尚且つ一個の作品として明確に離陸しているとは言い難い。一組の儚い男女の恋愛、恋人の死、悲嘆と恢復、そういった物語の原液とでも称すべき挿話と主題が、明晰な図像に結実する代わりに、夥しい比喩に彩られた観念的幻想の連鎖として綴られていく。恐らく三島由紀夫の後年の文学的成果を析出する諸々の要素は既にこの「苧菟と瑪耶」の裡に豊富に含まれているのだろうが、それは未だ独立した組織体としての明確な秩序、適切な構成を獲得していない。

 彼の日もすがら思いまどうているもの、それのためにおびえつづけているもの、いわば「いつわりならぬ実在」なぞというものは、ほんとうにこの世に在ってよいものだろうか。おぞましくもそれは、「不在」の別なすがたにすぎないかもしれぬ。不在は天使だ。また実在は天から堕ちて翼を失った天使であろう。なにごとにもまして哀しいのは、それが翼をもたないことだ。(「苧菟と瑪耶」『岬にての物語』新潮文庫 p.11)

 この「不在」という観念は、プラトンにおける「イデア」(idea)のように、決して肉体的な感官によっては把握されることのない不可視の「実相」を暗示しているように思われる。その「実相」に数多の雑駁な偶有的要素が附加されることによって、初めて「いつわりならぬ実在」は可視的な「仮象」の衣裳を纏うことが出来るのだ。

 死んだ瑪耶は、現象界に属する肉体的な仮象を脱ぎ捨てて、透明な「実相」の世界へ回帰する。その面影を慕いながら、やがて彼女の「本質」と融合する特別な秘蹟を体験したかのように見受けられる苧菟の姿は、プラトニズムにおける「恋心」の定義の詩的な再現のようにも感じられる。抒情的な幻想の連鎖は後年、論理の厳しい冷徹な運動と鋭く擦れ合って、徐々に明確な組織と秩序を形成し、例えば「金閣寺」のように稠密な構造を備えた傑作の生誕を準備することとなる。その意味では、この「苧菟と瑪耶」は極めて個人的な習作の部類に属するものと考えるべきだろう。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

 

サラダ坊主の推薦図書5選(三島由紀夫篇)

推薦人「サラダ坊主」の前口上

 三島由紀夫の遺した夥しい数の小説を、今でも熱心に読み続けている人口がどれくらい存在するのか、その実数を審らかにする手段を私は持ち合わせていません。物故した作家としては例外的なほど、現在でも過半数の作品が現役の文庫に収められて、誰でも容易く入手し得る環境が整備されていることは驚くべきことですが、その恵まれた条件を活かして、彼の作品に果てしなく深入りしている読者は、恐らく現代日本社会の多数派ではないでしょう。

 戦後の日本文学を代表する作家として、ノーベル文学賞の候補にも挙げられ、華々しい名声に恵まれながら、奇矯な後半生と犯罪的な末期の為に社会的な誹謗と嘲笑の対象に据えられ、その作品に関しても、人工的で華美で、具体的な実質を伴わない「壮麗な虚飾」のように扱われ、侮蔑されることの多い三島由紀夫という作家の複雑な評価は、恐らく彼の存在の黙殺し難い巨大な威容を暗示しているのではないかと思われます。「楯の会」の活動や自衛隊への体験入隊、剣道への傾倒、そして「憂国」における切腹へのフェティシズムと、その常軌を逸した再現であるかのような市谷駐屯地での割腹自殺など、社会の一般的な基準に照らせば「異常」と思われる類の行動が目立ったことも、彼の輝かしい声価に対する致命的な毀損を齎した要因であると言えるでしょう。

 また、作品そのものに関しても、その観念的な文体、現代の日本人の平均的な読解力では直ぐに振り落とされてしまうような語彙と措辞も、新たな読者の爆発的な獲得を妨げる要因となっているのではないかと考えられます。代表作である「金閣寺」にしても、例えば柏木の披露する難解で逆説的な弁舌や、女の乳房が「金閣」に変貌するといった奇妙な認識の記述は、初心な読者の生理的嫌悪を煽りかねないものです。敷居の低さから「潮騒」を推薦する方もおられますが、あれは却って三島の文業における異端の部類に属するもので、あの晴朗な純愛の風景を鵜呑みにして「金閣寺」や「禁色」に手を出せば、心に火傷を負うような事態に陥りかねません。「潮騒」の健康な性愛は、三島の憧れでなければ、寧ろ皮肉な悪意の賜物なのです。

 或いは、三島由紀夫に固有の力み返ったロマンティシズム、聊かも甘美ではなく寧ろ残忍で悲劇的であるような倒錯的ロマンティシズムの大仰な性質に、付き合い切れない臭味を感じる読者もおられるでしょう。見方によっては、彼の文学は些末な事柄を大袈裟な苦悩の対象に祀り上げるパセティックな事大主義の権化であると言えます。「金閣寺」は昭和の史実に取材しながら、若い寺僧が濃密な観念的格闘の末に鹿苑寺金閣へ放火する過程を描いた作品ですが、そこで綿々と縷説される寺僧の煩悶の一語ずつに、到底附合い難い退嬰的な不毛を感じてしまえば、あの傑作は単なる陰鬱な架空の手記に過ぎないということになります。

 このように、敷居の高さを計え上げれば切りがないように聞こえますが、誰にとっても初見で馴染み易い世界ならば、その奥行きは自ずと限られているということになるでしょう。三島の文学における特殊な性質は、その抱え込んでいる世界の稀有な独自性の証明に他ならないのです。勿論、排他的な独自性がそれだけで価値を帯びると強弁する積りはありません。若しも私たちの暮らす日常と地続きの価値観だけが、芸術の審美的な基準を左右するのならば、わざわざ芸術に触れて、見慣れた風景の焼き直しを辿り直す必要は稀薄であると言えるでしょう。その場所でしか手に入らないものや、味わうことの出来ない風景との邂逅を期待して、書物を繙くのが世の中の習いであるならば、三島由紀夫の作り出した特異な世界を、その奇矯な性質ゆえに毛嫌いして無条件に斥けるのは無益な振舞いであると言えます。

 未だ三島由紀夫の主要な小説を読破するという個人的計画は達成の暁を迎えていませんが、私の独断と偏見に基づいて、下記の通り幾つかの作品を推薦図書として挙げさせて頂きます。

①「金閣寺」(『金閣寺新潮文庫) 

金閣寺 (新潮文庫)

金閣寺 (新潮文庫)

 

 三島由紀夫の遺した作品の中で最も著名であると同時に、明確な主題、精緻な文体、緊密な構成によって織り上げられた紛れもない独創的傑作。

 この作品の題材は一九五〇年に起きた金閣寺放火事件に求められているが、三島の紡ぎ出した「金閣寺」の物語は、客観的な史実など歯牙にも掛けていない。彼は事実の精密な再現や解剖に情熱を燃やしたのではなく、元来三島由紀夫という人物の精神に巣食っていた積年の主題に相応しい恰好の事実を欲したのである。素晴らしい原料を手に入れて、持ち前の文学的技倆を存分に発揮した三島の独自な美学は、史実の備えている禍々しい暗鬱な気配を借景として、類例のない絶巓に達している。

 語り手である寺僧の溝口は、現実の金閣よりも想像の中で極限まで美化された金閣の方を本来的な実在として信仰するというプラトニックな倒錯を患っている。現実の金閣は何らかの理由で本来の絶対的な美しさを秘匿していると看做されるのだ。こうした発想は一般に、主観的な思い込みの方が客観的な事実に基づいて修正されるものだが、溝口の堅固な筋金入りのプラトニズムは、そうした通俗的解釈を頑として峻拒している。こうした思考の形式にとって避け難い最大の難点は、感覚的な事実が悉く色褪せて見えることだ。この作品において描かれる性的不能は、イデアとしての美しさに恋焦がれる余り、現実の肉体的な美しさが一種の「劣化」として感じられるという絡繰に基づいて喚起されている。溝口の友人である柏木は、美という観念を侮蔑し冒瀆することによって不能からの恢復を勝ち得るが、溝口の側には、柏木ほどの野蛮な覚悟が容易には備わらない。

 金閣寺への放火という最も重要で劇的な主題に就いては、多様な解釈が可能であろうと思われる。柏木と同じ方針に基づいて、いわば「美を怨敵と看做す」ことによって現実の感覚的で現象的な人生に参与しようと試みる意志の産物であるとも言えるし、現象としては不完全な金閣の美を完全なものにする為に、その地上的な実体を焼き払ってイデアとしての金閣に還元しようと企てたのだと捉えることも出来る。私見では、前者の論理の方が、作品の構造として平仄が合っているように思えるが、どうだろうか。若しも溝口が絶対的な美の具現を望んで放火したならば、彼は焼亡する金閣と共に死ぬべきではないだろうか。彼が作品の末尾で「生きよう」と呟くのは、到達し難い究竟頂の齎した「絶望」の反映であるかも知れない。事実、溝口は犯行の過程で不意に「この火に包まれて究竟頂で死のうという考え」(p.327)に囚われるのである。にも拘らず、決して開かぬ究竟頂の扉の為に、彼は美のイデアから拒絶されているという認識を持ち、現象界における実存の側へ復帰する。プラトンは生きながらイデアへ到達することの不可能性を「パイドン」において示唆したが、この究竟頂の経験は、たとえ死んだとしてもイデアへ到達することは望み得ないという絶望的な真実を暗黙裡に告げているように思われる。それはかつて柏木が語った言葉を借りるならば「仮象が実相に結びつこうとする迷蒙」(p.130)によって惹起された衝迫なのだ。

 こうした「超越」の論理に関連する主題は、三島の文学を貫く重要で過激な基調音である。煎じ詰めれば、絶えざる夭折への憧れも、悲劇的な宿命への期待も、こうした「仮象」と「実相」のダイナミズムに由来している。幾ら蒼穹に憧れても決して自力では羽搏き得ない肉体を強いられた人間の苦衷を、これほど熱心に追究する筋金入りのロマンティストは最早、稀少な存在である。

②「憂国」(『花ざかりの森・憂国新潮文庫

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

花ざかりの森・憂国―自選短編集 (新潮文庫)

 

 三島由紀夫の抱え込んだ宿命的な欲望の形態を、血腥い情事の幻想の裡に彫り込んだ「凝縮」の逸品。

 「憂国」という小説を、国粋主義や右翼的な精神と結び付けるのは無益な誤解である。登場する若く美しい夫婦の壮烈な自裁は、政治的な憂悶とは無関係であり、重要なのは「大義」の庇護を仰ぎながら、己の生涯を一つの「宿命」に高めることである。主義主張の内実など、各自の趣味に合うものを選べばそれでいい。彼らの悲劇的な末期が「宿命」の恩寵に照らされて、時間を超越した一個の「作品」として昇華されるのならば、つまり、彼らが絶対的で超越的な権威に「強いられて」死ぬのであれば、具体的な理由に関わらず、三島の野心と欲望は十全に充たされるのである。

 死ぬことが恩寵であるという教義は、三島の信奉する独特な実存的思想の枢要を成すものである。その理由の一つは、死が「老醜」という悪しき生理的現実から美しい若者を救済するからである。三島にとって「美」は最も重要な価値的規範であり、彼の野心は絶えず「美との合一」という不可能な欲望に深々と結び付いている。言い換えれば、三島にとって「男女の性愛」は美しくなければ意味がないのである。

 永続性に対する不信、つまり「時間」の齎す避け難い「腐蝕」と「風化」の作用、もっと端的に言えば「時間」という無限性への嫌悪、これらの要素は、三島の演劇的な欲望を析出する素地の役目を担っている。言い換えれば、彼は「時間」の無意味な持続、無際限な虚無の広がりを忌み嫌っているのである。彼は「物語」のように明確な、凝縮された「時間」の到来を絶えず欲していた。性交という一個の肉体的で官能的な営為は、それ自体では巷間に有り触れていて、特権的な意義を持ち得ない。単なる肉体の交わりを比類無い審美的価値にまで高める為には、それを一つの崇高な「物語」として凝縮する必要がある。「物語」を生むという行為は、要するに「時間」に「価値」を与えることと同義だ。だからこそ三島は、若い軍人とその妻の官能的な営為に特権的な価値を、つまり抗い難い「大義」を賦与する段取りを組み立てた。彼らの心中は一個の崇高な「物語」に昇華された。その瞬間に訪れる劇しい歓喜は、無限に持続する「仏教的な時間」の日常性に埋没している限り、絶対に獲得し得ない感情の形態である。そして、無際限な時間の持続を一つの「物語」に凝縮する方法として「死」は最良の明快な選択肢である。尤も、三島は「死」に関しても、それが無意味な終焉であることを望まなかった。何らかの劇的な意味を充填しない限り、肉体的な死は肉体的な交わりと同様に、凡庸な生物学的現象に過ぎない。

③「真夏の死」(『真夏の死』新潮文庫

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 

 実際に起きた悲惨な事件に取材して、日常の幸福と引き換えに「特別な悲劇」の到来を希求する女の危険な心情を描いた、切れ味鋭い技巧の光る佳品。

 海浜における不幸な事故で二人の子供を失った女性が、静かな時間の堆積に堪えて徐々に希望を恢復していく物語のように見せかけながら、末尾の数行で不吉な反転を示す三島の怜悧な技巧は、作者の抱え込んだ特異な野心を一種の怪談のように漂わせ、行間に滲ませている。本来ならば誰にとっても忌避すべき凄絶な心の傷痍を負い、深く苦しみながらも、その快癒の過程で平穏な日常に「物足りなさ」を覚えるという朝子の心理的推移は、一般論としては明らかに常軌を逸した狂気の香りを孕んでいると判定されるべきものだろう。しかし、この奇怪な転回は如何にも三島的な主題であり、単なる精神的傷痍からの温もりに満ちた恢復などは、風変わりな作者の創造的な意欲を決して喚起しなかっただろうと思われる。

 一般に「幸福」という観念は、不快な事件の起こらない平穏な「日常」の裡に胚胎すると信じられている。劇しい喜怒哀楽の目紛しい変転は、恐らく「幸福」という即自的な充溢を決して容認しないに違いない。三島の演劇的欲望は、何事も起こらない平常の「幸福」という観念を断固たる態度で排撃する。劇的な「物語」から見限られた、退屈極まりない無為の時間の累積、その平淡な薄味を賞玩するには、三島の感受性は余りに貪婪で、その嗜好は濃厚な旨みに餓えていたのだろう。「悲劇的な宿命に襲われた女」という暗鬱な物語の主役として世人の注目を集める為ならば、朝子は惨たらしい水難事故の再来すらも辞さないのである。彼女の欲望は、世俗的な「幸福」の通念と絶縁している。しかもその姿は、戦後の社会に抛り出された三島自身の似せ絵のようにも思われる。つまり「物語」の息絶えた世界に向かって、腕尽くで「物語」や「宿命」の巨大な彫像を創り出すこと、平俗で単調な時間を凝縮し、そこに突拍子もない悲惨の種子を植え付けて、怪奇な幻想を炎上させること、頗る端的な表現を用いるならば「退屈を破壊すること」、これらの使命に駆り立てられた作家の胸底と、朝子の不穏な心情は明瞭に酷似している。

④「午後の曳航」(『午後の曳航』新潮文庫

午後の曳航 (新潮文庫)

午後の曳航 (新潮文庫)

 

 洋上の孤独な英雄たる己を脱ぎ捨てて、陸上の凡俗な保守的風習に阿ろうとした男の「堕落」を、酷薄たる少年たちの集団が処刑する不吉で精緻な傑作。

 「金閣寺」においてプラトニックな青春の自画像を焼き捨て、その後の「鏡子の家」において「戦後的実存」の複数的な類型を検討した三島が、持ち前の審美的論理からの脱却を試みていたことは、例えば日録の形式を取った気儘な批評の集成である「裸体と衣裳」などを読めば明晰に看取される年譜的事実である。その象徴が「結婚」であることは論を俟たない。三島にとって「恋愛」は「物語」で有り得るが、少なくとも「幸福な結婚」は如何なる「物語」の成立も約束しない。作中に夫婦を登場させる場合であっても、そこに何らかの「不義密通」に類する情熱が介在しなければ、「結婚」は「物語」としての演劇的性質を獲得することが出来ないのだ。何故なら「結婚」は、原理的に「永続性」という時間的観念と不可分の緊密な紐帯を宿した制度であるからだ。そこに日常的な時間を超越する輝かしい契機を期待することは出来ない。若しも姦通による擾乱を導入しないのであれば、例えば「憂国」の軍人夫婦のように「大義」の威光を拝借して凄絶な自裁を選び取り、無際限に反復される単調な「時間」の累積を絶ち切る必要がある。

 塚崎竜二の結婚は、作者である三島が少年期から保持し続けてきた壮麗な演劇的欲望の終焉を暗示する。彼は「物語」への絶えざる憧憬を扼殺し、無為の時間に堪えて「老醜」さえ受け容れることを選択し、船乗りの生活を捨てて陸に上がる。それを処刑する少年たちが、奇態な演劇的欲望の熱烈な信奉者であることは論を俟たない。そのように考えれば、この「午後の曳航」という作品は「鏡子の家」において有能なニヒリストである杉本清一郎を生き延びさせた三島の「成熟」に対する決意を断罪するものであると定義し得るかも知れない。結局のところ、三島の度し難い演劇的欲望は、英雄的な野心の挫折を承諾しなかった。退屈な日常への安住が、三島由紀夫という人物の独創性を根底から破壊するものであったことも、その一因ではないかと推測される。

⑤「豊饒の海」(『豊饒の海新潮文庫

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

豊饒の海 第一巻 春の雪 (新潮文庫)

 
豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

豊饒の海 第二巻 奔馬 (ほんば) (新潮文庫)

 
豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

豊饒の海 第三巻 暁の寺 (あかつきのてら) (新潮文庫)

 
豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

豊饒の海 第四巻 天人五衰 (てんにんごすい) (新潮文庫)

 

 言わずと知れた三島の遺作であり、それまでの文学的経歴の総てを傾注した畢生の大作。

 三島がその生涯を通じて最も巨大な「物語」の構築に着手するに当たって、「輪廻転生」という仏教的な観念を全篇の骨格に採用した理由は幾つも考えられるだろう。「転生」という空想的な観念が、松枝清顕に始まる四人の主役の実存に、崇高な「宿命」の威光を授ける効果を狙ったのかも知れない。尤も、その壮麗な野心は、第四巻の「天人五衰」において、安永透の自裁の失敗という形で挫折し、剰え松枝清顕の実在さえ、月修寺の門跡となった老境の綾倉聡子によって否認されることとなる。あれほどの莫大な芸術的労力を費やし、長い年月を投じて構築された物語の結末が「物語の否認」に帰結するという皮肉な展開を、作者が事前に予見していたかどうかは疑わしい。

 「物語」とは「時間の凝縮」であり、演劇的時間とは煎じ詰めれば「エピファニー」(epiphany)である。時の流れを特権的な刹那の裡に結晶させること、それによって無限に持続する虚無的で冷淡な「時間の圧政」に叛逆すること、それこそが三島的な欲望の核心を成している。そして「豊饒の海」という雄渾な大河の如き小説は「天人五衰」に至って「物語の消滅」という絶望的な状況へ帰着する。

 これと云って奇巧のない、閑雅な、明るくひらいた御庭である。数珠を繰るような蟬の声がここを領している。

 そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……(『天人五衰新潮文庫 p.342)

 この有名な結末は「物語」の実在の証左に他ならない「記憶」さえも否定している。こうした凄まじい絶望の涯に、三島が割腹自殺を遂げたのは、現実の蛮行によって「物語の不在」を救済しようとする極限の選択であったのかも知れない。「春の雪」「奔馬」においては未だ赫奕とした光輝を保っていた「物語」は、「暁の寺」において失調を開始し、遂に「天人五衰」において完全なる破産を宣告される。三島自身の自画像にも見える安永透(明晰な認識力を持ち、転生の物語に連なることを企てる野心的な夢想家)は、自裁に失敗して悲惨な晩年に埋もれた。それは三島が最も忌み嫌った形式の「晩節」であったに違いない。彼は「物語の消滅」という事件を極めて精密に描き出しながらも猶、その圧倒的な絶望を受容する忍辱の余生を望まなかったのである。

Cahier(プラトンに関する断片)

プラトンの哲学は、感覚的な認識の彼方に存在する事物の「実相」(idea)を把握することに至高の意義を見出した。それは感覚によって得られる諸々の認識が、宿命的な不完全さを内包している為に、決して事物の「実相」に到達し得ない構造的限界を孕んでいると判定されるからである。

 感官による認識は、感官の構造の枠組みを超越することが出来ない。或る事物が、視覚の裡に如何なる形態の映像を結ぶかという問題は、事物の実相に規定されるのではなく、視覚が事物との間に結んでいる限定的な照応関係によって左右される。形態に関しても色彩に関しても、こうした関係性の原理は変わらない。或る波長の光線が「青」に見えたり「赤」に見えたりするのは「実相」の側の都合ではなく、それを把握する視覚的感官に固有の機構が決定する問題である。従って「赤」という視覚的認識を、事物の「実相」或いは「本質」に属する情報として受け容れるのは、避け難い根本的謬見なのだ。

 感覚によって形成される「仮象」が、事物の「実相」との間に何らかの相対的な照応関係を結んでいることは事実だとしても、「仮象」そのものを「実相」の直接的な把握として定義することは不可能である。両者の結合は恣意的なものであり、恣意的であることは感覚にとって何ら不都合な事態ではない。恐らく我々の備えている感官は絶対的な「真理」や「実相」を捉えることに重きを置いて形成されてはいない。それは我々の生存の維持に便宜を図る為の手段の一つであり、その本分は「実相」を捉えることではなく、外界から何らかの有益な情報を抽出することに存している。事物の全体を捉えず、重要な側面だけを切り取って検知するのが感官の特徴であることは、眼球が匂いを嗅がず、鼓膜が甘みや苦みを感じないことを鑑みれば明瞭な事実である。従って、感覚の構造的な限界に不満を覚え、その彼方に位置する「実相」の直截な把握を企てるプラトンの情熱は、見方によっては常軌を逸していると言える。

 だが、こうした異様な情熱こそ「知性」という一つの機能、それ自体が巨大な欲望を孕んだ人間的機能の本質に関わるものであると言うべきではないだろうか。プラトンは感覚という曖昧な認識的機能を排除して、厳密な「知」を構築することに血道を上げた。その為に彼は「合理」という孤絶した規範を樹立したのである。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

プラトン「国家」に関する覚書 10

 久々にプラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)の続きを読んでいる。

 プラトンは「哲学的素質」の特権的な価値と優越に関して、世俗的な誤解を排除する為に懇切な弁明を繰り返し試みている。その弁明を支える動機の淵源に、刑死した師父ソクラテスの面影が鎮座していることは概ね確実だろう。彼は哲学者に固有の美徳が、如何に深刻な社会的無理解に覆われ、徹底的に「不当な迫害」の毒牙に曝されているかを嘆き、その誤った蔑視を覆さない限り、国家が健全な理想的状態に達することは不可能であると幾度も強調している。

 同時にプラトンは、哲学的素質の適切な発芽と伸長が如何に困難な奇蹟であるかという悲観的事実に就いても、直視を憚ろうとはしていない。但し、困難であることと不可能であることとの微妙な区分を蔑ろにする知的怠慢に陥ることは、彼の信条に合致するものではない。理想を厳密に語るということ、この根源的な作法は、プラトンの構築した壮麗な哲学的体系の本質を形作る重要な特徴である。空理空論という悪しざまな誹謗を懼れず、粘り強い反駁と推論を通じて、地上の雑駁な現実に抗しながら幻想的な正しさを倦むことなく語り続けること、この果敢な情熱の介在を捨象してしまえば、プラトンの独創性を称賛することは最早不可能となるだろう。

 プラトンの議論を要約する上で最も重要なことは「実相=仮象」の二元論的な峻別を適切に理解する点に存する。この基礎的な図式を踏まえなければ、彼の議論を理解することは一挙に覚束なくなる。更に重要なことは、この「実相=仮象」という図式を通俗的な「現実=幻想」の二元論的対比と混同しないように注意を払うことである。極端な言い方をすれば、プラトンの独創性は一般的な「現実=幻想」の区分における定義を反転させた点に存すると看做して差し支えない。

 存在しないものの存在を信じること、言い換えれば感覚によって確証されない対象の実在を信じること、これは一般に「妄想」或いは「信念」と呼ばれる精神的作用である。我々は客観的で実証的な手段を通じて確かめられた認識を「事実」或いは「正しさ」と定義する科学的な慣習に親しんでいる。如何なる観測手段によっても捉えることの出来ない事物は、一般的に「存在しないもの」の範疇に組み込まれる。何らかの方法で、その実在が検知された場合には、当該の事物は「存在するもの」の範疇に組み込まれる。

 こうした「存在の認知」に関する手続きにおいて、プラトンは肉体的感覚の明証性を露骨に冷遇している。彼は肉体的感覚を通じて捉えられた現象的な認識を悉く「仮象」の範疇に押し込み、それらの認識を「実相=真理」から隔てられた不完全な知識として貶下する。そして「仮象」に囚われている限り、人間は「実相=真理」の把握へ到達することが出来ないと結論する。つまり、彼は感覚によって確証される事物を「仮象」と看做し、感覚によって捉え難い対象を「実相」と看做す、逆説的な思索の様式を採択しているのである。

 抽象的なものを「実在」と看做し、具象的なものを「幻想」として斥けるプラトンの特異な思考は、世界を感覚的な多様性から切り離し、感覚器の抱え込んでいる避け難い誤作動を難詰し、感覚の彼方へ思惟によって到達しようとする已み難い衝迫に支配されている。無論、我々の肉体に備わっている感官が、事物の絶対的な真実性と結び付いている証拠は存在しない。我々は止むを得ず所与の認識的手段を通じて、事物の存在を認知しているのであり、人間に与えられた感官の機能的な精度が極めて高等なものであったとしても、その事実は我々の認識の絶対性を立証しない。端的に言って、我々の備えている感官が様々な事情(外在的なものであれ、内在的なものであれ)によって、その健全な働きを阻害され得るものであることは、経験的に知られた事実である。この感官の不完全な相対性という事実は、感覚的な観察それ自体を通じて把握され得る自明の認識であると言える。そうであるならば、我々は感官の働きに依存しながら真理に到達しようと試みる困難な労役を免かれなければならない。感官への依存は不可避的に、真理への到達を妨礙する構造的な条件として作用するからである。

 プラトンの企図した哲学的計画、或いはその独創的野心は、感覚的認識に附随する先天的な限界を超克することに捧げられたものであると定義し得る。プラトンの人工的な空理空論は、素朴な経験論を支持する凡俗の立場から眺めれば、突拍子もない秘教であり、不可解な情熱の発露である。感覚の彼岸を探究しようとする熱烈な意志は、万人の共有する普遍的な性向ではない。寧ろ主観的な感覚の明証性に留まり、その無媒介的な直接性に安住する態度の方が、一般的な傾向であると言えるだろう。けれども、敢えて感覚的明証性の裡に留まろうとする態度もまた、明確な方法論と覚悟を要するのが実情であり、現にそうした感覚の「此岸」に固執することで恣意的な妄想を排除しようと試みたエピクロスは、例えば「死」の不安に囚われることの不合理を説いたが、彼の極端な経験論を受け容れることは誰にとっても容易な業ではない。プラトンの卓越した抽象性も、エピクロスの徹底的な具象性も、共に「認識」の妥当性を極限まで考究する意識的な方法論の所産なのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

「怪奇」の蒼白い影絵 三島由紀夫「仲間」

 三島由紀夫の短篇小説「仲間」(『殉教』新潮文庫)に就いて書く。

 穏やかで柔らかい子供の眼差しを通じて語りながら、一抹の悪寒を読者の背筋へ忍び込ませる、この手慣れた粗描の掌編は、三島由紀夫という作家の技巧的な多様性を告げる簡素な証拠である。

 はっきりと明示されている訳ではないが、登場する一組の父子が、諧謔的な匂いを帯びた悪霊の類であることは概ね確実であろうと思われる。彼らは或る若い厭人家の金持ちを気に入り、彼を自らの「仲間」に引き入れることを決断する。その決断の宣言と、標的である男性の帰宅する靴音の響きを交錯させて、抛り出すように短い物語の幕切れを演出する辺り、簡潔だが味わい深い巧みな筆致である。

 たっぷりの余白に蒼白い影絵を浮かび上がらせるような本作に、彼是と七面倒な論理の働きを求めて穿鑿を重ねるのは、恐らく無益な行為だろう。日頃の観念的で饒舌な文体は影を潜め、平淡な言葉の連なりが、霧に包まれた深更の舗道をくっきりと想像させる。若しも、こうした作風に三島が専心していたら、燻銀いぶしぎんの評価を享けていたかも知れないが、それでは作者自身の魂は聊かも満たされなかっただろう。彼の関心が、純然たる技巧的な野心に限られていたとしたら、奇矯な末期を選ぶ必要もなく、腕利きの職人として長寿を全うすることも可能だったかも知れない。しかし、そういう職人気質に安住し得る人種であったならば、例えば「豊饒の海」のような壮麗な虚構、異様な情熱の育んだ畸形のような大作は創出し得なかっただろう。彼は有能な黒子であることよりも、本物の宿命に囚われた「物語の主役」であることを望んでいたのである。

殉教 (新潮文庫)

殉教 (新潮文庫)

 

Cahier(他者の精神を「読む」こと)

*小説を読みこなすこと、他人の拵えた精妙な綴織つづれおりのような文章を丁寧に読んで、その構造や絡繰からくりを見究めること、その難しさを日々手酷く痛感している。三島由紀夫の厖大な文業を渉猟する旅路に出掛けて早くも二年近い日月が経つが、理解は深まりつつも遠ざかる曖昧な動作を繰り返していて、真理の把握など到底覚束ない。

 小説を読みながら、これはこういうことだろうかと思いつく。この文章は要するに、こういう思想や価値観を表明しているのではないかと考えて、それを感想文の型枠の裡に流し込む。しかし、理窟を通そうと試みると、硬い木の節に鋸刃がぶつかるように、矛盾した記述へ逢着して頭の中身が混乱に襲われる。その繰り返しにうんざりして、書物を投げ出したくなることも一再ではない。新しい発見を掴んだような錯覚に陥ることもある。そうすると、過去に書いた感想文の記述を軒並み火にべなければならない。過去は過去として、記録として保管しておけばいいと思い直し、無闇な修正は控えるのだが、そういうことが積み重なると、初読の感想の不確かな品質が一際痛烈に思い知らされて、暗然たる気分に陥る。こういう渋滞した作業を積み重ねる以外に、他人の思想や信条を理解する方途は存在しない。そう考えると、何だか気疲れと同時に、自暴自棄の蛮勇さえ湧いて来るのだから、人間の心理というのはつくづく奇態な代物だ。

*「カクヨム」における小説の執筆は遅々として進まない。余り熱烈な意欲が湧かないのは、ひとえに想像力の不足が原因だろう。本物の才能に恵まれていたら、こんなに渋滞することはないのではないかと思われる。勿論、本物の才能などという出所不明の怪しげな観念に拘泥していても虚しいだけなのは心得ている積りだ。黙って只管に書き続ければいい。余計な考え事に逸脱して手許の動きを疎かにするのは、創作に限らず、あらゆる分野で見受けられる典型的な悪癖の一つである。

*小説を読むことは、多かれ少なかれ他人の思想や価値観に触れることであり、魚の小骨を除くように、複雑に張り巡らされた言葉の精妙な綾を解剖することは、他人の魂の深みへ潜航することに似ている。そうやって地道な発掘の作業を繰り返す裡に時折、意外な発見に出逢って胸を躍らせるのは得難い愉悦である。それは実生活においても同様で、他人の意見や心理に如何なる関心も持てなくなったら、そういう稀有の歓びが恩寵のように下賜される可能性は完璧に消滅してしまう。相手が虚構であろうと現実であろうと、私にとって他人の精神を「読む」ことは紛れもない生き甲斐の一つなのだろう。聊か傲慢な言い方をすれば、それは他者の心に「理解」を贈与すること、他者の精神を祝福することと同義である。