サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

Cahier(年の瀬・ティマイオス・叡智)

*年の瀬である。クリスマスの商戦を了え、漸く人心地がついたと思ったら、今度は年末年始の買い出しで、売り場はがやがやと絶えず騒がしい。食品の小売業にとっては、年間で最大の繁忙期であり、御用納めの酒肴を浮かれながら買い漁る背広を纏った善男善女を尻目に、我々は今日も商いに忙しい。世間は大型連休の幸福な予感に顫えながら、気忙しい足取りで暦の最後の頁を踏み締めていく。もう直ぐ東京オリンピックの年だ。何だか信じられない気分である。時空が歪んでいるかのように、何もかもが一瞬で私の躰の傍らを、光の速さで駆け抜けて後姿さえ見せない。

*クリスマスの地獄を辛うじて生き延び、空白のような休日に、少しずつプラトンの対話篇「ティマイオス」(『ティマイオス/クリティアス』白澤社)を読み始めた。未だ何か纏まった感想を述べられる段階には達していない。年の瀬から三が日まで、馬車馬のように働く日々を潜り抜けた後でなければ、古代の書物に綴られた内容を自分の言葉で咬み砕く贅沢な時間は得られないだろう。毎年の慣わしであるから、今更そういう境遇を怨むこともない。世間が呑気に新春の生温い休暇を愉しんでいる間に、夜明けの光を浴びながら電車に揺られ、皆が深酒して放歌高吟している夜更けに自宅へ帰り着く生活を、この期に及んで忌まわしいとも思わない。誰にでも固有の持ち場というものがあるのだ。慣れるか慣れないか、結局はそれが総ての鍵を握る重要な分水嶺なのだ。

*紀元前のギリシャで文字に起こされた対話篇を、誰に強いられるでもなく、孤独に読み進めて、独り善がりの感想文を認めているのは、もっと賢い人間になりたいと願うからだ。それは誰かに賢いと称賛されたいからではない(無論、称賛されたくないと言い張っている訳ではない)。時々、自分の頭の悪さに苛立つからだ。現実に呑み込まれるのではなく、不条理に隷属するのでもなく、自分の力でたった一度きりの人生を開拓していく為には、もっと賢明な思考を繰り広げる知性と教養を手に入れて、更には様々な経験を積まなければならない。年齢を重ねるほどに、私は単なる経年劣化の不良在庫にはなりたくないと思うようになった。職場には、二十歳前後の若い学生が数多く在籍している。眩しいほどに若い彼らの姿は、自分自身の昔日の面影を想い起させるが、その追憶には最早、鮮明な印象が欠けている。二十歳前後の季節に懐いた諸々の苦悩を、生々しく脳裡に描き出すことは既に難しい。良くも悪くも私は三十四歳の男となり、世間的には中年の入り口に差し掛かりつつある。おっさんになること自体は、生物学的な必然に従って、粛々と受け容れるしかない厳格な運命であるが、それを悲運と看做すかどうかは、自分の創意工夫と努力次第ではないか。せめて年齢を重ねたならば、その分の成長は遂げている自分でありたい。知性も教養も二十歳の頃と変わらないのならば、三十四歳の私は単なる骨董品でしかない。一年前の自分と比較して何の変化も見られないような怠惰な生き方を、私は望まない。それならば、自ら積極的に学び、経験を重ねて知見を広げる以外に術はない。日々の労働を機械的に遂行し、その憂さ晴らしに休日の総てを注ぎ込むような奴隷の生活を、私は決して愛さない。規格品の通俗的な享楽には事欠かない社会に住まいながら、毒にも薬にもならない束の間の刺激に尻尾を振って、犬のように生きるのは御免だ。千篇一律の退屈なクリシェに囲まれて、人生なんてそんなものだと悟ったような科白を吐いて、一向に成長しない自己の境遇に安住しながら、高慢なプライドは捨てられない、そういうおっさんになることは、私の願いではない。

*学ぶことは、世界を広げることであり、可能性の束を太らせることであり、決まり切った生活に新たな照明を宛がうことだ。何も考えず、疑問にも思わず、他人の指示や訓誡を砂糖菓子のように苦も無く嚥下して泰然自若としていられるのなら、それは確かに幸福かも知れないが、随分と無邪気で醜悪な幸福ではないか。そういう人間は、個人的な幸福の監獄の裡に留まって、他人の味わう苛酷な風雪には無関心である。つまり、そういう人間は他人を扶けたり支えたり癒やしたり愛したりする力量や情熱を欠いている。自分の役割に甘んじて、更なる成長など求めず、ありのままの自己を後生大事に守り抜いて、箱入り娘のように、他人の悲喜劇を蓋の隙間から窃み見るだけの安全な生活を望む者に、どんな力が備わるだろうか。妻子を持ち、部下を持ちながら、そんな手前勝手なアタラクシアの境涯に鎮座するのは、私の信条が許さない。私という人間は、幸福である為に他人を必要としている。だからこそ、他人に頼らず、甘えず、自己を律する力を手に入れなければならない。自分の尻を拭う力さえないのに、他人の傷口を塞いでやることは出来ないだろう。自分自身との約束も守れない人間に、他者の信頼へ応える力など宿らないだろう。賢くなりたいというのは、強くなりたいということであり、誰かを守ったり支えたり育てたりしたいということと同じだ。それは要するに、怠惰な動物ではなく人間でありたいということだ。愚かな自分を愛して悦に入るのは、下らない戯画ではないか。それは自分の欠点を素直に認める強靭な精神とは全く異質である。ナルシシズムとユーモアは合致しない。現実の酷薄な実相を直視しない人間の舌に、諧謔の神様が憑依する見込みは皆無である。

ティマイオス/クリティアス

ティマイオス/クリティアス

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 白澤社
  • 発売日: 2015/10/26
  • メディア: 単行本
 

プラトン「テアイテトス」に関する覚書 4

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「知覚=アイステーシス」(aisthesis)は、絶えざる「生成」の裡に育まれる刹那的な現象である。知覚する主体と知覚される主体との一時的な癒合によって、その都度、人間の精神の内部に育まれ展開されるのが「知覚」という感性的な認識の現象である。

 プロタゴラスは、銘々の個人の裡に顕れる「知覚=アイステーシス」を「真理」と看做す。この場合の「真理」という言葉は、プラトンにおける「真理」と異なり、銘々の個人にとってのみ「真理」として適用し得るものであり、その相対主義的な原則は、万物に対して普遍的に妥当する「真理」の君臨を認めない。言い換えれば、プロタゴラス的な「真理」は頗る主観的な性質を帯びているのである。

 こうした考え方は、ヘラクレイトスの所謂「万物流転」(panta rhei)の学説と緊密に結び付いている。あらゆる事物が厳然たる「実在」ではなく、流動的な「生成」の過程に組み込まれている以上、如何なる制限も超越して普遍的に「正しい」と認められる「真理」など有り得ない。そして我々の知覚が、絶えざる生成の裡に顕現する流動的な現象であるという事実は、普遍的な「真理」の介在を認めない主観的な考え方の下では、「知覚」の内容が「真理」として遇されることの妨げにはならない。つまり、我々の「知覚」を「真理」と結び付ける言説は、万物を生成的なものとして取り扱う「相対主義」(relativism)の圏域においては、尤もらしく正当な見解なのである。

 こうした相対主義的な学説、森羅万象を「生成の過程」として定義する「万物流転」の学説は、我々の認識における「同一性」(identity)の観念を抜本的に排撃する。何らかの事物が普遍的に保持し続ける「同一性」のことを、プラトンは「実体」(ousia)や「実有」(idea)といった言葉で呼んだ。この「同一性」を認めることは、要するに「存在」或いは「実在」という観念の適用を批准することに等しい。それは絶えざる生成と流転の過程から、個別的な実体を切り分けることを意味する。

 「同一性」の観念は、知性の機能によって、知覚的な対象に向かって宛がわれる。単なる無意味な信号の奔流に過ぎないアイステーシスの領域を、様々な方法を駆使して編輯し、単なる知覚的な信号以上の「意味」を創り出すことが「知性=ヌース」(nous)に課せられた重要な役割である。言い換えれば「知覚=アイステーシス」と「知性=ヌース」が、それぞれに割り当てられた機能の領域は根本的に異なっているのであり、両者を天秤に掛けて二者択一の隘路へ自らを追い込む必要は微塵もない。しかし、プラトンの立場は完全なる「実在論」(realism)であり、アイステーシスを通じて得られる認識の優越性を厳格に排除する方針を堅持するものであるから、プロタゴラス的な相対主義は断じて容認し難い。相対主義的言説を極限まで推し進めた場合には、例えば「自己」の連続的な実在さえ否定せざるを得ないことになる。それはプラトンにとって「真理の不在」を意味する。彼の信奉する「真理」は、事物における永久的な同一性の異称である。加之、彼にとって「同一性」という観念は単なる知性的な仮象ではなく、揺るぎない「実体」なのである。アイステーシスを通じて獲得される事物の認識は、確乎たる同一性の不完全な投影に過ぎない。極端に言えば、プラトンにとって「知覚」とは「虚偽の認識」そのものである。

ソクラテス したがって、わたしの知覚はわたしにとって真なのである。なぜなら、それはつねにわたしの有の知覚なのだから。そして、プロタゴラスによれば、わたしこそが、わたしにとって有るものには有ることの、ありもしないものにはありもしないことの判定者なのである。(『テアイテトス』光文社古典新訳文庫 p.110)

 ヘラクレイトスプロタゴラスの言説が、所謂「唯名論」(nominalism)の立場に親しいものであることは事実だとしても、彼らが普遍的な「真理」の概念を根源的に否認していると断定することは、必ずしも適切な判決ではないように思われる。プラトンは、彼らの言説を批判する為に、その論理を精密に敷衍して、或る極端なコロラリーへ帰着させているのである。それはプラトン自身が、自らの信奉する実在論的な方針を極限のコロラリーへ導いていることの反映であるようにも感じられる。彼は「万物流転」のノミナリズムが、絶対的で超越的な「真理」の審級を欠いていることを論難する。若しも「知覚=知識」(この場合の「知識」という言葉は「真実の認識」を指している)という等式の成立を認めるのであれば、我々は誰一人として「謬見」(doxa)に陥ることが出来ない。一人一人の抱えている主観的な認識が悉く正しいのであれば、その認識の内実が「真理」の基準に照らして虚偽であったとしても、構造的な理由から、我々はその認識の欺瞞的性質を認定する権利を持たない。それならば、正しい知識の持ち主が、無智な人間を教育するというソフィストの業務は原理的に成立しないのではないかと、プラトンは聊か皮肉な口調で指摘する。

ソクラテス ほかの点では、かれが、それぞれの人に思えることが、そのとおりに有りもすると語ったことは、わたしには非常に興味深い説だと思えたのです。しかし、わたしは論の初め、すなわちかれの著作の『真理』の初めでかれが、われわれのほうでは知恵の点において、まるで神のような人としてかれに驚嘆しているけれども、かれの側では、自分がほかの人間以上にすぐれていないのは当然のこと、そればかりかカエルの子オタマジャクシよりも、知の点でなんらすぐれていないのだと示すべく、われわれに向かって、「知」の大盤振る舞いをしてみせながらわれわれ人間を完全に軽蔑しきって語り始めるために、「万物の尺度はブタである」とか「万物の尺度はヒヒである」とか、あるいは「万物の尺度は、感覚能力をもつほかの生き物のうちの変わったものである」と言わなかったということを、不思議に思いました。それともどう言いましょうか、テオドロス?

 と申しますのも、もし各人が知覚を通じて判断することがその人にとって真であるのならば、そして、或る人の状態を他人が本人より良く判定することもなく、或る人の考えが正しいか虚偽であるかを調べるのに、本人以外の人間がより権威があるということもなくて、しばしば言われるとおりに「自分のことは各人がただ自分ひとりで判断してゆく」のであり、しかもその考えはすべて正しく真であるとするならば、いったいどうして、お仲間よ、プロタゴラスこそは「知恵のある者」であり、それゆえにまた、多額の報酬までつけて堂々とほかの人々の教師になってしかるべきだと考えられることになるのでしょうか? それに対し、われわれはといえば、より無学であって、学ぶためにかれのもとへ通わなければならなかったのでしょうか? ――そのわれわれはそれぞれ、自分が自分の「知恵の尺度」であるのに、ですよ! これは、「プロタゴラス氏は自説において、大衆を相手に迎合して語っている」と言わずに済まされるようなことでは、けっしてないでしょう。(『テアイテトス』光文社古典新訳文庫 pp.115-117)

 極端な相対主義、極端な唯名論は、確かに普遍的な「真理」の実在を否認するだろう。この場合の「真理」とは、プラトン的な「同一性」の概念を指している。けれども、こうした両者の対立は「真理」という概念に関する定義の齟齬に起因するものではないだろうか? 普遍的で永久的な「同一性」を「真理」として定義するプラトンの考え方は、独特の屈折を孕んでいるように思われる。「真理」を「書き換えられないもの」として定義すること自体は、不当な謬見ではない。けれども、その「真理」が「時間の裡で遷移する」可能性を無条件に否認する必要があるだろうか。プラトンの「真理」は無時間的な性質を備えている。時間の経過に応じて遷移する性質は、揺るぎない「同一性」の規矩に反するからである。言い換えれば、プラトンの思想は「時間」という観念を根本的に拒絶しているのだ。それは彼が「生成」を拒絶し、蔑視していることと繋がり合っている。プラトンの世界は、絶対的な「静止」によって支配されている。如何なる状況においても、正しいものは正しく在り続けるという固陋な信仰は、プラトンの世界から「時間」という生成の原理を奪い去っているのである。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫
 

プラトン「テアイテトス」に関する覚書 3

 プラトンの対話篇『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 「テアイテトス」の前半で問われるのは「知識=知覚」という公理は正しいのかどうかという論題である。それに伴って「ディアレクティケー」(dialektike)の法廷に登場するのが、ヘラクレイトスに由来する「万物流転」(panta rhei)の思想である。

 この「万物流転」という思想は、事物を「実在」ではなく「生成」(generation)として捉えることを基本的な原則として採用している。そして「生成」の過程には、それを支配する一定の法則が関与していると看做される。万物は生成し、その生成には何らかの原理が内在すると考えることは、プラトンの思想と如何なる共通項を持ち、同時に如何なる相違点を持つのだろうか。

 感覚に映じる限りの事物が、時間的な枠組みの中で無限に「生成」を繰り返していることは経験的な事実である。「テアイテトス」において提示され、検討される「万物流転」の学説は、こうした「生成」に肯定的な価値を認めている。「生成しないこと」は悪しき「停滞」であり、それは自然の根源的な摂理に反するものであると看做される。言い換えれば、ヘラクレイトスの学説は「存在」或いは「実在」という観念の排撃を含んでいるのである。

 こうした考え方が、プラトニックな実在論と対蹠的な方針に裏打ちされていることは明瞭である。プラトンは、時間を超えて維持される普遍的な「実在」こそ事物の「本性」(ousia)であると考え、生成的な知覚が正しく精密な「認識」であるという見解に異議を唱えた。「感覚=生成」の認識に対して「知性=実在」の認識を提示すること、これがプラトンの学説の摘要である。

 我々の「知覚」が把握する夥しい情報は、絶えざる「変化」の裡に置かれている。その「変化」の程度は、事物の個別的な特性や四囲の環境によって様々であり、我々の感官が事物の「変化」の一切を完璧に把握する力を備えている訳でもない。だが、何れにせよ我々の「知覚」は、事物の「変化」を捉える為に発達を遂げてきたと看做すべきである。若しも我々の暮らす世界が如何なる種類の「生成」とも無縁であったならば、我々の肉体は「知覚」という精密な機構の発達を必要としなかっただろう。

 プラトンの学説は、事物の生成的な変容を「幻影」として処遇することで成立している。若しも「知覚」が「認識」の正しい様式であるならば、我々は何らかの具体的な「事物」(existence)に関して長期的に考えたり論じたりすることは出来ず、只管に「現象」(phenomenon)の追跡と記述に従事することになるだろう。万物が絶えざる「流転」を強いられているのならば、或る事物を無時間的な仕方で、恒常的な実在として取り扱うことは不可能である。言い換えれば「知覚=感性」という認識的様態に課せられた役割は「生成の把握」であり、若しも如何なる「生成」も営まれないのならば、我々の「知覚」はその使命と責務を喪失するのである。

 他方、我々の有する「知性」は、感覚を通じて把握された生成的で流動的な「現象」を「要約する」機能である。それは絶えざる変異と流転の裡に置かれている厖大な「現象」を停止させ、固定的な「実在」の位相を賦与する。言い換えれば「知性」とは「同一性」を発見し、定義し、創出する認識的な機能の一種なのである。それは絶えざる「生成」を繰り返す不定形な「現象」に確乎たる輪郭を与え、時間が経過しても失われることのない共通の普遍的な要素を定義する。こうした過程そのものを、恐らくヘラクレイトスは「ロゴス」(logos)と呼んだのである。けれども、プラトンは知性を通じて形成される認識的対象としての「事物」を実体化し、感性を通じて得られる諸々の雑駁な現象を「幻影」と看做した。彼の独創的な革命性は、こうした「ロゴス」の実体化によって開拓されたのである。

 「知覚」に対するプラトンの否定的な見解は、彼の信奉する極端な「主知主義」(intellectualism)の必然的な反映である。「知覚」そのものの裡には、生成的な現象を把握し、保存する機能しか備わっていない。そして「知性」の機能は、感覚を通じて収集された厖大な記録の裡に「同一性」や「規則性」を読み取る。言い換えれば、知性は絶えず遷移し流動し続ける連続的な現象に切れ目を入れて、それを一つの単位に纏め上げて固定化するのである。

 プラトンは「知覚」そのものを「現象」の一種として捉えている。つまり、肉体的な感官を通じて把握される知覚的な認識自体が、絶えざる生成の一時的な断面図として構成されるのである。従って知覚的な認識は決して普遍的な持続性を保ち得ない。生成の特徴は、普遍的な持続性の欠如の裡に存するからである。この「生成」を「存在」に置き換える為には、我々の知性は「生成の停止」を個々の事物に向かって命じなければならない。無論、それは「生成」そのものを物理的に停止させるという意味ではない。認識的な領野において、事物の無際限な「生成」を黙殺し、記憶と知覚を照合して、共通する要素を普遍的な同一性として認め、それを事物の「本質」として定義するという意味である。何らかの認識的な対象を「定義する」という行為は、本来ならば絶えざる「生成」の裡にあって、無限の変異を重ね続けている事物に関して、変異しない要素を仮構する作業である。つまり「生成しないもの」だけが、事物の普遍的な「本質」として認められ、その事物を構成する揺るぎない特徴として定義されるのである。こうした作業は、絶えざる流転を強いられる「知覚」の内部によっては行われない。夥しい数の知覚的な情報を俯瞰し、高い次元から一望して相互に比較し、それぞれの間に同一性や差異性を読み取る知性的な過程が必須である。そうした作業を通じて見出された事物の「本質」を超越的な「実在」として処遇するのがプラトニズムの基礎的な方針である。彼は「生成」を「仮象」として取り扱う。通俗的な経験論が、感覚に映じる事物を「実在」と看做し、そこから導き出される諸々の法則や関係性を「仮象」と看做すのとは対蹠的な仕方で、プラトンは「仮象」の意味を書き換えているのである。

 感覚を通じて把握されないもの、言い換えれば知覚的な認識に含まれないものを「実在」として遇すること、これがプラトンの思想の根幹を成す重要な規約である。それは言い換えれば「知覚=アイステーシス」(aisthesis)による認識を虚妄として排斥し、専ら「知性=ヌース」(nous)による認識を「実在」に関する知として承認する立場である。「知覚」を通じて得られる生成的な認識は悉く不正確な「錯覚」(doxa)に過ぎず、事物の本来的な「実相」(idea)からの離反に他ならないというのが、プラトンの堅固な信念なのである。

 このように考えるならば、少なくともプラトンの立場から眺める限り、肉体的な「知覚」によって得られた認識を、堅牢で精密な「知識」(episteme)として取り扱うことは欺瞞に他ならないという主張が導き出される。プラトンが「知識」という言葉に担わせている意味は、瞬間的な現象に関する知覚や記憶を指すものではない。彼にとって「知識」とは、如何なる局面においても適用し得る普遍的な認識、即ち「真理」を示す概念なのだ。そして「知覚」が「存在」ではなく「生成」に関する認識であると同時に、それ自体が一つの「生成的過程」に他ならないことを考慮すれば、人間と事物の間隙に生じる暫定的で流動的な「知覚」を「真理」と結び付けるプロタゴラスの「相対主義」(relativism)は、紛れもない謬見であるということになる。若しも知覚的認識が常に正しいのであれば、我々は殊更に「真理」などという超越的な理念を発明する必要には迫られないし、そもそも各自の有する「認識」の真偽や深浅を判定する基準さえ樹立し得ないということになる。従って、優れた知識の持ち主が蒙昧な人間を教育するという過程も原理的に成立し得ない。

 無論、知覚的認識の排撃と極端な相対主義が一律に合致すると看做すことは精確ではない。問題は「知覚=知識」という短絡的な接続の裡に胚胎している。同時に、プラトンの「生成」に対する執拗な攻撃は、ヌースによって見出された事物の本質を実体化する思想的な「擬制」に由来していると言える。観察や実験を重んじる経験論的な実証主義者たちも、決してヌースの役割を過小に評価している訳ではなく、知覚を通じて得られる認識を無条件に正当化している訳でもない。科学者たちは、不規則に見える生成的な現象の裡に、ヌースの力を駆使して普遍的な「ロゴス」を読み取ろうと厖大な努力を積み重ねてきた。同時に感覚の及ばない領域に関しては、整合的論証の技術を用いて、適切な仮説を構築することに相当な労力を支払ってきた。「知覚=知識」という等式が成立しないからと言って、反動的に「知識」の定義から「知覚」を除外する必要はない。プラトンの思想は「ヌースの絶対化」という聊か秘教的な「理性主義」(rationalism)の成分を潤沢に含有しているのである。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:プラトン
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2019/01/08
  • メディア: 文庫
 

Cahier(「思想」の多様性 / 「真理」の複数性)

プラトンの対話篇に疲弊して、彼是と言い訳を弄しながら、三島由紀夫の小説の読解へ復帰したのに、何だか見苦しい遁走を図ったような後ろ暗さが否めず、結局鞄の中に「テアイテトス」の文庫本を舞い戻らせた。プラトンの哲学が命じる観照的な「徳性」の規範には到底従えないが、だからと言って、古今東西の数多の賢人たちの遺した思想的遺産の渉猟自体を途絶するのは、聊か性急で偏狭な振舞いであると思い直したのだ。

 プラトンが「哲学」と呼ばれる特異な思想の領域を開拓したことは歴史的な事実である。その独創性が後世の文明に及ぼした影響の大きさは計り知れない規模に達している。恐らくはピュタゴラスから受け継いだと思われる「霊魂の不滅」という学説は、イスラム教やキリスト教の壮麗な神学的体系の礎石を成している筈である。だが、こうした巨大な業績を理由に、所謂「哲学」という言葉の含意を、プラトニックな思惟の体系に悉く還元してしまうことが生産的な判断であるかどうかに就いては、議論の余地がある。勿論、狭義の「哲学」をプラトニズムと等号で連結することは妥当な措置であると言えるだろう。しかし、厳密な思考の埋蔵する価値を、プラトニックな「観照」の特権として独占するのは適切ではない。

 通俗的な意味で「哲学」の書棚に分類されている古典であっても、その総てがプラトンの学説に賛同している訳ではないし、錚々たる顔触れの著者たちが一様に「事物の本質の観照」というピュタゴラス的な実存の様式を、人間の理想として讃えている訳でもない。プラトンの講じる「哲学」に納得し得ないという主観的な事実は、必ずしも「哲学」を含む「思惟」一般の価値を認めないという判断には帰着しない。重要なのは、多様な思想に触れて、自己の視野を拡張し、深みと奥行きを与えることだ。

 無論、小説を読解することもまた、一つの思想に触れることに他ならない。プラトンは対話篇「国家」において、詩人や画家の仕事を糾弾した。それはプラトンの志向した厳密な「整合的論証」の対極に位置する曖昧で不完全な事業と看做されたからである。けれども、芸術家の眼力が時に人間の実存的側面に対して発揮する分析の鮮烈な鋭さは、歴史的に認められた事実である。確かに芸術は、事物の本質的な要素を限定せず、そもそもプラトンの排斥した「感覚」に根深く依拠している。従って芸術家の抱懐する認識は、プラトニックな論証の強度には遠く及ばない。しかし、それが直ちに芸術の無力を意味するだろうか。人々の感情に訴求することは、プラトンにとっては悪しき行いである。何故なら、彼の追究する整合的論証の世界においては、人間の感情は如何なる有用性も発揮せず、その特性は完全に不要であるからだ。だが、整合的論証に感情が不要だからと言って、感情に依拠した振舞いの総てが人間的な「徳性」(arete)の規範に反するものだと断言するのは正当な言明だろうか。

 プラトンの創始した「哲学」の範型は「数学」の分野に求められる。数学的な正しさは、科学的な正しさとは異なり、実験や観察を通じて得られる「センスデータ」(sense data)を論証の根拠として用いない。それは専ら「ロゴス」(logos)の内在的で自己完結的な規則に基づいて論証を成し遂げるのである。こうした認識を踏まえれば、プラトンが正当な「知識」(episteme)から感覚的な要素を排除した理由も明瞭になる。プラトンの開創した学園「アカデメイア」が、幾何学の素養を持たない者の入門を許さなかったという伝承も、こうした事情と符節を合している。問題は、プラトンの整合的論証が果たして「正義」や「節制」といった社会的=倫理的な事象にも適用することが可能かどうかという点に存する。数学における合理性と、人間の実存における合理性とは必ずしも同義ではない。数学の領域においては「尤もらしさ」(eikos)は不完全な論証を意味するだけだが、我々の生活においては寧ろ、厳密な論証よりも「尤もらしさ」の方が実践的な有用性を認められている。ソフィストの「詭弁」に対するプラトンの執拗な批判は、彼らの駆使する「弁論術」(rhetorike)に厳密な論証的性質を与えようとする企図に基づいているが、そのような「ディアレクティケー」(dialektike)への志向が、感覚的な生成界に対しても適用し得るかどうかは極めて疑わしい。だからこそプラトン自身も、感覚的な「謬見」(doxa)を思惟の領域から排除することに躍起になったのだろう。感覚的認識は、合理的な論証を妨げる危険な障碍でしかない。従って「肉体」を排除したとしても、彼の夢見る「整合的論証」(proof)は失われない。

 だが、そもそも人間が実際に「整合的論証」を実行するのは、生成的な時間の裡において、有限なる肉体を駆使しながらではないのか? こうした疑念は、例えば「肉体」と「霊魂」の有機的な合一を信じるエピクロス=ルクレーティウスの系譜から提起され得るだろう。言い換えれば、プラトンにとって「霊魂の不滅」というピュタゴラス的な学説は、単なる宗教的な信仰に留まらず、その「主知主義」(intellectualism)の存立を支える不可欠な要素なのである。霊魂が肉体を超越していなければ、整合的論証もまた、その無時間的な正当性を維持することが出来なくなる。

 逆に言えば、霊魂と肉体の有機的合一を前提としたとき、整合的論証は如何なる処遇を与えられるのだろうか? それが普遍的な正当性を持ち、如何なる生成的条件にも規定されずに自存すると言い切ることは、可能だろうか? 誰かが実際に「論証」を実現しない限り、その論証を通じて発見された「真理」は存在しないのではないか? 例えばピュタゴラスによって発見される以前にも、この世界には「三平方の定理」が確実に存在したと言えるのだろうか?

 恐らく数学的実在論は、ピュタゴラスの存在や行為に関わらず、この世界には絶えず「三平方の定理」が存在してきたし、これからも存在し続けると明言するに違いない。だが、数学という巨大な抽象的体系は本当に、普遍的だが未知の状態に留まっていた「真理」を発掘したのだろうか? それは飽く迄も「真理」の「創出」ではなく「現前」であると、実在論の信者は主張するだろう。そのように考えることが、数学的体系の発展に寄与するならば、たとえ実在論が虚偽であったとしても、それは生産的な「擬制」であるということになるだろう。しかし、数学的観念が客観的な実在であるという証拠は何処にあるのだろうか? それは人間の生成的=現象的な発明ではないのか?

 普遍的な「真理」の実在を認める為には、人間は必ず超越的な絶対者の介入を要請しなければならない。一般に「神」と称される超越的絶対者は、その存在が仮に不可知であったとしても、それを実在として前提することで、この世界の全体に「ロゴス」(logos)を行き渡らせるのである。この世界が本質的に「合理的なもの」(rational)であると信じない限り、普遍的な「真理」の実在を認めることは不可能である。尚且つ、この場合の「合理性」(rationality)は、世界の全体を漏らさず包括する単一の規則として定義されなければならない。言い換えれば「超越的絶対者=神」は単独でなければならない。若しも「神」の複数性を認めるならば、この世界の全体を包括する普遍的な「真理」への信仰は断念されねばならない。

 だが、そもそも普遍的な「真理」とは何なのか。常に変異することのない確定的な事実というものが、この世界には有り得るのだろうか。プラトンは「イデア」(idea)をそのようなものと看做した。それは事物の本質的要素、つまり生成変化することのない普遍的要素の純化された形式である。しかし「イデア」が実在すると断言することは可能だろうか? それは知性的思惟を通じて把握されるという。だが、人間の知性がそもそも「肉体」に根差した相対的な機能に過ぎないとしたら、それが捉える対象としての「イデア」が、普遍的な「実在」であるという証拠は何処にあるのだろう? それが知性によって構成された「被造物」である可能性を、厳密に排除することは可能だろうか?

 また「真理」が「変異しない事実」であると仮定した上で、それが未来永劫に亘って「変異しない事実」であり続けると考える根拠は何処にあるのだろうか? 変異するもの、即ち「生成するもの」は「実在するもの」ではないから「真理」の名に値しないという理路は明晰だが、そもそも「生成するもの」の一切を除外した上で猶も残存する「変異しない事実」とは何だろうか? 例えば、数学における「自然数」(natural number)は、生成的な現象とは無関係に、普遍的な「真理」として自存し続けると言えるのだろうか? けれども、それが生成界の原理に拘束されず、普遍的な自存を保持し得るのは、そもそも「自然数」が人工的な「規約」であり、人間の知性に由来する抽象的な「被造物」だからではないのか。言い換えれば「自然数」が生成変化を免かれているのは、それが最初から実在していないからではないのか? プラトンが「実在」であると信じるものこそ、本当は人為的な「仮象」(appearance)なのではないか。

 若しも「自然数」が人為的な「仮象」であるならば、それが知性の規則である「論理」(logos)に従属するのは必然的な帰結である。だが、人為的な被造物ではないもの、例えば我々の存在を囲繞する無限の「宇宙」(universe)或いは「自然」(nature)が、必ず人間の「論理」に従属する保証が何処にあるだろう? 例えばエピクロス=ルクレーティウスの提唱する「クリナメン」(clinamen)の概念は、プラトニックな「論証」に亀裂を走らせ、普遍的な「真理」という理念を倒壊させるだろう。そもそもプラトンの議論は、人間の肉体的な機能の一環である「知性」に極めて過分な権威を授けているのではないだろうか(尤も、プラトン自身は「知性」を「肉体」から切り離して捉えている)。

 私は決して「論証」の価値を毀損しようと考えている訳ではない。問題は、森羅万象を首尾一貫して説明し得る包括的な「真理」の実在を認めるかどうかという点に存する。言い換えれば、我々の見出す現実的な「真理」は常に局所的で有限なものであり、未来永劫に亘って変異せずに自存することは不可能であるということだ。エピクロスが「感覚」に「認識」の根拠を求めるのは、恐らく「論理」の自己完結的な性質を棄却する為であろうと思われる。プラトンは、所謂「自然科学」が取り扱うような対象を悉く排斥し、純然たる「論証」の力だけで定義し得る事物に限って思惟の対象に据えた。プラトン倫理学的規範は、そのような「論証」への絶対的忠誠の裡に根拠を置いているという意味で、万人に妥当する普遍性を欠いている。総ての人間が「論証」だけに精励している社会など、瞬く間に崩壊するに決まっているではないか。彼は純然たる「霊魂」へ化身することを奨励し、専ら「知性」の権威を重んじた。対話篇「国家」で語られる理想的な社会において、彼は「哲学者」による統治の夢を語っているが、その夢想を共有することに、私は個人的な拒絶を示さずにはいられない。

国家〈上〉 (岩波文庫)

国家〈上〉 (岩波文庫)

 
国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 
エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

エピクロス―教説と手紙 (岩波文庫 青 606-1)

 
物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

物の本質について (岩波文庫 青 605-1)

 

審美的なデミウルゴスの肖像 三島由紀夫「女神」

 三島由紀夫の小説「女神」(『女神』新潮文庫)に就いて書く。

 この作品は、妻を「女神」に仕立て上げようとして中途で挫折し、今度は娘を「女神」として完成させるべく、異様な審美的情熱を燃え立たせる男の物語である。彼が「女神」という観念に充塡する感覚的な規範の細目は夥しい数に上る。服装も化粧も挙措も、悉く絶対的な「美」の基準を満たすように調整され、統制される。この耽美的な欲望は、例えば谷崎潤一郎の「刺青」を想起させる。

 三島の審美的な欲望は、神秘主義的な性質を帯びている。彼が求めるのは如何なる瑕疵も含まない純然たる完璧な「美」の顕現であり、そのような妄念に囚われることは彼の終生の宿痾であった。例えば彼の代表的な傑作である「金閣寺」は、絶対的な「美」の観念に魂を占有された男の苦闘、つまり生成的な「現実」へ向けた解放の戦いを精密に描いている。

 抽象的な観念の世界では、如何なる事物も偶有的な夾雑物を除かれて、極限まで純化されることが可能である。「美」という感覚的な観念もまた、あらゆる瑕疵を排された神的な状態で、人間の空想の世界に君臨することが出来る。状況に応じて美しく見えたり醜く見えたりするものは、観念の世界においては純然たる「美」の資格を喪失する。醜く見えることは「美」の普遍的な本質に反する現象であるから、それは絶対的な「美」の観念からは排除されなければならない。こうして論理的に純化された「美」の観念は、想像の裡で育まれ磨き抜かれた「心象の金閣」と同じく、人間の脳髄の内部に閉じ込められている。

 「金閣寺」の若い寺僧である溝口は、本物の鹿苑寺金閣と初めて対面したとき、理想と現実との断層に面食らい、聊か倒錯的な感想を懐く。

 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということはありうることである。もっと金閣に接近して、私の目に醜く感じられる障害を取除き、一つ一つの細部を点検し、美の核心をこの目で見なければならぬ。私が目に見える美をしか信じなかった以上、この態度は当然である。(『金閣寺新潮文庫 p.33)

 肉体的な知覚によっては「美しくない」と判定される対象が、その本質的な美しさを「秘匿している」と看做されるのは、正にプラトニックな本質主義的思考の典型である。彼は「観念」の揺るぎない実在性を信仰しているのだ。だが、彼が純然たるプラトニストではないことは、引用した文中の「目に見える美をしか信じなかった」という部分によって傍証されている。何故なら実在論の教祖であるプラトンは、本質的な「実在」(idea)を感覚によって捉えることは不可能であると明言しているからである。絶対的な「美」の象徴が、地上の具体的な個物と同一視されること自体、プラトニズムの論理からは逸脱している。しかし、三島の劇しい欲望は「イデア」が知性的思惟の領域に留まることを容認しない。彼は絶対的な「美」を、飽く迄も肉体的な知覚を通じて捉えたいと願っているのだ。「イデア」が不可知の観念のままに留まるのならば、一瞥を呉れる価値さえない。

 完璧な美しさと、地上において邂逅すること。これが三島の見果てぬ宿願である。その欲望は「女神」において、造物主であろうとする意志に転換されている。彼は絶対的な「美」の不在を慨嘆する代わりに、それを自らの手で作り出そうとする。その情熱的な野心は、誠実で繊細であると同時に、非人間的な酷薄さを併せ持っている。火傷によって自己の審美的な価値を失った配偶者の絶望と怨恨に、造物主である周伍は倫理的な共感を寄せようとはしない。彼にとって妻子の存在は、芸術的な造形の欲望に相応しい優れた原料に過ぎないのである。無論、彼は妻子を愛していない訳ではない。精魂を傾けて作り上げた被造物に愛情を寄せない造物主はいないだろうから。つまり、彼は対等な人格に対して愛情を捧げるのではなく、飽く迄も自身の「作品」に情熱的な思い入れを示しているのである。

 こうした非人間的な関係が、第一の被造物である妻の依子の裡に蓄積した濃密な憎悪を、造物主である周伍は聊か迂闊に軽んじ過ぎていたと言えるだろう。積年の怨恨に凝り固まった依子の謀略によって、周伍は半生を通じて懐き続けてきた精巧な夢想を蹂躙され、その甘美なロマンティシズムを侮辱される。だが、それは本当に周伍の敗北であると言えるだろうか? 物語の掉尾にて、周伍の渾身の力作である娘の朝子は、忌まわしい愁嘆場など意に介さず、いわば「作品」として完成を遂げるのである。

 朝子はふしぎに、父と自分とが、まるで別な道をとおって、ひとつところに落合ったとしか思えなかった。彼女は今しがたうけた醜い打撃などに少しも傷つけられていない、不死身の、新らしい朝子が、自分のうちに生れるのを感じた。人間の悲劇や愛慾などに決して蝕ばまれない、大理石のように固く、明澄な、香わしい存在に朝子は化身した。

「お父さま、私を見て」と朝子が言った。「私ちっとも驚いていないわ、私……」

 周伍は娘を見上げた。

 朝子の頬は上気し、目はまことに美しくかがやいていた。窓からの夕風が、髪を少しばかり乱していた。これはまったくの女神だ、と周伍は思った。(「女神」『女神』新潮文庫 pp.156-157)

 つまり周伍は、絶対的な「美」のイデアとしての「女神」の創造に成功したのである。それは言い換えれば、朝子の人格を感覚的な生成の原理から切断すること、人間的な感情や欲望からの超越を命じることに等しい。そのとき、周伍が覚える歓喜は、娘に対する近親姦的な肉慾であろうか? いや、既に朝子は普遍的な範型としての「女神」に化身したのだから、親子という地上的な紐帯など一銭の価値も持たない筈である。この終局の恩寵に満ちた光景は、神秘主義的な「法悦」(ecstasy)の感覚的現前を想わせる。周伍は「肉体」を通じて「肉体の超越」を経験するという不可能な夢想を叶えたのである。

女神 (新潮文庫)

女神 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2002/11
  • メディア: 文庫
 

Cahier(「哲学」と「文学」)

プラトンの対話篇を読むことに疲弊して、三島由紀夫の繙読を再開しつつある。『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)の抽象的思弁の難解さに面食らって、特に後半に出現する幾何学的な論証の抽象性が一向に咀嚼出来ず、改めて自分の劣等な脳味噌に辟易したことが直接的な契機である。同時に、己の主要な実存的関心が何れの分野を求めているのか、少しずつ見えてきたような気がしている。

 プラトンの思想は絶対的で普遍的な「真理」を何よりも重視する。彼がソフィストたちの駆使する迎合的な「弁論術」(rhetorike)を糾弾し、芸術家たちの仕事を「真実在」(ousia)の劣化コピーに過ぎないと痛罵する背景には、無時間的に正しいと看做される揺るぎない「知識」(episteme)への信仰が関与している。時空を超越して維持される事物の本質的要素だけが「実在するもの」として認められ、その他の要素は総て「生成するもの」に分類される。そして「生成するもの」は断じて「真理」の資格を満たさないというのが、プラトンの根強い主張である。彼の遺した対話篇は何れも、絶対的な「エピステーメー」の確立に向けた弛まぬ論証的思惟の過程として構成されている。その強靭なドリルを思わせる論証的思惟の威力は、様々な偏見や謬見を破砕し、贋造の「真理」を決して容認しない。

 プラトンの提唱する哲学的な「ディアレクティケー」(dialektike)は、ソフィストたちの巧緻な「レトリケー」(rhetorike)に対置される。「ディアレクティケー」は断じて揺らぐことのない不動の「真理」を確定する為に、極めて精緻な論証を積み重ねる。単一の「真理」が事前に実在し、人間は知性の機能を通じて、それに触れることが出来るというのがプラトンの信条である。けれども、彼の批判する相対主義的な弁論家たち(例えばプロタゴラスの名を筆頭に挙げても良い)は、そのような単一の「真理」に到達することよりも、或る何らかの事実を聴衆に対して「真理である」と信じ込ませることに主眼を置いた。それは彼らが悪質な煽動家であったからではなく、普遍的で絶対的な「真理」を探り当てることの莫大なコストと、それが齎す実際の利益を比べて総合的に「引き合わない」と判定した為であろうと思われる。

 プラトンの思想は極めて観照的なものである。彼は具体的な行為や実践を重んじない。そもそも、感覚的認識は悉く「謬見」(doxa)として排斥するのが彼の持ち前の流儀なのだから。だが、肉体的な感官の伝える夥しい信号を残らず軽蔑しながら、人間は優れた実践的行為を成し遂げることが可能だろうか? プラトンの思想は「肉体」を必要としない。寧ろ「肉体」は精密な「知識」(episteme)を獲得する妨げになると看做され、積極的に抑圧される。あらゆる行為は軽視され、純然たる知性の行使が称揚される。プラトンの論じる「幸福」は、地上に暮らす俗人たちに相応しい「幸福」ではなく、飽く迄も「神の似姿」を目指す超越的な求道者への贈り物である。

 弁論家たちは巧みな口舌を用いて、普遍的な「真実」の代わりに「真実らしきもの」を聴衆に向かって提示する。ギリシャ語で「エイコス」(eikos)と呼ばれる「尤もらしさ」の概念は、プラトンの厳格な眼には「真理」の不完全な模造品として映じただろう。それは「真理」の本来的な価値を毀損する幻影のようなものである。しかし、所謂「相対主義」(relativism)の見地から眺めれば、数学的な論証のように、絶対的で普遍的な「真理」を発見することの困難な領域は幾らでも存在する。言い換えれば、この世界には「普遍的真理」の成立する領域と「流動的真理」の成立する領域の二つが存在する。幾何学の問題に関して、複数形の「真理」が登場するのは明らかに論証の不備に基づく謬見に過ぎない。だが、例えば「私は誰を愛するべきか」という実存的な課題に就いて、そもそも単一の普遍的な「真理」が成り立つだろうか?

 プラトンの創始した厳密な「知識」(episteme)への信仰は、キリスト教の世界に移植されて、厖大な神学的議論の枝葉を繁らせた。感覚によっては捉え難い事柄に関する純然たる抽象的思弁(それは「論証」以外の手段を持たない)は、不可知の超越的存在である「神」を巡る議論と相性が良いのだろう。それでは、弁論術に長けた人々の後裔は何処に存するのか。恐らく彼らは「政治」や「芸術」の世界に、その遺伝子を引き継いでいる。「哲学」が常に厳密な論証を通じて「単一の真理」を探究するのに対し、弁論家たちの魂を継承した人々は「条件付きの真理」を模索する。例えば芸術家は、事物の多様な姿を描き出し、その普遍的な本質よりも、偶有的な多面性を重んじる。政治家たちの目的は「真実」を論証することではなく、諸々の実際的な課題を最善の帰結へ向かって力任せに衝き動かすことである。「それが真実であるかどうか」の裁定を、あらゆる問題に優越させる観照的なプラトニストの生き方は、万人に妥当する実存的な規範であるとは言い難い。そもそも感覚によっては把握し難い「観念」だけを取り扱う世界で、純然たる論証によって「真理」を確定させようと企てる「形而上学」(metaphysics)の欲望は、極めて奇態なものだ。

 哲学は感覚的な証拠を必要としない(その意味で、例えばエピクロスは哲学者ではなく、科学者であると考えられる)。彼が用いるのは、純然たる論証に寄与すると思われる符号(言語と数式)だけである。彼は符号の力を借りて、感覚的な認識には聊かも頼らず、様々な論証を試みる。彼にとっての「真実」とは、経験的な事実ではなく、専ら「論理の整合性」に基づいている。哲学が信じるのは「合理性」だけである(無論、この言葉は「効率的である」という意味の現代的慣用句を含意していない)。少なくとも論証が成立しているならば、導き出された帰結は必ず「真理」の栄冠に値するのである。しかし、プラトンの弾劾した弁論家たちの野心は、そもそも「純然たる論証の成立」にも「感覚的に捉えることの出来ない事物」にも捧げられていなかった。彼らは「説得」を通じて他者の心を動かす政治的効用を追求していたのであり、その意味では、プラトンの投じた批難は御門違いである。如何に美しく精緻な論理的整合性を樹立し得たとしても、それが他者の心を動かさないならば、政治家にとっては何の価値もない。芸術家にしても同様で、彼らに期待される社会的役割は「創造」や「表現」であって「整合的な論証」ではない。

 ここまで考えれば、最早結論は明らかだ。数学に象徴される「整合的論証」の世界に、私は特別な関心を持たない。それよりも私は、人間の実存や心理に興味がある。だから、三島由紀夫の繙読を再開することに決めたのである。

観照的主体への怨讐 三島由紀夫「月澹荘綺譚」

 プラトンの『テアイテトス』(光文社古典新訳文庫)を繙読するのに草臥れたので、久々に三島由紀夫の小説に就いて書く。取り上げるのは「月澹荘綺譚」(『岬にての物語』新潮文庫)である。

 この小説は、三島由紀夫という作家が繰り返し自作の主題に挙げてきた「認識と行為の相剋」という重要な問題の構図に基づいて書かれている。侯爵家の嫡男である照茂という貴顕の人物は、完全に「行為」から切り離された、純然たる「認識」の所有者として定義され、描写されている。プラトニックな「観照」の原理の裡に逼塞した人間という形象は、三島の遺した最高傑作である「金閣寺」においても主要な旋律を占めている。

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、その厖大な対話篇の数々を通じて「実在」と「生成」の区別を重んじた。彼は単一の普遍的な「真理」を擁立し、事物の超越的な「本質」を措定すると共に、我々の肉体的な感官が捉える地上の経験論的な現実を「真理」の「不完全な模像」として位置付ける論理的な操作を完成した人物である。尤も、プラトンの思想においては、こうした普遍的な「真理」は決して肉体的な感官を通じて把握されることはなく、専ら知性的な思惟によって認識される対象として厳格に定義されている。しかし、三島由紀夫神秘主義的な性質は、こうした厳密な分断を性急に飛び越えようと欲する強烈な衝動に支配されている。彼は極めて犀利な知性の持ち主でありながら、純然たる知性的思惟の裡に留まることを絶対に承服しようとしない。彼は肉体的な感官を通じて、超越的な「実在」としての「イデア」(idea)に到達し、融合することを切実に希求し続けたのである。

 だから、三島由紀夫の小説には純然たる知性的な哲学者、プラトニックな観照に安住し続ける人間は滅多に登場しない。仮に顕れたとしても、例えば「志賀寺上人の恋」(『岬にての物語』新潮文庫)のように、その澄明な思弁的超越の境地は、肉体的な感官の誘惑によって転覆を強いられる。照茂の場合も、彼の挙措は感覚的な認識への異常な執着に占有されており、地上の経験論的な現実を離れて純然たる思弁的な世界へ飛翔するようには描かれていない。彼は専ら「見ること」の快楽に酔い痴れ、溺れている。生成的な現実に属して、自らその一部を構成することを拒否し、異様な熱心さで現実を外側から眺める実存的様態に固執し続けている。

 こうした照茂の振舞いは、それよりも遥かに稀釈された状態で、他の作品にも投影されている。「貴顕」という作品に登場する柿川治英もまた、外界の現実に対して独自の距離を保ち、芸術的な創造よりも「鑑賞=観照」に傾く人物として描かれていた。こうした生き方の類型そのものに、三島は「貴顕」という言葉を与え、象徴させているのだろうか。彼らは「行為」という具体的で生成的な現象の世界を冷ややかに眺め、その一切合切を「認識」の次元で把握し、処理し、解決し、支配している。それは必ずしもプラトニックな思弁への挺身を意味しないが、何れにせよ生成的な現実と対置されるべき実存の形式であることに変わりはない。そして三島は幾度も作中にて、こうした超越的な観照の主体が、生成的な現実を駆り立てる酷薄な論理によって報復される局面を描いているのである。

「それはあやまって滑り落ちたのかもしれないのに、どうして君江がやったこととわかったのですか」

「それはすぐにわかりました」と老人は断定的に、はじめて示す神経質なきびしさを語気にこめて、言った。「少くとも私にはすぐにわかりました。殿様の屍体からは両眼がえぐられて、そのうつろに夏茱萸の実がぎっしり詰め込んであったのです」(『月澹荘綺譚』新潮文庫 p.390)

 照茂は君江によって、最も致命的な復讐を蒙る。プラトンが肉体的な感官の裡で最も優越的な地位を「視覚」に授けたように、照茂が際立って偏愛した「見ること」の特権的快楽は、眼球を抉り取るという凄惨な手段によって徹底的に毀損されている。「志賀寺上人の恋」においては、超越的な思弁の境涯が、肉体的な享楽の誘惑によって破壊された。そして「月澹荘綺譚」においては、感性的な観照の享楽が、生成的な現実に属する「行為」によって弑逆された。あらゆる超越的理念を、生成的な現実の裡に引き摺り下ろそうとする三島の執念は、例えば「金閣寺」における「放火」の惨劇の裡にも表象されている。それは彼が「超越」を忌み嫌ったことの帰結ではない。寧ろ余りに「超越」を愛し過ぎたがゆえに、それが自分の手の届かない領域に超然と君臨し続ける現実的構造に堪えられなくなってしまったのだ。絶対的な「美」が常に超越的な位相の裡に存在するというプラトニックな秩序を、三島の肉体的な欲望は絶えず蹂躙しようと足掻き続けたのである。

岬にての物語 (新潮文庫)

岬にての物語 (新潮文庫)

  • 作者:三島 由紀夫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/12
  • メディア: 文庫