サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

純潔なる戦時下の天使 三島由紀夫「翼」

 三島由紀夫の短篇小説「翼」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 この小説は透き通るような、抒情的な美しさに満ちている。通俗的な感傷と言えば確かにそうかも知れないが、この美しさには三島的な主題の片鱗が、蜉蝣の翅のように薄く繊弱に編み込まれている。新海誠氏のアニメーション映画に相応しい題材ではないかと、個人的には感じた。

 死の陰翳と哀切な恋心を結び付けることで、名状し難い抒情を醸し出す手法は巷間に有り触れている。病気であれ、事故であれ、仏教において説かれる所謂「愛別離苦」の凄絶な痛みは、それだけ普遍的な衝撃力を備えているのだろう。通俗的な題材であるということは、言い換えれば、万人にとって馴染み深い本質的な重要性を宿しているということでもある。問題は、そうした普遍的題材に如何なる特異性を賦与するかという創意工夫の巧拙に存するだろう。

 小説が単なる叙述的散文から区別される為には、そこに何らかの「異物感」が介在していることが必要である。我々の日常的な認識の枠組みを逸脱する何らかの特異なエラーが混入することによって、小説は単なる叙述的散文から離陸し、我々の視界を更新する。我々の持ち前の認識論的布置から聊かも逸脱することのない保守的な散文は、我々の視界を更新せず、寧ろその守旧的な性質を強化するばかりである。

 この「翼」という短い作品において、我々の日常的な認識論を罅割れさせる要素は明らかに、一組の若い男女の背中に幻視される「翼」の存在である。若しも「翼」の幻想が介在しなければ、この小説はもっと単純で凡庸な作品に堕落してしまうだろう。だが、この「翼」が一体何を意味しているのか、果たして彼らの背中には本当に翼が潜んでいたのか、こうした設問に適切な回答を与えることは必ずしも容易ではない。

 葉子は彼が沢山の翼を作っているところを想像した。彼は工員たちに製品見本を示す必要に迫られるだろう。そうしたら、自分の肩の巨きな真白なきらきら光る翼を示せばよい。その次には性能の実験を迫られるだろう。そうしたら、彼はほんのすこし飛んでみせるだろう。空中にとどまってみせるだろう。設計図が作られるだろう。洋服の寸法をとるように、彼の翼の寸法がとられるだろう。しかしこの天然の翼のように完全な翼は誰にも作れない。彼は嫉視に会うだろう。もう一度飛んでみるように迫られるだろう。飛ぶ。すると銃口が彼の翼を狙う。翼は血に濡れそぼち、彼の体はまっすぐに地上に落ち、射られた鳥のように、しばらく狂おしく羽搏はばたいて地上をころげまわるだろう。彼は死ぬだろう。……死んだ小鳥の、動かない生まじめな目つきをしたまま。(「翼」『真夏の死』新潮文庫  p.110)

 葉子の陰惨な空想において典型的に象徴されているように、この幻想的な「翼」の観念には、不吉で悲劇的な含意が織り込まれている。杉男の「翼」は、彼の不幸な破滅を惹起する要因として機能するであろうと、葉子によって想定されている。「翼」が周囲の嫉視を購うだろうという想像は、この「翼」が誰の背中にも等しく生える訳ではない、寧ろ限られた人間の肩胛骨にしか宿らない一種の「聖痕」であることを暗黙裡に示唆しているのである。

 幻視される「翼」は、彼らの存在が周囲の世界から乖離していることの象徴である。だが、彼らは何故、周囲から乖離しているのだろうか? 彼らの背中には何故、普通の人間には決して備わることのない「翼」が生えているのだろうか?

 二人はいろんな点がよく似ていたので、本当の兄妹とまちがえられることがたびたびあった。相似というものは一種甘美なものだ。ただ似ているというだけで、その相似たもののあいだには、無言の諒解や、口に出さなくても通う思いや、静かな信頼が存在しているように思われる。なかんずく似ているのは澄んだ目である。その目は、濁った不純な水をかならず濾過して、清浄な飲料水に変えてしまう濾過機のように、そこに影を落して来る現世の汚濁を浄化してやまない目であった。そればかりではない。この濾過機は外側へむかっても、たえず浄化された水を供給しているように思われた。この二人の目から流れ出た水が世界を霑おす日には、この世の汚濁はことごとく潔められているにちがいない。(「翼」『真夏の死』新潮文庫 p.101)

 二人の純潔な性格を強調するこれらの記述は明らかに、彼らを「天使」に擬えようとする作者の意思の反映であるように感じられる。彼らの涙は「現世の汚濁を浄化してやまない」。彼らは単なる人間ではなく、地上の摂理を超越する数奇な使命を授かった「天使」なのである。「杉男も葉子も、お互いの背中が感じている温か味を、何故かしら人間の肉の温か味のようには感じなかった」(p.102)という記述もまた、彼らの存在を「天使」と看做す作者の意識的な視線の介入を暗示しているように思われる。或いは、葉子が英語の授業で教わった、イギリスの詩人ウイリアム・ブレイクの「天使」に関する挿話も同様である。

 だが、そもそも「天使」とは何か? 彼らは凡百の人間と如何なる点で異なっているのか? その最大の特徴は「現世の汚濁」を浄化する「澄んだ目」と、地上の世界から遠ざかって彼岸の領域へ飛翔していく「翼」の権能だろう。彼らは「現世の汚濁」を超越し、総てを「彼岸」から眺めているのである。言い換えれば、彼らは「死者の精霊たち」(p.108)の同類なのである。

 二人の見る風景には、たしかに死の耀やかしさが籠っていた。河原の石のひとつひとつの影にもそれがあった。こうしてうら若い従兄妹同士は、翼を寄せておたがいの鼓動に耳を澄ました。それは相手の胸からひびいてくるものにしては、あまりに同一の調べを持ち、あまりに符節を合していた。まるで二人のあいだにこの地上でただ一つの生き物が脈搏っているように思われた。(「翼」『真夏の死』新潮文庫 p.108)

 死者の側から眺めるとき、忌まわしい「現世の汚濁」は額縁に収められた絵画のように無害な美しさを放つ。それは「現世の汚濁」に塗れて生きるしかない地上の人間たちには望み得ない境涯である。だが、杉男と葉子は、同じ天使でありながら、同一の宿命には見舞われなかった。葉子は空襲で死に、地上から彼岸へ帰還したが、杉男は生き残って戦後の俗世に、つまり「現世の汚濁」の裡に暮らし始める。誤って地上に産み落とされた不幸な天使の背に、残酷な宿命は「現世の汚濁」という重荷を括り付けたのである。「翼は地上を歩くのには適していない」(p.117)という簡潔な一文は、夭折の恩寵に恵まれず、戦後の社会に向かって出航を命じられた作家自身の苦衷を端的に暗示している。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 

Cahier(未知なる誘惑者)

*人間の知的な好奇心は何によって煽られ、駆り立てられるのだろうか? 言い換えれば、我々の存在と精神を知的好奇心の情熱が刺し貫くとき、一体何が、そのような興奮を浮揚させているのだろうか?

 何かを知りたいと熱烈に願うとき、我々が期待している「邂逅」は如何なる性質を帯びているのだろうか。一つの手懸り、一条の補助線を持ち出すならば、先ず前提としてそれは「未知」に関わっていると考えることが出来るだろう。既に理解し、知悉している事柄に就いて、我々は情熱的な好奇心を燃え上がらせることが出来ない。既知の事柄を既知の通りに確かめるだけならば、燃え上がるような情熱の出番は存在しないからである。

 「未知」の事柄だけが、我々の内なる「理解」への欲望を高揚させ、励起させる。だが、我々は必ずしも一切の「未知」に就いて等し並みに好奇心の焔を捧げる訳ではない。我々の「未知」に対する関心の強度には斑がある。そもそも、我々は四囲を完全な「未知」に覆われたとき、知的な興奮に駆られるよりも先に、途方に暮れて、恐怖と絶望に総身を射竦められてしまうのではないだろうか。如何なる手懸りも存在しない完全な「未知」は、我々の実存を委縮させ、欲望を減退させる。だから、未知であるという条件だけで、知的誘惑の構造を適切に解明することは出来ないと言うべきである。

 寧ろ我々は「既知」で織り成された平坦な日常の合間に垣間見える束の間の「未知」に惹かれるのではないか? それは「既知」によって覆われた我々の日常的秩序を当惑させる些細な「エラー」である。「異物」であると言い換えてもいい。臆病な人々は、そのような「異物」を迅速に視野の域外へ放逐することに並々ならぬ情熱を燃やすだろう。彼らは「異物」を咀嚼する知的な体力も野心も欠いているのである。或いは人間も生身の動物であるから、心身の健康が優れない場合には、そうした「異物」と関わり合う余裕を確保し得ないということもあるだろう。

 例えば小説を読んでいて「これは一体どういうことなのだろう?」という疑念に駆られるときというのは、何でもない平坦な叙述の狭間に埋め込まれた不可解な「突起」に躓くときである。端から端まで「未知」で埋め尽くされた小説を、我々は読解出来ないし、そもそも「異物」の存在を検知することさえ出来ない。或いは、恋に落ちるときも同断ではなかろうか。或る時、不意に旧知の間柄にある人物の相貌が、何故か特別な輝きを伴って我々の眼前に迫り出してくる。それは、その人物が俄かに「異質な側面」を我々の眼前に露呈したことの結果である。俗な言い方を用いれば所謂「ギャップの魅力」という奴である。乱暴な不良少年が憐れな捨て猫を拾っている姿を偶然に目撃するという例え話が一般に、こうした「ギャップの魅力」の説明に際しては頻々と引用される。つまり、従来の不良少年の行動規範から逸脱する「異物=未知」の登場が、我々の好奇心に点火するのである。

 従来の理解の枠組みと矛盾するような異質性に逢着したとき、我々の批評的欲望は覚醒する。従来の理解の枠組みを改訂しなければ説明することの難しい事物との邂逅が、我々の好奇心を煽情的に誘惑するのである。何でもない文章だと思って読み進めていたら、不意に文脈に相応しくない言葉が砂利のように歯へ当たる。この違和感の原因は何なのかと、探究の欲望が起動する。そこには明らかに秘められた事実への手懸りが、或いはドアノブが埋め込まれているのである。

 この「異物感」が、我々の存在を誘惑する。それまでの我々の認識論的な布置を覆し、震撼するような「砂利」の感覚が、その「未知」の正体へ向かう欲望を喚起するのである。「恋に落ちる」という感覚は、それまで信じ込んでいた世界観の瓦解を伴う。言い換えれば、こうした「異物感」は、我々の世界に関する視野に映じる「風景」を塗り替えてしまうのだ。今まで知らなかった世界を開示するもの、それが「誘惑者」の定義である。そして、その「誘惑者」は退屈な日常の随所に潜む些細な「異物感」として登場し、我々の反復的な生活に参入する。些細な「異物感」に敏感であることは、優れた批評家としては重要な資質であろう。誰もが容易に看過する些細な「異物感」に対する過敏な反応性が、我々の視野を塗り替える最初の引鉄であるからだ。誰もが黙殺する事物の「異物感」を余人に先駆けて検知し、その正体を考究しようと欲することが批評的資質の本懐である。「異物に誘惑されること」は、或る種の人々にとっては絶大な快楽の源泉であり、別種の人々にとっては堪え難い不快の要因なのである。

Cahier(批評家の欲望)

*また益体もないことを徒然に考えている。批評という営為が、何を欲望しているのか、という普遍性を欠いた設問が、脳裡を掠めたのである。

 例えば性愛に就いて考えてみる。我々は愛する者から愛されたいという至極当然の感情と期待を有する。逆に言えば、愛されたいと思わない相手のことを、我々は決して愛さないのである。そして我々は愛する者が我々自身に対して差し向ける欲望を愛する。言い換えれば、我々は相手の内部に我々自身に対する欲望を励起することを画策するのだ。それが性愛における「誘惑」の基礎的な原理である。自己に対する官能的な凝視を相手の内部に期待すること、これが性愛における欲望の一般的な形態なのだ。

 我々は自分が欲するものを相手の内部に認めるとき、羨望や憧憬の感情を懐く。羨望や憧憬は、相手に対する想像的な同一化への欲望を我々の内面に喚起する。相手と一体化したいという欲望は、明らかに性愛的な感情である。或いはまた、我々は自分と同じ性質の欲望を持っている人間に親密な印象を覚える。これは友情と呼ぶべきだろう。友情は、或る共通の欲望の対象を媒介として結び付けられる連帯の感覚である。しかし性愛は、同一の欲望の対象によって結び付けられているのではない。性愛においては、共通の欲望の対象を媒介とするのではなく、相互に相手の存在を欲望の対象とすることによって、緊密な紐帯が形成される。友情は「共通の対象を欲望する」ことによって、愛情は「相互の存在を欲望する」ことによって成立する関係性の形式である。

 欲望は様々な構造と形式を伴って、我々の暮らす世界の隅々に蔓延している。例えばこうやって、誰に頼まれる訳でも実利的な効用が期待し得る訳でもないのに、地道に個人的な文章を営々と書き続けて電子的世界に瓶詰の手紙の如く抛り出すのも、欲望の形態の一つである。何故、私はこんな無益な文章を生真面目に書き続けるのだろうか? 定期的に購読してくれる方はいるにしても、それだけが書き続けることへの欲望の源泉であるとは言い難い。恐らく誰も読んでくれないとしても、私は何かしら文章を書き殴る欲望を維持し続けるだろうと思われるからである。

 恐らく私の内部には何かしら「究明」に対する欲望が潜んでいる。素性の知れないもの、得体の知れないもの、構造の解明されないものに就いて、その正体を究明したいという欲望が絶えず湧出するのである。しかし、私が究明したいと考えている事柄の領域は極めて狭隘である。何故なら、私には所謂「学術的関心」が稀薄であるからだ。言い換えれば、私の関心は「客観的事実の確定」という実証主義的な欲望とは余り親しくないのである。

 モンテーニュは「自分自身」を題材にして書くことを選んだ。その決断から「エッセイ」という散文の様式が生み出された。恐らく私の内面に蟠踞している潜在的欲望もまた、モンテーニュ的な「随想」の精神に親密な要素を嗅ぎ取っているのではないだろうか(尤も、私は「エセー」の岩波文庫版を数頁しか捲ったことがない)。つまり、私の知性における主要な関心は「自分は一体、何を考えているのか」という命題に向かって捧げられているのではないかと感じるのである。私は「私」の正体を知らない。無論、自分がどういう人間なのか、そういう事柄に関心を持たずとも人は生きられる。浅薄な自己定義に凭れて自己の限界を直ぐに画定させるような生き方よりも、己の可塑性を素朴に信頼して、その時々に大切な事柄や重要な使命に向かって駆け出し奮迅する方が余程、生産的な実存である。

 無論、どれだけ個性的で単独的な存在であったとしても、この「自己」という存在は数多存在する人間の一種であることに変わりはないし、人間という類的な範疇における共通性によって存在の過半を規定されているであろうことは概ね確実な話である。だから、他者の考えに就いて分析を試みることもまた、自己の考えを分析する営為の一環として措定し得る。或いは、このように言い換えられるだろうか。私は「私」自身も含めて、人間がどんなことを考え、どのように考えているのかを知ることに関心を持っているのだと。私は他人の頭の中身を想像することが好きである。他人がどういう価値観に基づいて行動し、様々な事柄に就いて如何なる思索や信条を稼働させているのか、それを分析的に妄想することが趣味である。三島由紀夫の小説を読んで「この作家は如何なる人間だったのか。何故、こういう小説を書いたのだろうか」という考えに浸るのも好みである。つまり、これが「批評家の欲望」ではないだろうか(無論、私は職業的な意味での批評家ではない。単なる市井の凡人であり、有り触れた坊主頭の被用者に過ぎない)。

 私は元々、小さい頃から小説家に憧れ、自ら作家になることを夢見てきた。自分の書いた小説を世の中の人々が先を争って読みたがってくれたら、どんなに良いだろうと思ってきた。けれども、知らぬ間に私は小説を書くことへの欲望を衰微させてきた。自分に特別な才能が欠けていることは随分昔から理解していた。能力がないだけなら、夢を諦める充分な理由にはならないだろう。問題は、小説を書くことへの情熱自体が色褪せてしまったことだ。しかし、小説を書くことへの情熱が褪色しても、何かしら文章を書き綴ることへの欲望と衝迫は途絶しなかった。小説を通じて世人の欲望を励起することに関する私の情熱は、それが途上において劇しく色褪せてしまった事実を徴する限り、凡庸な水準の代物に過ぎなかったと言えるだろう。昔の私は、それを自らの生きる理由であるかのように信じていたというのに。若しも私が本当に小説を書くことを愛していたならば、誰にも評価されずとも、終生の手遊びに過ぎなかったとしても、きっと熱心に書き続けただろう。

 間歇泉のように、時折思い出したように二十代前半から書き出した小説の続きへ着手しても、直ぐに情熱と意欲が萎えて、尻切れ蜻蛉に終わってしまう。その繰り返しが益々積極的な意思を衰弱させてしまう。代わりに私は夥しい量の読書感想文を書き、日々の備忘録のような、個人的な随想の類を書き溜めた。小説を書かずとも、文章を書くこと自体は私の変わらぬ欲望の対象であり続けているのだ。それは何故だろうか? そもそも、私にとって文章を書くことは何を意味しているのか?

 書いている間、私は絶えず自分自身に向かって問い掛けている。お前は何を言いたいのか、お前は何を言おうとしているのか、という設問が常時、高速で「私」と「私」との間を往復しているのである。その過密な処理の過程で徐々に、自分自身が考えていたことの全貌が浮かび上がってくる。聊か気障な表現を用いれば、文章を書く作業を通じて、私は「私自身」と出逢っているのである。例えば三島由紀夫の小説を読み、何故、吃音の若い僧侶は金閣寺に放火したのかを、三島由紀夫の文章を通じて考察する。そのとき、私は私自身の内部に齎された様々な想念と向き合い、その構造を濾過しながら、少しずつ「纏まった考え」に向かって躙り寄っている。そうやって手繰り寄せられた考えの中身は、私自身の生活や思想と無関係なものではない。彼は要するにこういうことを訴えているのではないかという結論らしきものに到達したときの清冽な歓喜、静謐な充足は、自分自身の内側に醸成された曖昧な思念に、適切で明瞭な言語的輪郭を賦与することに成功した瞬間の喜悦と同類である。言い換えれば、私の中に根強く息衝いている欲望とは「理解することへの欲望」なのである。

 この命題を愛情の公式に当て嵌めることは可能だろうか。つまり、誰かと愛し合うということは「相互的理解」への欲望なのだと結論することは適切だろうか。愛情は「相互の存在を欲望する」ことである。私が貴方を理解したいと願うとき、私は貴方を愛している。同時にその欲望は、貴方によって私の存在を理解されたいという潜在的な願いを伴っている。この双方向的な関係への期待が、愛情の固有的条件である。相手を理解することに関心を持ちながら、相手によって自分が理解されることを特に望まないとき、それは「愛情」の定義に適うだろうか?

 「理解されたくない」という拒絶の感情は、必然的に愛情の拒絶である。「理解されたい」と願うことは愛情の基本的な要件である。果たして「理解されたくない」と考えるとき、人間の内面には如何なる性質の情念が生起しているのだろうか。恐らくそれは「誤解」に対する過剰な恐懼を含んでいるだろう。厳密に言えば「理解されたくない」という拒絶の姿勢は「誤解されたくない」という欲望の変奏された表現なのである。「誤解されるくらいならば、そもそも理解を期待しない」という潔癖な気性が、他者による理解の営為を遠ざけるのだ。だが、我々の理解は「誤解の反復」によって徐々にその精度を高められるものである。理解の第一歩が「誤解」であることは珍しくない。言い換えれば「完璧な理解」への極端な固執が「如何なる誤解も容認しない」という病的な潔癖を生み出すのである。だが、欲望の充足に伴う歓喜は常に「誤解から正解への変遷」の過程の裡に存する。つまり、誤解や無理解が存在しない場所には、正解へ到達する歓びもまた存在しないのである。「誤解」の全面的な排除を試みる完璧主義者の庭園には、必然的に「正解」という果実を結ぶ為の花が咲かない。

 批評家の欲望は、恐らく「難解なものに魅惑される」という衝迫を備えている。難解なものに惹き付けられないということは、理解したいという欲望が薄弱であることを明確に含意している。「理解し難いものへの拒絶」は、愛する力の脆弱性を立証しているのだ。それは同時に「誤解への恐懼」と密接に関連している。正しく理解し得ないものは敬遠しようという態度は、事勿れ主義である。そして、理解への努力を怠る人間が、他者からの熱心な理解の恩恵に浴する見込みは乏しい。何故なら、愛情は一般に相互的な構造を宿しているものであるからだ。互酬的な現象であると言い換えてもいい。此方が差し出さない限り、相手も何かを差し出そうとは考えない。そもそも成熟した人間は、不均衡な互酬性を忌避する習性を備えている。理解に関する吝嗇な振舞いは、つまり相手から貰える限りのものを一方的且つ排他的に享受しようと画策する態度は、愛情に関する倫理的規範を根本的に毀損している。

 理解とは「贈与」である。相手を理解することは、相手に贈り物を捧げることと同義である。言い換えれば、理解とは相手の存在を抱擁し、その実在を祝福することである。私にとって文章を書くことは、そうした「愛情」の表現なのかも知れない。自分自身に対しても、具体的な他者に対しても、その理解の為に文章を通じて思索を積み重ねることは、紛れもない「祝福」の作法ではないか。測り難いものを測ろうとする情熱、それが批評家の欲望の核心を成す。測り難いものを拒絶する姿勢は、愛情の拒絶であり、堪え難い孤立への捷径に他ならない。愛することは理解することだ。無論、それは固定された見解によって相手の存在を拘束することではない。理解は常に書き換えられ、改訂されていく。改訂の勇気を失ったとき、批評家の欲望は廃滅するだろう。

 だが、何故我々は、何らかの対象を理解したいと望むのだろうか。単に難解であるだけでは、理解への意欲を促進することは出来ない。理解に先立って、我々は何らかの暗示を受け取っている筈だ。理解し難い暗がりの中に、何かしら大切なもの、必要なものが隠匿されていると考えない限り、我々の批評的欲望が煽動されることはない。我々の批評的欲望を駆り立てる秘められた誘惑の源泉、それは一体何なのか?

 我々の知らない何かを相手が知っていると感じられるとき、それは我々の理解に対する欲望を促進する。しかも、その知らない何かは、我々が潜在的に探し求めている事柄に関わっている筈である。つまり、単なる知識の多寡が、我々の欲望を駆り立てる訳ではないのだ。我々は相手の内部に何らかの誘惑の実在を期待する。我々が求めているものが、相手の内部に潜在するという直感的な期待によって、我々の批評的な欲望は劇しく励起される。その漠然たる期待、立証されざる期待は、どうやって我々の精神の裡に下賜されるのか? その直感は、運命的なものなのだろうか?

危機・栄光・誘惑 三島由紀夫「サーカス」

 三島由紀夫の短篇小説「サーカス」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 所謂「見世物」に属する稼業は、観衆の欲望を刺激し、彼らの興奮に向かって想像的に同化することによって成立する。観衆が何を見たがっているのか、その欲望の内実を把握しなければ、見世物は魅力を発揮することが出来ない。言い換えれば、見世物という商売は観衆の欲望を侵略し、占有し、併合する責務を負っているのである。

 誰もが見たがるようなものを作り出したいという芸術家の欲望は当然のことながら、三島由紀夫の精神を支配する扇の要の役目を、長年に亘って担っていた。しかし、それは彼にとって究極的な充足を齎すものではなかった。三島は彼自身の存在を、夥しい観衆の欲望の焦点に据えたかったのである。彼が小説の執筆のみならず劇作に精を出し、時には自ら俳優の仕事に手を染めたのも、そして晩年の盛大で陰惨な自決も、他者の欲望に己の実存を曝したいという内なる野心の顕れではなかったか。彼は観衆の位置に留まるだけでは満たされない空洞を抱えていた。彼は他者に求められ、愛されることを切実に要求していた。無論、人間ならば誰しも他者の承認を希求し、愛情を享けることに憧れを覚えるのが通例である。

 だが、三島由紀夫という人物は、特定の親密な他者による承認だけでは満足し得ない性格の持ち主ではなかっただろうか。彼は自己の個性を通じた他者との欲望の交換には納得せず、もっと完璧で絶対的な欲望の対象に自己の存在を定位する内在的要請に強いられていた。言い換えれば、彼は普遍的な欲望の対象にまで自己の存在を高めることに熱烈な執着を有していたのである。短所が長所と複雑に、密接に絡まり合う渾沌とした個性の魅力に依拠することは、彼の美学に反する振舞いであった。偶有的な美しさではなく、本質的な美しさを求めることが、彼の審美的規範を構成する根幹的な要諦であった。言い換えれば、彼は自身の存在を「永遠的な偶像」として昇華することを望んだのである。例えば特攻隊の戦没者たちが、その悲劇的な宿命の威光によって永久に顕彰されるように。

 「サーカス」の団長は、一座の花形である「王子」を意図的に事故死に追い込む。それは単に彼の出奔の罪過に対する懲罰であろうか? いや、違うだろう。「王子」への懲罰に先駆けて、次のような記述が作中に刻まれていることを、我々読者は看過してはならない。

 二人の出奔を聞いたとき、団長の心は悲しみの矢に箆深のぶかく射られた。心ひそかに彼がねがった光景、——いつかあの綱渡りの綱が切れ、少女は床に顚落てんらくし、とらえそこねた少年は落馬してクレイタ号の蹄にかけられる有様——、団長の至大な愛がえがいていた幻影は叶えられなかった。団長は椅子にもたれて不幸や運命や愛について考えた。彼の唇は怒りにふるえて来た。(「サーカス」『真夏の死』新潮文庫 p.91)

 出奔に対する懲罰としての謀殺は、明らかに「王子」の再度の逃走を危惧して意図的に早められた「偶像化」の処置であるように感じられる。観衆の欲望を根こそぎ吸い寄せる若者、夥しい欲望の視線の焦点として構成される若者の超越的な「魅惑」は、悲劇的な死によって極限まで高められると共に、時間の齎す怠惰な腐敗の危険を免除される。最も美しい状態で死ぬことは、その残像を不朽の傑作に仕上げることに等しい。彼は絶えず観衆の欲望を喚起する特権的表象として、時間的制約を超越し、普遍的な偶像と化す。言い換えれば、彼の存在は純然たる欲望の対象として抽象化され、官能的な魅惑の象徴として歴史にその名を刻まれるのである。

 芸術家の欲望は、観衆の欲望を励起することに懸けられている。作品を通じて、観衆の潜在的な欲望に火を燈し、その野蛮で貪婪な欲情の標的と化すこと、つまり観衆を巧みに誘惑すること、これこそ芸術家における野心の内実である。悍馬を乗りこなす「王子」と綱渡りの少女によって演じられる一場の奇蹟は、団長によって設計され構築された魅惑的な「作品」である。そして「作品」の鮮麗な残像は、二人の悲劇的な夭折によって堅固な輪郭を与えられ、絶対的な記憶に昇華される。それは芸術の完成された形態であろう。

 その一瞬の、後足で立った奔馬の姿勢に、人々は運命のまわりに必ずあるあの装飾的な華麗な静けさを見出だした。それはどんな酸鼻な事件をも見戍みまもっている鏡の周辺に、巧みな工人の手で飾られた古いヴェニス浮彫レリーフのような静けさだ。

 王子は砂の上に横たわっていた。頸骨けいこつを折って。(「サーカス」『真夏の死』新潮文庫 p.94)

 「王子」のように我が身を不朽の作品として永遠的な記憶の系譜に列ねることは、三島にとっては芸術的な宿願であった。それは死後もずっと観衆の欲望を励起し続ける純然たる「誘惑」の化身に憧れることと同義である。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 

何故、誰かに「見られて」いなければならないのか? 三島由紀夫「春子」

 過日、再びプラトンの『国家』(岩波文庫)の繙読に復帰すると宣言しておきながら、枯葉のように頼りない心は速やかに舳先の方角を改め、結局は三島由紀夫の短篇小説「春子」(『真夏の死』新潮文庫)に指先で触れてしまった。別に余人にとってはどうでもいい転回に過ぎないことは弁えている。

 「春子」の主題は「レズビアン」(lesbian)或いは「サフィズム」(sapphism)であると目されている。けれども、繙読した感想としては、女性の同性愛自体に、三島が重要な力点を置いている印象は享けなかった。この作品は確かに性愛の力学的構造に関する精緻な解剖に基づいて紡がれている。但し、それは我々の社会を構成する公共的原理としての「異性愛」に抵触する世界を提示しようという聊か露悪的な野心とは無関係であるように思われる。

 所謂「三角関係」という言葉がある。一般に我々の世界においては、性愛の関係は「二者」の間で排他的な仕方で営まれるのが道義的に正しい形態であると信じられている。そこに第三者が介入することによって、我々は或る倫理的な苦闘や、様々な穢れた情熱の虜囚と化す。

 問題は、この作品における「私」の路子に対する欲望が、絶えず春子の視線によって喚起されているという点に存する。言い換えれば、「私」が路子に対して懐く性的欲望の根拠は、路子の存在そのものには附随していないのである。けれども、それは「私」の欲望が、本当は春子に対して結び付いているという潜在的事実を示すものではない。彼らの関係においては、性愛の欲望は「二者」の間で双方向的に完結する排他的な充足の境涯に到達することが出来ない。路子が「私」との性愛的関係を受け容れるのは、それが春子の意向に即していると判断した結果であり、「私」が路子に欲望を覚えるのは、春子に「見られている」という認識を持ったときに限られている。ここでは「私は貴方を求める」という単純な欲望の表明が、当事者の関係性の内部に根拠を持たないという奇態な構造が稼働しているのである。

「二階へ来ない」というと、何度か本を借りに登った私の部屋へ路子は黙ってついて来た。春子が今にも来はしまいかという惧れでそわそわしている間は、路子の体に不安定な漲るような危機のなまめかしさが見られるのだが、話らしい話もせずに小一時間たってしまうと、今度は路子がそわそわしだすのに引代えて、私には路子の着ている見慣れたスーツが味気なく見えてくるばかりだった。春子に見られる気遣いがなくなると、きまって私の路子への欲望が衰えてくるのである。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  p.70)

 「春子に見られるかも知れない」という一種の複雑な不安が、路子に対する「私」の官能的欲望を喚起し亢進させるのは、恐らくそれが春子の路子に対する欲望の憑依として機能するからではないだろうか。春子の欲望が憑依することで「私」の欲望は掻き立てられる。言い換えれば、「私」が本当に望んでいるのは路子そのものではなく、路子に対する春子の欲望と同化することなのではないか。私は浅学菲才ゆえに、ラカンコジェーヴジラールも読んだことがないので、一知半解の引用に赴かねばならない厚顔を恥じながら述べるのだが、これは正に「他者の欲望に対する欲望」であると言えるだろう。頗る大雑把な要約を試みるならば、人間は他人が欲しがるものに欲情するという社会的性質を備えているのである。飢渇や寒暖に関する当然の生理的欲求と区別されるべき人間的「欲望」の固有性は、こうした三角関係的特性に存していると看做せるだろう。

 一般に愛情は、相手の歓びを自分の歓びとして感受する心理的構造に依拠して形成される。つまり、愛することは他者の欲望に同化することによって齎される充足を志向しているのである。そして誰かを愛するという心理的営為の裡には常に「愛する者に愛されたい」という願いが含まれている。反対に愛情の拒絶は、他者の欲望そのものの拒絶であるというより、他者の欲望へ自身が同化することに対する拒絶であると定義せねばならない。

 姿見の前に一対の花瓶があった。それはいつぞや銀座で買ったトキ色の対の花瓶なのだが、鮮やかな緋のいろで春子の名が書き散らされているのは、つれづれに路子が口紅で書いたものにちがいなかった。しかし路子はそれについては何も言わず、ふと思いついたように、「べにつけてあげる」

「僕にかい?」

「あら、あなたの他に誰もいないじゃないの」——そうだ。私のほかに誰もいない。しかし果して誰もいないだろうか。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  pp.82-83)

 勿論、この密室における官能的欲望の関係性は、不在であるべき春子の超越的な臨在を想定することで保たれているのである。「私」が路子に対して懐く渇望は、単なる官能的欲望ではない。つまり、性的な渇望の即物的解消を求めるものではない。「私」の欲望は、春子の「欲望」に対する想像的同化として構成されている。

 だが、そもそも何故「私」は、そのような想像的同化に踏み込むのか。迂遠な手続きを経由せずとも、彼の春子に対する官能的欲望は充足され得るのである。この経緯を適切に理解する為には恐らく、春子本人と空想的な「春子」との認識論的な差異に着目する必要がある。

 三度目の逢瀬はもうだめだった。「これではない、この体ではない」と私は娘の寝床に入るつもりをまちがえて母親の寝床へ入ったあのデカメロンの青年のように戸惑いした。いつも後に来るべき動物的な悲しみが先に来た。きっと私は慈善家のように蒼ざめた悲しげな顔をしていたにちがいない。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  p.53)

 この「失望」は恐らく「私」が諸々の伝聞に基づいて長年に亘って育んできた夢想的な憧憬の対象としての「春子」と、現実に存在する生身の女性としての春子との落差に依拠して形成されている。

 ひとたび彼女について囁いた大ぜいの口、彼女にむかって傾けられた無数の耳、彼女の写真をむさぼり見た多くの目は、春子の生涯に何らかの暗示を投げかけずにはおかない。彼女はもはやかれらの望んだように生きるか、かれらの失望するように生きるかの他はない。彼女自身の生き方はなくなってしまった。(「春子」『真夏の死』新潮文庫  p.32)

 「私」が長きに亘って夢見ていた「春子」は、いわば「新聞種になった女」としての「春子」であり、それ自体が無数の他者による欲望の対象であった。それは平穏な日常に埋もれる匿名の存在ではなく、夥しい他者の下世話な好奇心の餌食に選ばれた「欲望の対象」である。「春子」の世界は常に折り重なる「他者の欲望」の螺旋的な回廊のように構築されている。そこでは「純粋な欲求」など有り得ない。我々は常に「借り物の欲望」に駆り立てられながら、俗塵に塗れて地上を這い回っているのである。或いは「憂国」における心中のエロティシズムもまた、こうした「他者の欲望」との間に緊密な関連を有しているのかも知れない。つまり、三島的な「夭折」への欲望自体が、自己の存在を「他者の欲望」の対象に据えたいという切迫した希求の所産なのかも知れないのである。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

 

プラトン「国家」に関する覚書 7

 再び、プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。

 「理想」という概念は、プラトンの思索において極めて重要な意義と役割を帯びている。現実に存在する事物への全面的な充足だけで万事済むのならば、プラトンのように彼是と抽象的な思弁を弄する必要は皆無となるだろう。言い換えれば、単に動物的な幸福、眼前の瞬間的な現実に対する半ば自動的な適応の機構として人が生きられるのならば、空想的な思弁など無用である。「超越」という奇態な観念に日夜振り回される必要もない。

 恐らく揺るぎない幸福とは、如何なる欲望にも支配されず、眼前に存在する事物だけで満足する精神を涵養することで初めて獲得される。何かを欲する限り、少なくとも直ぐに手に入らない事物を希求する限り、人間の精神は堅固な安寧の裡に憩うことが出来ない。だから多くの宗教的信仰や道徳的修養は、欲望の廃絶或いは抑制を奨励し、称讃する。規則や戒律を愚直に遵守することが尊く美しい振舞いであると訓示する。戒律への反発は、欲望を持たない人間にとっては無縁の粗暴な感情である。与えられたもので満足すること、確かにそれは極限的な窮境に追い詰められた人間の精神を支援する強力で即効性の高い武器となり得るだろう。

 だが、こうした幸福は、その本性において、飼い慣らされた従順な家畜の習性に過ぎないのではないだろうか。「常に眼前の現実によって満たされる」という倫理的美徳は、四囲の現実への全面的な従属を含意している。彼らは所与の規範に従順であり、欲望に駆り立てられて野蛮な悪徳に陥ることもなく、絶えず他人への忠誠と配慮を伴って、果たして生きているのか死んでいるのか、その境界線さえ曖昧な独自の心境に達している。彼らの幸福は、故障を知らぬ精密な機械の幸福だ。彼らは逸脱も叛逆も知らず、希望も絶望も味わうことがない。それは確かに幸福の究極的な形態であり、ヘレニズムの哲学における所謂「アタラクシア」(Ataraxia)の境地であると看做して差し支えないだろう。だが、このような境涯を「幸福」と呼ぶのならば、私は必ずしも「幸福」への純粋な信仰に基づいて日々を歩み続ける自信を持つことが出来ない。

 過剰な情熱、劇しい欲望、不可能なものへの挑戦、限界の克服、これらの不穏な実存的経験から遠ざかることが「アタラクシア」の秘訣である。その根底には「煩悩の廃絶」という志向性が潜在していて、総ての道徳的規範を形成する礎の役目を担っている。言い換えれば、ヘレニックな倫理学においては「現実への抵抗」という野蛮な精神は排斥される傾向にあるのだ。別段、私は「アタラクシア」の論理に宿っている精神衛生上の効用を否定している訳ではない。重篤な依存症の患者にとって「欲望の節制」に関する合理的で実践的な教義は、重要な救済を齎すだろうと考えられるからである。

 プラトンにおける「理想」の内実も、究極的には現世の欲望に対する批判的視座を備えている点において、後世のエピクロスセネカと通底する倫理的志向を保持していると言える。プラトンは現実を超越する為に、感覚的認識を排して理性による認識に邁進することを重視した。肉体=感覚に対する深刻な敵意、これがプラトンの思索の中核を成す根源的な志向であり、衝迫である。理性的認識を愛することが「哲学」の本義であるならば、少なくともプラトンの用語法において「哲学者」は、あらゆる肉体的快楽、感覚的欲望の敵手でなければならない。だが、これは聊か偏狭に過ぎる思惟の様式ではなかろうか? 肉体=感覚における認識への軽視は、プラトニズムにおいては揺るぎない金科玉条である。だが、理性と感性とを二元論的な対立の構図の裡に配置し、感性から理性への移行を絶えず称揚し続ける志向性は、現実に対する抵抗であるというより、現実そのものの想像的消去ではないのか?

 恐らくプラトンに固有の「超越的思考」が備えている驚嘆すべき衝撃力は、眼前の現実を抹殺しかねないほどの強烈な抽象的想像力によって支えられ、醸成されている。長大な対話篇「国家」が、理想的な国家の形態に就いて、厖大な論理的想像力を駆使しながら克明な設計を試み続けているように、彼は常に「存在しない世界の形式」に関する豊饒な思索を身上としている。言い換えれば、プラトンの「空理空論」を形成する能力は、異様な傑出を示しているのである。それは絶えず「感覚的明証性」を思索の根底に置き続けたエピクロスの現実的感覚とは異質な執念を宿している。エピクロスは「感覚的に把握し得ないものに就いて考えることは無益である」という根本的な態度を保持しているが、プラトンは寧ろ「感覚的に把握し得ないものに就いて考えることこそ『哲学』の本懐である」という極端な方針を貫徹した人物なのである。恐らくエピクロスセネカにとって、この世界は常に「既知の体系」に還元される。けれどもプラトンの思索は絶えず「未知の存在」に向かって貪婪で偏執的な欲望を燃やし続けている。それは「認識の限界」を画定することに哲学的思考の真価を見出した師父ソクラテスの方法とも全く異なっている。プラトンは、理性の力を駆使することで未踏の認識的領域に辿り着けると信じていたのではあるまいか。彼の卓越した論証的能力は、感覚的現実の犀利な分析ではなく、かつて一度も地上に存在したことのない理想的現実の稠密な「構想」に向けて、極めて熱烈に捧げられたのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

 

Cahier(「明晰」と「迂回」)

*五月の末から、プラトンの対話篇の繙読を一時休止して、再び三島由紀夫の短篇を渉猟する旅路に赴いていたのだが、俄かに気が変わった。

 先刻夕食を終えて、居間の壁際に置いてある新しい書棚に並べておいた、ドイツの哲学者カントの『啓蒙とは何か』(岩波文庫)に深い考えも持たずに手を伸ばし、冒頭の一頁を通読して、その古めかしく晦渋な言い回しの訳文に、文学とは異質な「明晰さ」を感じたことが、此度の目紛しい心変わりの直接的な契機である。

 啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである、ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから「敢えて賢こかれ!(Sapere aude)」、「自分自身の悟性を使用する勇気をもて!」——これがすなわち啓蒙の標語である。(『啓蒙とは何か』岩波文庫 p.7)

 まるで何事もないような涼しい表情で、これだけ重要な「人生の心得」を簡潔に綴ってみせるカントの澄明な理智に、私は清々しい「明晰」の美徳を感じたのだ。無論、ここに挙げた文章を読んで、如何にも哲学者らしい晦渋な筆致だと忌々しい気分に陥る方もあるかも知れない。けれども、この文章は所謂「文学的晦渋」とは異質である。文意の厳密を期す為に冗長な表現を用いるのは、哲学者の一般的特徴である。しかし、哲学者が晦渋な表現を用いるのは、飽く迄も明晰な世界観を獲得する為であることを失念してはならない。

 一方、文学の世界における多様な表現は、哲学的な「明晰」への志向性とは根本的に異質な原理によって駆動されている。一般に小説の文章は、哲学書の文章よりも明快で、理解が容易であると考えられているが、こうした素朴な通念は疑わしいものであると知るべきだろう。小説においては、一つ一つの言葉は、明晰な一義性を志向していない。寧ろ、それは隠喩的な「意味」の乱反射の、集積された形態なのである。けれども、一つ一つの表現だけを抽出すれば、語釈の次元で、小説を構成する文章が特別に難解であることは滅多にない。小説は特別な言葉ではなく、我々の日常において用いられている普通の言葉によって形成されている。哲学書のように、難解で人工的な「造語」を発明することは稀有な事例である。それでも、小説における言葉は、我々の日常における言葉と、その外貌においては区別し難い類似性を備えながら、複雑な反射と屈折を秘めている。小説は、まるで独立した比喩のように、重層的な象徴のように、夢想的な啓示のように言葉を用いる。平明な単語でさえ、小説の内部に置かれた途端に、俄かに不可解な側面を露わに示し始める。小説を読んで、尤もらしい論理的解釈を施すことは不可能ではない。数多の批評家たちが、そうした評釈に長い年月を費やしてきたのだ。けれども、小説は要約を拒み、一義的な判定を、最終的な審判を執念深く忌避する。

 小説を通して現実を眺めようとするのは、如何にも無粋な振舞いで、本当は精緻に組み立てられた異界の実存を追体験するだけで充分なのだ。その後で紡ぎ出される無数の解釈の言葉は、直接的現実に関する解釈の言葉と、位相においては同質である。唯でさえ複雑な現実の渦中に生きている憐れな境遇なのだから、わざわざ「別様の現実」に耽溺して、虚構に関する論理的解釈を捏造するという煩瑣な作業に没頭する必要はない、という考えが、再び私の胸底で邪悪な鎌首を擡げた次第である。

 要するに私は、プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)の繙読に復帰する決意を固めたのである。余人にとっては、勝手にしやがれという話だろう。無論、勝手にするのだが、その経緯を記録として遺した上で、一応は衆目にも曝しておきたいのである。

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)

国家〈下〉 (岩波文庫 青 601-8)