サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

無意識の偽善者 三島由紀夫「絹と明察」 2

 引き続き、三島由紀夫の『絹と明察』(新潮文庫)に就いて書く。

 その返信は、よしんば長い時間を経ても、必ず届く。これはかなり神秘的なことだが、駒沢は自分が善意を施している相手方の反応を、あんまり当然なものと信じていたので、詳しく検証して見ることもせず、その反応には言葉も要らず、証文も要らず、微笑さえ要らず、善を授けた側の直感によってそれと知るだけで十分だと考えていた。(『絹と明察』新潮文庫 p.231)

 こうした駒沢の純粋な信念が、極めて深刻な「他者」の存在に対する軽視に基づいていることは明白である。「返信」と称しながらも、駒沢は自己の授ける「善意」に対する他者の反応に就いて適切な関心を払っていない。彼にとって重要なことは、自身が「善意」と信じて疑わぬ措置を迷わずに講じることに尽きており、他者はそうした「善意」に対する絶対的な受動性を備えた無力な装置に類する存在なのである。「善を授けた側の直感」が、専ら駒沢自身の閉鎖的で独善的な思い込みに過ぎないかも知れないという懸念を、彼は聊かも視野に含めようとせず、殆ど自動的に「事実」の客観的で冷静な検証を抛棄してしまう。彼にとって客観的な「事実」は重要な価値を有さず、主観的な「善意」の発露だけが主要な関心と情熱の対象に据えられているのである。

 それは一つの事故にすぎず、駒沢の心はあの事故のために悲しみ、「わが子」たちの死を悼んだが、彼の慈愛はそれによって挫けるということがなかった。彼の「わが子」は補給が利いた。慈愛の対象がこうして補われるものなら、慈愛も亦、悲しみによって徒らに毀たれず、たちまちにして活力を取り戻し、公平を保ち、不屈のものになったのである。(『絹と明察』新潮文庫 p.234)

 駒沢の信奉する「慈愛」の怪物的な冷淡さに、読者は注意を払うべきである。彼の「慈愛」は、対象の個性や掛け替えのなさとは全く無関係に放射され、一切の個人的な要素から切り離された状態で、半ば自動的に人々へ向かって注がれる。彼にとっては「慈愛」を発露するという自己の精神的な営為だけが重要な意味を担っているのであり、それを受容する側の人間の立場や論理は些末な問題に過ぎない。だが、これを「慈愛」と呼び習わすことが本当に健全で適切な態度であろうか? 相手が誰でも構わないのならば、受け取る側は「慈愛」の宛先を自分自身であると確信することが出来ず、従って駒沢の「慈愛」を平板で表層的な「大義名分」以上の何かとして理解しようとは考えないだろう。

 換言すれば、駒沢にとって他者の存在は純然たる「姿見」以上の特別な意義を持たないのである。彼の「慈愛」は幾らでも交換可能な不特定多数の対象、一般的な概念、抽象化された曖昧なイメージと結び付いており、その詳細で具体的な内訳は関心の埒外に放逐されている。公平性に富み、如何なる障碍や惨劇に逢着しても決して屈することのない「慈愛」の無際限な活力は、慈愛の対象となる人々の抱え込んでいる個別的な実情への無意識的で驕慢な「黙殺」によって賦活されているのである。夥しい数の従業員を雇用する企業の首魁が、極めて情緒的な家族主義の理念を堅持する上では、その麗しい御題目とは裏腹に、個別的な実情に対する濃やかな斟酌は寧ろ、致命的な障碍として作用せざるを得ないのだ。銘々の至極個人的な事情や境遇に深入りしていては、駒沢の信奉する公平無私の「善意」や「慈愛」は、否が応でも挫折せざるを得ない。彼の放出する純粋無垢の「慈愛」は、その表向きの看板とは反対に、他者に対する無関心や冷酷な抑圧を正当化する為の熱狂的な仮装なのである。

 あの若い組合員たちの顔、かれらがあんな顔をしているとは、今まで考えたこともなかったのであるから、ここ数日のあいだに急にそう変ったとしか思いようがない。尤も駒沢が彼らの顔をあんなに近くで眺めたことははじめてなのだ。押しあいへし合いしながら、時間的にはわずかの間だが、耳垢まで見え、口臭まで嗅がれるほど、あんなに身近に接したことははじめてである。それらの顔が憎悪に充ちていたからというよりは、駒沢にとっては、それらのひしめき合う若い顔が、彼の顔にそれほど接近することができるという感覚の異様さが怖ろしかった。大切な距離が、しらぬ間に何ものかに喰いつぶされていた。彼が公平な肉親的な感情を働らかすには、その相手側の愛憎はさておき、こんなに毛穴の一つ一つまで読まれる近さでは不可能だった。かがやく目、怒った鼻孔、残忍な白い歯列、舌苔のある舌の舞うさま、無精髭に取り巻かれた唇、……こんな顔の無数の堆積を眼前に突きつけられて、いかにも駒沢の口惜しく思ったことは、自分の溢れ出る善意の、あいつらの貪るような目に立ち向う小ささと弱さである。あいつらはもう、何も「公平さ」を欲しがっていないように見えた。(『絹と明察』新潮文庫 pp.262-263)

 ここには駒沢的な「慈愛」と「善意」の論理を支える基礎的な条件の構造が露わに描き出されている。愛情を注ぐ相手との間に充分な、殆ど抽象的な水準の距離が確保されていること、相手の個人的な事情や固有の条件が此方に影響を及ぼさないこと、これらの要素は駒沢的な「慈愛」の円滑な機能を保証する重要な根拠である。一見すると奇妙なことだが、駒沢の「慈愛」は決して他者の関与や介入を許容しない構造を有している。彼の「慈愛」が要求するのは抽象的で一般的な他者の「幻像」であり、生身の他者、個別的な他者、異質な他者(本来「他者」とは常に自己にとって異質な存在である筈だが)は「慈愛」の論理に亀裂を走らせる危険な災厄として位置付けられる。駒沢の「慈愛」は、観念的な膨張を遂げた「自己愛」の部類に属しているのである。

 従って駒沢は、今までただの一度も、自分の思想が相手の思想に直接に投げつけられ、その反応がまともに自分の顔にぶつかってくるという経験をしたことがなかった。もしそうなった場合の予想は容易に立ち、相手は感動に顔をかがやかせて、彼の球を柔らかく丁重に受けとめる筈だった。彼の真意を知ったとき、世界は夏の朝のように目ざめる筈で、彼が誤解のままに放置っておくときは、つまり彼が恩寵を吝しんでいるだけのことだったのである。(『絹と明察』新潮文庫 p.311)

 世界の総てを自己の内在的な価値観だけに基づいて解釈し、一切を自己の脳内で片付けてしまうこと、それが駒沢的な論理の倒錯的な本質である。無論、彼は自身の思想や認識能力を、超越的な神々に比すべき俯瞰的な視座として理解しているだろう。彼は下界のあらゆる事象に対して優越しており、世界で最も精確な「明察」の所有者として傲然と、しかし慈悲深く君臨している。彼の決断と措置を誹謗する者は、一個の独立した正当な批判者ではなく、世界の核心的な「真理」に通暁する能力を持たぬ愚昧な民衆として一方的に侮蔑され、憐憫の涙を注がれるのである。換言すれば、彼は自身の存在を超越的な神々に擬しているのであり、彼の「善意」や「慈愛」に対する無理解や誤解が生じるとき、その不幸な衝突と齟齬の責任は、専ら受容する側の人間に押し付けられ、駒沢の側は特権的な免罪符を自動的に交付されるように構造化されているのだ。

 ――そしてこれほど歪められようのない状況で話しているのに、彼の平明な言葉がちっとも通じない人間がいるとは、信じがたい事態であるが、駒沢は一切の例外を認めたくなかったので、大槻を例外と考えることを自分に拒んだ。こんな頑固さが、彼をさらに悲境へみちびき、今まで夢想もしなかった怖ろしい疑惑を強いた。

『もし、こいつが例外でないとすれば、ひょっとすると、今まで俺の言葉は誰にも通じていなかったのではないか?』

 これは突然脳裡に生じた腫瘍のような考えで、その考えが浮んだとたんに、駒沢は自分の頭蓋の隅々まで、丁度衝突した自動車の前窓のように、こまかい亀裂がいちめんに走ったのを感じた。(『絹と明察』新潮文庫 pp.312-313)

 駒沢紡績における本格的な労働争議の首謀者である大槻との対話は、駒沢が長年に亘って堅持してきた「善意」と「慈愛」の自己完結的な論理の牙城に、最初の重大な危機を齎す。駒沢自身は、己の日々展開している「善意」と「慈愛」の論理が、他者の領域から切断されて、半ば無目的に空転している抽象的な空想に類するものに過ぎないという自覚を有していなかった。その可能性を駒沢に教えたのは、大槻の厳しい弾劾の言葉である。けれども、大槻の下した峻烈な判決の文句を契機として自己の存在の様態を見直し、適切な改訂を加える為の時間は不幸にも、駒沢には与えられていなかった。彼は「脳の血栓性軟化」によって斃れ、病床で死神の訪問を待ち受けるだけの立場に零落してしまったのである。 

絹と明察 (新潮文庫)

絹と明察 (新潮文庫)