サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「天使」という実存的形式 三島由紀夫「葡萄パン」

 三島由紀夫の短篇小説「葡萄パン」(『真夏の死』新潮文庫)に就いて書く。

 三島由紀夫の作品の過半を貫く重要な主題は「認識」及び「行動」の間で繰り広げられる二元論的な相剋の図式として要約される。文学的出発の当初において、審美的認識の密室に閉じ籠っていた作者の精神は後年、陶酔的な実存に対する劇しい飢渇に衝き動かされて、芸術的作品を現実化する、つまり自分自身の存在を一個の作品に昇華するという野蛮な暴挙に結実した。

 卓越した認識の力を備えるが故に、陶酔的な実存への参与が妨げられる苦しみは、三島の代表作である「金閣寺」において、最も鮮明な構成の下に緊密な表出を与えられて燦然と輝いている。この切迫した苦悩は終生、三島由紀夫という作家の精神を拘束する黙殺し難い主題として前景化していたように思われる。陶酔への恐怖や嫌悪、それと綯い交ぜになった憧憬や欲望、こうした両義性が絶えず彼の魂を蚕食し続けている。「金閣寺」において、その両義性は「放火」という犯罪に帰結し、語り手の「私」は「認識」から「行動」への移行を密やかな口調で宣言する。

 「天使」という観念は、三島の文学において「卓越した認識者」の暗喩として機能している。「天使」は肉体的な性質を持たず、地上の事物と現象に拘束されず、あらゆる現実から遊離して、只管に透徹した認識を磨き上げる宿命を負う。この「天使」を、プラトニズムとの親近性において理解するのは、それほど傲慢な牽強付会ではないと私は思う。ギリシア最大の哲学者プラトンは、特に「パイドン」以降の著作において「肉体から離れること」「感性的認識を排除すること」「普遍的な真理へ到達すること」の重要性を執拗に強調している。彼は眼に見えるものよりも眼に見えないものを重視することに「知性」の本領を配置している。肉体的感覚への不信は正に「天使」の特質だ。何故なら「肉体」は常に局所的な存在であると共に、盲目的な「行為」の世界へ通じる唯一の回路として働くものであるからだ。純然たる「認識」の権化としての「天使」は、そのような「肉体の牢獄」に拘束されることを望まない。「天使」は絶えず脱獄を繰り返して、あらゆる監獄の隔壁を透過してしまう抽象的な存在なのである。

 彼が身を浸して歩く闇は、だんだん彼に浸透してゆくようだった。自分だけの跫音の、ひどく自分から疎遠な感じ。空気をわずかに波立たせているだけの彼の存在。その存在は極微にまで押しちぢめられ、彼が闇を拓いてゆくまでもなく、彼が闇の微粒子の間隙を縫ってゆくことさえできた。

 あらゆるものから自由になり、完全に透明であるために、ジャックには邪魔な筋肉も脂肪もなく、鼓動している心臓と、白い砂糖菓子のような「天使」という観念だけがあった。……(「葡萄パン」『真夏の死』新潮文庫 p.305)

 明らかにジャックという青年は「天使」の領域に配置された人格的形象である。彼は物質によって妨げられることのない稀薄な存在として描かれている。透徹した認識は、この世界のあらゆる意味を解読すると共に、そうした意味の連鎖の根源的な無効性を知悉している。言い換えれば、彼は「エピファニー」(epiphany)という観念の最も明晰な敵対者なのである。或る事物、或る瞬間、或る事件に特権的な価値と光輝を授ける手続き、そうした認識の特殊な偏倚は、「天使」という超越的で普遍的な認識の様態には決して合致しない。普遍的な認識は、個物の特権的な価値を原理的に容認し得ないからである。

 但し、こうした天使的性質は「葡萄パン」という作品に登場する所謂「ビートニク」(Beatnik)の若者たちの全員に共通する資質という訳ではない。例えば、明らかにジャック的人格と対蹠的なキャラクターとして造形されているゴーギは、地上的なものの象徴としての「肉体」を極端に発達させている。

 ジャックにとって困るのは、ゴーギのような肉体的な存在の、不透明な特質だった。それは、目の前に立ちはだかって来ると、透明な世界の展望を遮断し、その汗くさい体臭のつよい体で、ジャックがいつも保とうとつとめている透明な結晶を濁らせるのであった。彼のひっきりなしの力の誇示、それは何とうるさかったろう。彼の甘いしつこい腋臭、彼の全身の毛、彼の不必要に大きな声、それらは闇の中でさえ、汚れ果てた下着のように存在が明らかだった。(「葡萄パン」『真夏の死』新潮文庫 p.312)

 言い換えれば「肉体」は「透明な世界の展望」としての普遍的認識に抵抗する異物であり、天使的認識を妨害する厄介な凝結のようなものである。プラトンにとって「肉体」が「イデア」(idea)への到達を妨げる忌まわしい障碍であったように、天使であるジャックにとっても、ゴーギの筋骨隆々たる「肉体」は手に負えない「他者」の象徴なのだ。

 「肉体」は「天使」の尖鋭な対義語である。そして三島的な主題の核心が「天使」から「肉体」への移行に存していたことは、既に述べた通りである。それは世界に特権的な意味を恢復することであり、空疎で単調な日常性の秩序を停止させることに等しい。三島は狂おしいほどに特権的な意味、普遍的な認識の立場から眺めれば瑣末で不毛な思い込みに過ぎない「意味」或いは「価値」の厳然たる実在性に憧れていた。言い換えれば、彼は「普遍」よりも「偏倚=変異」への没入を劇しく欲していたのである。

 枕の前に置いた目覚時計が、扇風器の唸りにもめげず、鈍重な音を立てて時を刻んでいる。これはジャックの生活の皮肉な装飾品で、彼は決して目覚しの目的でそれを使ったことはなかった。昼も夜もかわらず流れつづける一本の細流ささながれのような彼の意識、そのなかに水晶のように透明な自分を保つのは、彼の毎夜の永い習慣で、目覚時計はこんな習慣をたえず喜劇化してくれる彼の友、彼のサンチョ・パンサだった。その安っぽい機械の音は、すばらしい慰めで、彼のすべての持続を滑稽にしてしまうのである。(「葡萄パン」『真夏の死』新潮文庫 p.319)

 ジャックは密かに「水晶のように透明な自分」を破壊してくれる悲劇的な宿命を待望しているのではないだろうか。彼の内なる虚無は、彼の透徹した厳密な普遍的認識の所産である。彼の卓越した心眼は、あらゆる事物の滑稽で悲惨な構造を端的に照射し、認識の行き届かない暗がりを残らず曝露する。だが、それはジャックの心に充実や幸福を決して齎さないだろう。精密な認識は、一切の価値の棄却を代償として得られる超越的な果実であるからだ。

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)

真夏の死―自選短編集 (新潮文庫)