サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

ショーペンハウアー「幸福について」に関する覚書 1

 十九世紀ドイツの著名な哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの『幸福について』(光文社古典新訳文庫)に就いて書く。

 三月の初旬に原因不明の高熱を発して二週間ほど仕事を休んだ。四十度の発熱は成人してから殆ど初めての経験で(去年インフルエンザに罹患したときでも三十八度までしか上がらなかった)、床に臥せる以外に何も出来ず、纏まった思考を積み上げることさえ叶わなかった。肉体の健康を損なえば、日頃の生活において当たり前に熟せていることが悉く不如意になること、しかも疾病は予兆も示さず俄かに襲来して、日常のリズムを瞬く間に攪乱してしまうことを思い知り、柄にもなく聊か殊勝な心境に回帰した。そこで思い立って「サラダ坊主の幸福論」と銘打った連載記事を綴り始めたのだが、古代ローマの哲人セネカの遺した書簡「幸福な生について」に就いて詳細な評釈を試み始めた所為で、病臥からの恢復期に読み出したショーペンハウアーの書物に就いて記事を纏める機会が無限に遠退いてしまった。「幸福な生について」を少しずつ引用し、それに関する私見を述べるという繰り返しは有益な修行に違いないが、如何せん飽き性の私には苛酷な難行であった。今は続きを執筆する気力を著しく減退させている。向後の宿題としたい。

 ショーペンハウアーの幸福論は、実に豊饒な省察箴言に充ちた、素晴らしい書物である。以前に私は同じ著者の『読書について』(旧訳・岩波文庫)を読んで、その皮肉な名文に感銘を受けたことがある。日本でも古くから人口に膾炙している「幸福について」もまた、それに匹敵するか或いは上回る新鮮な刺激を私に授けて下さった。

 本書では、生きる知恵、処世哲学をまったく内在的な意味、すなわち、人生をできるかぎり快適に幸せに過ごす術という意味で受けとめている。こうした術の手引きは幸福論と呼ぶこともできよう。したがって、生きる知恵とは「幸せな生活への指針」ということになる。ところで「幸せな生活とは何か」ということだが、純客観的考察というよりむしろ(ここで肝心なのは主観的判断なので)冷静にじっくり考えて、生存していない状態よりは明らかに好ましい状態、と定義するのが精一杯であろう。ここから私たちが幸せに生きることに執着するのは、単に死を恐れているからではなく、幸せな生活という考えそのもののためであって、またそうだからこそ、幸せな生活がずっと続いてほしいと願うのだと推論される。

 さて、人生はこうした幸せな生活という考えに合致するものなのか、あるいはせめて合致する可能性はあるのかという問いに対して、読者もご存じのように、私の哲学はノーと答える。いっぽう、「人生の究極の目標は幸福にある」とする幸福論は、この問いに対してイエスと答えることを前提としている。(『幸福について』光文社古典新訳文庫 pp.9-10)

 冒頭から、ショーペンハウアーの筆致は底意地の悪い風味を伴って躍動している。古代ギリシアにおける幸福論の実質的な立役者とも言えるアリストテレス、後代のエピクロスセネカも皆、その哲学的思惟の到達すべき境涯に「幸福」という倫理的な観念を据えている。エピクロスは「肉体の健康」と「霊魂の平静」を幸福な人生の秘鑰と看做し、哲学の研究を通じて迷妄や臆見を払い除け、真理を正しく認識することが、そうした根源的な目標の達成に寄与すると論じた。古代の幸福論は概ね、理性の適切な使用を通じた「真理」の把握と、人生における「幸福」の獲得とを同一視している。けれどもショーペンハウアーは、持ち前のペシミズムを存分に発揮して、そのような「幸福」の積極的な追求が誇大な妄想に過ぎないことを声高に訴え、断定している。彼にとって「人生とは幸福の為に存在する」という牧歌的なオプティミズムは明白な謬見なのである。それゆえに、ショーペンハウアーが幸福論を語るということは、著者自身が認めているように、その本来の哲学的方針と背馳した営為なのだ。だが、その矛盾が結果的に、彼の幸福論に或る強かな実用的性格を賦与しているとも言える。彼はセネカのように朗々たる弁舌を駆使して、肯定的で美しい賢者の実存的理想を語ろうとは考えていない。寧ろ彼は、個別の人間が現に生きているという事実を、一種の頽廃的な悪徳のように定義しているのである。幸福論は、たとえ僅少であったとしても「生きることには価値がある」という根源的な前提に立脚していなければならないが、ショーペンハウアーの哲学は専ら「生の無価値」という暗鬱な旗印を掲げている。従って彼の幸福論は、幸福の積極的な建設に向けた設計書のようなものではなく、飽く迄も苦痛に満ちた人生に対する幾つかの処方箋の提示、暫定的な服薬指示書の提案に過ぎない。彼は幸福を幻想と看做し、苦痛だけが現実的なものであると繰り返し強調する。「幸福になる為に生まれてきた」などという理想主義は、彼の標榜する見解とは尖鋭に対立する。とはいえ、彼は別に若くして自殺を選んだ訳でもない(享年七十二歳)。エピクロスの断簡には、反出生主義や厭世主義に対する簡潔な糾弾の文章が含まれているが、実際、生きることが本当に無価値であるならば、自殺という手段は有力な選択肢として浮上する筈で、厳密には、如何にペシミスティックな枠組みに依拠しているとしても、ショーペンハウアーの処方箋は「生存の苦痛」を曲がりなりにも緩和することで、一応は生者の幸福に貢献する効能を明示しているのだと言える。輝かしく現実的な幸福の代わりに、消極的な手引きを遺した彼の功績は、少なくとも無益ではない。彼の冷淡な助言の数々は概ね適切で機智に富み、生の暗部に対する免疫の機能を賦活してくれるのである。