サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「ツバメたちの黄昏」 二十七 不埒なる隠避船の伝統

「ダドリアの状況を知らねえ訳じゃあるめえ」 如何にも突慳貪な口調でバエットの顔を睨み据えながら、男は流し場の縁に凭れて皺の寄った紙巻の莨へ火を点けた。その眉間は深い憂愁を感じさせる皺が幾重にも刻まれ、濫れ出る紫煙に抗うように顰めっ面は、彼が…

「ツバメたちの黄昏」 二十六 巷間の抜け道に関する知識

国内、国外を問わず、極めて広範な地域から多種多様な民族と積荷が集まり、遽しく通過していく国境の商都ヘルガンタには、あらゆる港町の通例に準じて、埠頭から少し離れた界隈に賑やかで淫猥な花街の伝統を有していた。商売人の情熱を存分に発揮して、利益…

「ツバメたちの黄昏」 二十五 裏通りの密航屋「海猫亭」

舗装された埠頭の石畳を踏み躙るような荒々しい足取りで突き進むバエットの異様な健脚に、事務作業に慣れ切って肉体の鍛錬を怠っている私とポルジャー君は、息も絶え絶えに追い縋るだけで精一杯であった。急き立てられるように前進を維持するバエットの後ろ…

「ツバメたちの黄昏」 二十四 税関総局の鉄壁

「流石にハイジェリー商会の重役は一筋縄ではいかない難物でしたね。我々も改めて、今後の方針を考え直さなければならないようだ」 柔らかな午前の光が繊細に泡立っている港の明るい石畳を、私たちは複雑な心境で連れ立って歩いていた。同業者の誼を買い被っ…

「ツバメたちの黄昏」 二十三 商売敵との対峙

それは息詰まるような蒼白の沈黙に貫かれた、忌まわしい時間であった。ラクヴェル氏の冷淡で蔑みの感情に満ちた顔を、私は今でも克明に、生々しく想い起こすことが出来る。その邪悪な商館長と正面から向かい合って対峙したバエットの不敵な面構えも、未だに…

「ツバメたちの黄昏」 二十二 辺境に住まう州侯家の思惑

丁寧に撫でつけられ、櫛を入れられた白髪は綿毛のように軽やかな光沢を放ち、消し炭のように色褪せた口髭にも行き届いた手入れの痕跡が残っていた。創業百年を迎える大店の商会で、支店長の重責を任される人物に相応しい貫禄と威厳だと称するべきだろう。堂…

「ツバメたちの黄昏」 二十一 ハイジェリー商会の顔役

入港の翌朝、仕度を早々に済ませて訪れたハイジェリー商会のヘルガンタ支店は、石造りの古びた建物で、罅割れた煉瓦の隙間は暗い緑色に苔生しており、彼らがヘルガンタという街で営んできた商売の歴史の長さと重さを間接的に物語っていた。助手のポルジャー…

「ツバメたちの黄昏」 二十 苦学生エレファン・ポルジャー君の肖像

猛獣ベルトリナスとの劇しい格闘の一件以来、船路は頗る穏やかな、落ち着いた日々によって彩られた。船という洋上の密閉された空間で来る日も来る日も寝食を共にしていると、最初は険しかった新米監督官と荒事に慣れ親しんだ護送小隊の面々との間の隔壁も不…

「ツバメたちの黄昏」 十九 誇り高き炊事番の憤慨

黄昏の洋上で演じられた血腥く騒がしい乱闘の光景は、未だ雛鳥のように頼りなく歩き方も覚束ない新参の監督官の眼には鮮烈に刻み込まれた訳だが、討伐されたベルトリナスの亡骸が、翌日の晩餐の慎ましい食卓に供されることになろうとは流石に予測すらしてい…

「ツバメたちの黄昏」 十八 パーフォーヴェンの異端者

それは一瞬の出来事であったように記憶している。クラッツェルの精悍な横顔に荒々しい水飛沫が押し寄せて、引き摺られるように傾いた甲板の上を金属のバケツが音を立てて転がり、人間のものではない耳障りで不吉な奇声が長閑な夕映えの潮風に入り混じった。…

「ツバメたちの黄昏」 十七 銛撃ちクラッツェルの華々しい登場

それから俄かに船上は遽しく賑わい始め、甲板に鳴り響く囂しい怒号と靴音、それらの厖大な奔流に押し流され呑み込まれながら、私は舷側の手摺に掴まって一連の成り行きを茫然と眺めることしか出来なかった。屈強な肉体に喉笛まで覆い被さる襟の締まったシャ…

「ツバメたちの黄昏」 十六 海神様の御光臨

初夏の空は透き通る瑠璃で造った天蓋のように美しく晴れ渡り、降り注ぐ光は私たち商船員の心に明朗な希望を射し込んでいた。安閑とは言い難い不吉な航海へ乗り出す私たちにとって、その壮麗な青天白日の海原の風景は、間違いなく心の支えであり、癒しと安ら…

「ツバメたちの黄昏」 十五 国境の街ヘルガンタ、ビアムルテ州

そして瞬く間に出立の日は近付き、日頃の様々な雑役から解放された私は、その代わりに「ツバメたちの黄昏」と名付けられたダドリアへの弾薬輸送の密命に関する諸々の準備に忙殺されて、這々の体で旅立ちの当日を迎えた。 書記課事務室の同僚たちは相変わらず…

「ツバメたちの黄昏」 十四 旅立つ者の決意

打ち合わせは日没を過ぎて漸く区切りを迎え、すっかり疲れ果てた私は重たい躰を引き摺るように事務室へ戻った。同僚たちは土気色の顔を携えて現れた私に冷淡な眼差しを向けたものの、朝方のような露骨な敵意を叩きつけようとはしなかった。厭味な先輩メリス…

「ツバメたちの黄昏」 十三 三つ巴の抗争

それから始まった私たちの生命を懸けた重要な打ち合わせが、実に剣呑な雰囲気の中で進められたことは言うまでもない。葉巻を燻らせながら椅子に踏ん反り返って、商館次長による計画の概略の説明を聞き、輸送課長による積荷の詳細や「運び屋」たちの陣容に関…

「ツバメたちの黄昏」 十二 ファルペイア州立護送団の異端児

改めて振り返ってみれば、それは実に運命的で意義深い一日であったと言えるだろう。ダドリアへの弾薬輸送計画、恐らく大抵の商館員は関わり合いになることのない数奇な任務を命ぜられて、それまでの凡庸極まりない生活からは凡そ想像もつかないような日々へ…

「ツバメたちの黄昏」 十一 孤独な昼食、孤独な午後

昼餉の時間も仲間たちは私のことを遠ざけて密やかな陰口を叩くばかりで、私は久々に一人きりで商館の食堂の隅っこで食べ物を黙々と胃袋に押し込む羽目になった。彼らの的外れな嫉視と羨望が、如何に誤解に満ちたものであるかを幾ら懸命に力説したところで、…

「ツバメたちの黄昏」 十 高慢と偏見

翌日の午後、商館長の部屋で州侯殿下御下命の大仕事の打ち合わせが行なわれることになり、私は夜明け前に眼が覚めてしまうほどの緊張を強いられながら、辛うじて己の心を奮い立たせて定刻の午前八時に事務室へ出勤した。 私の暗鬱な心境を物語るように当日は…

「ツバメたちの黄昏」 九 蜘蛛の糸の如く絡み合う因縁

「何故、州侯殿下が私という人間のことを御存知なのですか」 至極尤もな質問を吐き出すと、書記課長は厳めしい眉を少しだけ和らげて、漆黒の珈琲を口へ運んだ。「この珈琲は苦過ぎるな」「話を逸らさないで下さい、課長」 無礼を承知の上で、私は敢えて露骨…

「ツバメたちの黄昏」 八 書記課長ジーレム・アステル氏による面談

商館長の呼び出しを受けた日の夕刻、日の暮れかかった薄暗い事務室で鞄に荷物を纏めている最中に、再び不吉な呼び出しが掛かって、私は暗澹たる気分で背筋を伸ばした。同僚たちは三々五々、仕事終わりの一杯を傾けようと最近流行りの呑み屋へ繰り出す算段を…

「ツバメたちの黄昏」 七 書記課事務室

要するに生贄に選ばれたのだと、館長室を辞去した後の廊下で私は思い当たった。内乱で夥しい数の難民を吐き出すほど秩序の壊れている隣国ダドリアへ、官兵の眼を盗んで弾薬を送り届けるなど、正気の沙汰ではないと一蹴するのが、健全な常識の持ち主には相応…

「ツバメたちの黄昏」 六 哀れなルヘラン氏、一世一代の大役を仰せ付かる

円形劇場の檜舞台で主役を演じる中堅の俳優のような声量で、我が敬愛する商館長閣下は昨今のフェレーン皇国を取り巻く厄介で面倒な政治的情況に就いて、有難い御高説を並べ立てて下さった。以下はその大雑把な要約である。 既に述べたところと重複するが、我…

「ツバメたちの黄昏」 五 「政情」という奇怪な地図

「君には弾薬を運んでもらう。尤も、君自身に荷物の揚げ降ろしを遣れと命じる気はない。弾薬の取扱に慣れた書記官など存在しないからね」 モラドール商館長の意想外な発言に、私は思わず総身を凍らせた。弾薬? そんな積荷をコスター商会が引き受けたことな…

「ツバメたちの黄昏」 四 隣国ダドリアの苦境

「ダドリアへ? 私が?」 思わず素っ頓狂な声で返事をした私の間抜け面を、商館長は大して面白くもなさそうに眺めて頷いた。「そうだ。君にはダドリアへ行ってもらう」「モラドールさん。幾ら私が世間知らずだとは言っても、流石にダドリアが内乱状態である…

「ツバメたちの黄昏」 三 商館長モラドール氏の不吉な呼び出し

コスター商会の本店で三年間、書記官として書類仕事の基礎中の基礎、初歩中の初歩から学び抜いた私は軈て能力を認められ、スファーナレア州の州都ジャルーアの支店への転属を命じられた。鷲鼻の商館長から部屋に呼ばれて、異動の内容を告げられた瞬間の私の…

「ツバメたちの黄昏」 二 港町ジャルーアへ流れ着くまでの前段

それは或る晴れ渡った初夏の一日、すっかり黄ばんで端の曲がり始めた当時の日記を繙いて確かめてみたところ、精確な日付はバレマン暦三六五年五月三日、私は何時ものようにジャルーアの埠頭に程近いコスター商会の事務所へ勤めに出ていた。何時もと同じ、何…

「ツバメたちの黄昏」 一 コスター商会の一等書記官ルヘラン氏の回想

スファーノ湾の穏やかな海原に面した港町ジャルーアは、百年も昔から栄えてきた古色蒼然たる漁業と交易の街で、埠頭に連なる煉瓦造りの重々しい倉庫には、金銀財宝から娼婦の下穿きまで、ありとあらゆる品物が収められていると聞く。実際に倉庫の扉を開け放…

Fateful Damage 安部公房「けものたちは故郷をめざす」

安部公房の『けものたちは故郷をめざす』(新潮文庫)を読了したので、感想文を認める(註:当ページ下段に貼付したAmazonのリンク先は、今年刊行されたばかりの岩波文庫版)。 安部公房の初期の短篇小説に顕著に示されている非現実的で寓話的な作風は、この…

「Hopeless Case」 37

辰彦より一足先に会社を出ると、既に夕闇は濃かった。ビルの谷間を冷え切った疾風が鞘鳴りのように駆け抜け、滲んだ西日は何処か色褪せて見えた。椿はコートの襟許に顎を埋めて、上眼遣いに道路の対岸の信号機を見凝めた。都会の雑踏、という手垢に塗れた言…

「Hopeless Case」 36

午後の仕事の間、辰彦は努めて荒城との不穏な会話の残像を眼裏から追い払い、淡々と熟すべき業務の数々に専念し続けた。荒城の側でも、特に深追いする素振りは見せなかった。所詮は他人事だと考えているのだろうか。面倒な人間関係の癒着に予防的な措置を講…