サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

「Hopeless Case」 35

湯気の立つ珈琲がそれぞれのデスクの上に鎮座し、書類が飛び交い、内線外線を問わずに卓上の固定電話が鳴り響き、スケジュールとタスクが複雑に絡み合ってペルシア絨氈のように精緻な柄を描き、正月休みの緩慢な自殺のような静寂は打ち砕かれ、蓄積した業務…

「Hopeless Case」 34

夜明け前に眼が覚めた。起きた瞬間から、意識が隅々まで冴え渡っていた。早起きする度に感じる、ヒリヒリした躰の重さ、瞼の重さも感じない。寝静まった部屋の壁際に横たわったまま、耳を澄ませると、居間の時計が時を刻む規則的な音さえ明瞭に聴き取れた。 …

Sadistic Humor 安部公房「R62号の発明・鉛の卵」

安部公房の短篇集『R62号の発明・鉛の卵』(新潮文庫)を読了したので感想文を認める。 この短篇集には『壁』や『水中都市・デンドロカカリヤ』と同様に、安部公房の文業に特徴的な主題や要素が多彩な変奏を伴って象嵌されている。人間を動植物や機械と同列…

Politics and Cybernetics 安部公房「飢餓同盟」

安部公房の長篇小説『飢餓同盟』(新潮文庫)を読了したので感想文を認める。 この作品が「権力」や「革命」といった政治的な主題を取り扱ったものであることは鮮明な事実である。また、この作品を構成する説話論的な構造の中核に「人間レーダー」というサイ…

The Complex of Sadism, Aestheticism, Nihilism, Mysticism 三島由紀夫「鍵のかかる部屋」

三島由紀夫の短篇集『鍵のかかる部屋』(新潮文庫)に就いて、総括的な文章を書いておく。今までは個別の作品を一つずつ取り上げて論じていたのだが、余りに手間が掛かるし、短篇というものは或る程度、包括的な地平から眺めた方が、個々の作品の備えている…

権力・変形・寓話 安部公房「水中都市・デンドロカカリヤ」

安部公房の短篇集『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫)を読んだので、感想文を認める。 同じ新潮文庫に収められている連作短篇集『壁』と同様に、この短篇集にも安部公房の生得的な主題やイメージが繰り返し変奏される形で集まっているように思われる…

「Hopeless Case」 33

長い正月休みが始まった。椿には、特に予定もない。父方の祖父母は既に亡くなり、母方は祖父が二年前に膵臓癌で逝き、取り残された祖母は痴呆が進んで今は幕張の施設に入っている。面会しても、娘の顔すら覚えていない。つまり、帰省の予定はない。幾日か友…

変形・被害・同一性の剥奪 安部公房「壁」

安部公房の『壁』(新潮文庫)を読んだので、感想文を書く。 最近は半年以上放置して埃を被っていた自作の小説の続きを書くことに労力を費やしていて、読書ノートを書く時間が確保出来なかった。加之、創造することに夢中になると、分析することには余り食指…

「Hopeless Case」 32

長い正月休みが始まった。辰彦の実家は船橋の夏見にあり、日頃から週末の休暇に幾度も孫娘の顔を見せに帰っていたが、梨帆の実家は金沢にあり、纏まった休暇でなければ帰省は難しい。だから盆暮の長い休暇は新幹線で金沢へ帰るのが、二人が所帯を構えて以来…

「Hopeless Case」 31

朝帰りではなかった。それは端的な事実だった。午前一時を回り、日附変更線を跨いだ帰宅ではあったが、夜明けまで呑んだくれていた訳ではない。それは確かに、その通りだ。 娘の幼い寝息に耳を傾けながら、会社の付き合いとはいえ、野放図な夜遊びに耽って帰…

「Hopeless Case」 30

三々五々、人々が散ってしまった後で、辰彦と椿は未だ互いの隣に佇んでいた。夜の闇が飲食店の目映い軒燈の群れに照らされ、視野の方々で引き裂かれていた。不機嫌そうな黒塗りのタクシーが、酔漢の横切る危なっかしい車道を蛞蝓の速さで這い回っていた。見…

「ヘルパンギーナ」 5

「聞こえてんのか、ジジイ」 戦慄くような母の声には、裏切られた患者の途方もない怨嗟が言霊のように鬩ぎ合いながら充ちていた。私は様子を窺いながら、茫然とした。予想もつかない痛烈な科白が、普段は大人しくカルガモのようにひっそりと己の我儘な感情や…

「ヘルパンギーナ」 4

「大きく口を開けてごらん、坊や」 一歳の誕生日を過ぎた幼児の不貞腐れたような真顔を老眼鏡越しに鋭く睨み据えて、老い耄れた医者は灰白色の立派な眉を顰めた。伸び放題に伸び切った眉毛の尖端は栄養が行き届かない所為もあって猫の毛のように細く繊弱に見…

「ヘルパンギーナ」 3

物が言える年頃に至っても、私は寧ろ積極的に緘黙の姿勢を重んじていた。この季節の幼児が舌足らずの口調でどのような言葉を発するものか、それを不自然にならぬように再現し続けることに関して、胸の内に一向に自信が湧いて来なかった為である。そうである…

「ヘルパンギーナ」 2

私が生を享けた桐原家は、千葉県千葉市花見川区に居を構える古くからの地主の家柄であった。区域を南北に流れる花見川の滔々たる水面の輝きは、転生した私の眼にも眩しく映り込んだ。広々とした敷地は、私の生みの親が自力で勝ち得たものではなく、累代の遺…

「ヘルパンギーナ」 1

日本の片隅で生まれた平凡な私に語れることなど、そうそう幾つもある筈がないのは、読者諸賢も既に御明察であろう。薄暗い湿っぽい秘境、母親の胎内からドリルのように旋回して狭苦しい子宮口を抉じ開け、やっとの思いで外界の新鮮な空気を肺臓一杯に吸い込…

「夏と女とチェリーの私と」 10

長谷川が退職してから、予備校の内部では知らぬ間に水道管の継ぎ目が地中深くで不意に破れるように、何処からか紗環子先輩との後ろ暗い噂が無数の背鰭や尾鰭を伴って流れるようになった。それなりに年齢の進んだ冴えない男が俄かに職業を鞍替えするのは、世…

「夏と女とチェリーの私と」 9

思わず振り上げた拳を間抜けな顔で眺める長谷川の腑抜けじみた態度が猶更、気に食わなかった。己の犯した罪悪の重大さを少しも理解していない愚か者の醜さが、そのときの長谷川の総身から放射能の如く濫れ出ていた。そのことが、消え残った私の薄弱な理性に…

「夏と女とチェリーの私と」 8

「俺は仕事を変えようと思ってるんだ」 一頻り注文して、酒も幾度か注ぎ足してもらった後で、すっかり日に焼けた蛸のような色合いに目許を染め上げた長谷川は、私たちが事前に予想もしなかったことを出し抜けに言い放った。「仕事を辞めて、実家へ帰る。親爺…

「夏と女とチェリーの私と」 7

至極当然のことながら、先輩は予備校講師のアルバイトを辞めてしまった。本人は病室に幽閉されたままらしく、代わりに先輩の母親が菓子折を持って挨拶に来た。不幸な事故に巻き込まれた立場であるのに、仕事に急に穴を空けて御迷惑を掛けたからと、先輩の母…

「夏と女とチェリーの私と」 6

「足首を捻挫したって聞きました。肋骨にも罅が入ったと」「それは大して重要な問題じゃないわ」 怖々と切り出した私の言葉に向けられた先輩の突き放すような態度は、私の当惑と混乱を益々募らせた。重要な問題ではないと態々断る背景に、重要な問題は別個に…

「夏と女とチェリーの私と」 5

劇しい蝉時雨が幻聴のように街路樹を濡らし、暑苦しい目映い光の中で総てが溶け合うように息衝いていたあの夏、終戦記念日を過ぎて間も無い或る月曜日に、私は夏期講習の手伝いの為に職場へ赴いた。自転車のチェーンが油切れの所為でぎしぎしと不快な音楽を…

「夏と女とチェリーの私と」 4

眠れない夜。堪えられなくなり、訳もなく寝静まった百万遍附近の路地を歩いてみる。夏の生温い夜風が肌を洗い、私はどうにもならない胸底を何処かの工務店に頼んで舗装し直してもらおうかと馬鹿馬鹿しく考えてみるほどに憔悴していた。ボロボロに荒れ果てた…

「夏と女とチェリーの私と」 3

「勉強が嫌いな子供たちに、どうやって考えたり、学んだりする歓びを、教えてあげられるか、って、思ったりする?」 不意に投げ付けられた的外れな質問に、唇が自然と乾いて、焦りが血管を駆け巡り、耳障りな音を奏でる。優等生の清々しい香気が隅々まで染み…

「夏と女とチェリーの私と」 2

二十歳の私は、蒸し暑く物狂おしい京都の日盛りの道を、黙々と歩いていた。大学を辞めて、空っぽになった身も心も、持て余しながら、耳障りな喧噪、人々の話し声、生温く湿った熱風、熱り立つような陽射し、それら様々な事象の混淆に、打ちのめされるように…

「夏と女とチェリーの私と」 1

河原町四条の繁華な通りを、私は黙って歩いていた。夏の日のことである。 塾の講師とは言いながら、要は時給で雇われた使い走りで、何しろ二十歳になったばかりの若造である。鍋底のような、茹だる暑さに全身を苛まれて、とぼとぼと歩きながら、私は無性に闇…

「Hopeless Case」 29

一年間の仕事を卒えた歓びと解放感が、人々の心を透明に変えていた。誰もが普段より浮かれ過ぎていて、躁ぎ過ぎていて、消費されるアルコールの総量は止め処なく膨れ上がった。テーブルの上には大小様々の皿や器が濫れ返り、盃が林立し、雑炊を煮立てる土鍋…

「Hopeless Case」 28

「椿ちゃんはどんな男性がタイプなの?」 徐々に酔いの深まり始めた幸野が、仄かに舌足らずな声で尋ねた。若しも同じ質問を、年の離れた男性の社員が投げ掛けたら、直ちに淫猥なハラスメントの罪状を眉間に刻印されるだろう。それは奇妙な相対主義ではないだ…

「Hopeless Case」 27

忘年会という風習が悪しき旧弊だと嫌がられるようになってから、どれくらいの年月が経っているのか分からない。けれども辰彦の勤め先では、その旧習は今も頑固に根付いていた。御用納めの納会は、毎年社長の掛け声で潤沢な経費が認められ、経理部長の芳川の…

「Hopeless Case」 26

毎週金曜日の夫の帰りが遅いことを、梨帆は何時しか気に病むようになっていた。固より、公務員の如く十七時の鐘と共に終業するような性質の勤め先ではないが、同僚と毎晩のように酒を酌み交わすタイプでもない。娘が生まれてからは特に、夫の飲み会の頻度は…