サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2019-11-01から1ヶ月間の記事一覧

「夜行列車」 3

不用意な窃視者の視線を拒むように黒い板で覆われた自動ドアが、鈍い音を立てて緩慢に開いた。闇の中に形作られた人工的な、つまり世間の一般的な生活から隔絶された異郷が、徐に謙輔と陽子の鼻先へ不穏な姿を現した。何もかもが、注意深く日常的な生活の片…

「夜行列車」 2

一夜の仮寓までの道筋を、謙輔の手足は明晰に覚えていたから、曖昧に揺れ動く会話に気を取られながらも、眼差しは常に細かく動いて、華やかな夜の光に包まれる数多の人影を絶えず確かめていた。この厖大で尽きることを知らない殷賑の渦中で、注意深く気を張…

「夜行列車」 1

謙輔は仄かに甘い香りの立つ莨に火を点けた。橙色の眠たくなるような灯りが立ち籠める閉店間近の喫茶店は、平日の夜の、閑散とした疲労の色彩に埋もれていた。時計の針は九時を回り、喫煙席の区画にいるのは、寡黙で顔色の冴えない勤人だけだ。皺の寄った薄…

Cahier(三島由紀夫と神秘主義)

*三島由紀夫の作品を踏破する計画を中断して、最近は専らプラトンの『国家』(岩波文庫)を読んでいる。 その合間に不図、バートランド・ラッセルの『哲学入門』(ちくま学芸文庫)を捲りながら、偶然にも次のような一節を見出したとき、直ぐに脳裡を過った…

プラトン「国家」に関する覚書 15

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 他者の欲望を充足させる為の奉仕を、プラトンは「迎合」という言葉で呼んで批難する。そして政治的なポピュリズム、多数決の原理に基づいたデモクラティックな社会の懐で必然的に肥育される現象としての…

プラトン「国家」に関する覚書 14

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 「教育」に関する厖大な議論を終えた後、プラトンは「国制」と「国民」に関する精緻な考究へ移る。その成果として得られる政治的な認識は、二千年以上の時間的な隔絶にも妨げられず、現代社会の分析に転…

恋することは愛することと重ならない 3

「結婚=生殖の一体的運用」というイデオロギーを解体することは、広義の「共生」に対する人間の欲望を適切に保護する手立ての一環となるだろう。「恋愛結婚」という理念は、共生的愛情に「恋情=性的欲求」の要素を強制的に附加することで「生殖への欲求」…

恋することは愛することと重ならない 2

「恋愛の自由化」及び「恋愛と結婚の一体化」という二つの社会的な趨勢が齎す現代的な困難は、様々な指標を通じて可視化されている。未婚率の上昇、離婚件数の増加、晩婚化、少子化、核家族化といった社会的現象は、上記の二つの潮流の合理的な帰結である。 …

恋することは愛することと重ならない 1

「恋愛」と「結婚」を一体的なものと看做す価値観は、それほど歴史の長いものではない。江戸時代の日本においては、未婚の男女の間で行われる性交は「不義密通」として断罪の対象であった。言い換えれば「自由恋愛」という観念は聊かも公共の標準ではなかっ…

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 2

終戦によって齎された絶望を如何にして克服するか、それが溝口の実存における最大の課題となる。そこに顕れる奇矯な学友・柏木の論理は、溝口の思想に重要な影響を及ぼす。 俺は三ノ宮近郊の禅寺の息子で、生れついた内翻足だった。……さて俺がこんな風に告白…

プラトン「国家」に関する覚書 13

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 プラトンの縷説する「教育」の本義が、単なる外在的知識の蒐集ではなく、視線の「転向」に存することに就いては既に確認を終えた。彼はその具体的なプログラムとして、幾何学や天文学の習得を挙げる。尤…

プラトン「国家」に関する覚書 12

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 「実在」と「生成」に関するプラトンの区別は、認識の真偽という観点においては、極めて明確に「生成」の劣位を認めている。だが、そうした前提は決して「実在」の観照への逼塞を奨励するものではない。…

「純潔」の逆説 三島由紀夫「十九歳」

三島由紀夫の短篇小説「十九歳」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。 少年期に固有の精妙な心情を描くことは、三島が様々な作品において幾度も試みた主題である。「殉教」や「午後の曳航」に登場する陰湿な少年たちは、社会と大人に対する冷徹な憎悪…

プラトン「国家」に関する覚書 11

プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 プラトンは「教育」という言葉に独自の含意を埋め込んでいる。彼にとっての「教育」は、単に技術的な知識の蓄積や発展を意味するものではない。彼が重視するのは「世界観」の「書き換え」である。…

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 1

三島の代表作である「金閣寺」は、絶対的なものと相対的なものとのプラトニックな対立の構図を重要な主題に掲げている。 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということ…

絶対者を黙殺する男 三島由紀夫「商い人」

三島由紀夫の短篇小説「商い人」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。 世俗の人間の立ち入りが許されない「禁域」という設定は、「超越」と「絶対」を重んじる作者に相応しい主題である。 知識としては、左のような知識が与えられる。現在修女は百数…

近親姦と浪漫主義 三島由紀夫「水音」

三島由紀夫の短篇小説「水音」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。 煎じ詰めれば、この「水音」は「父殺し」を主題に据えた作品である。父親の謙造は、病床に臥せる娘の喜久子に対して性的な欲望を懐いており、喜久子と長兄の正一郎との兄妹愛は「恋…

遮断された「彼岸」への通路 三島由紀夫「志賀寺上人の恋」

三島由紀夫の短篇小説「志賀寺上人の恋」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。 地上の現象的世界を超越した「彼岸」の領域を想定する思惟の形式は、洋の東西を問わず、人類の文明に幅広く瀰漫している。特に宗教の領域において「彼岸」の想定は殆ど普…