サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2019-01-01から1年間の記事一覧

「古都」 12

思いもしないときに、例えば夏の夕暮れに、痩せた蝙蝠の影がオレンジ色の街燈へぶつかるように、突然に破局というものはやってくる。いや、思いもしないなんて言い方は、本当は嘘っぱちだ。少しずつ知らない間に浴室の壁に黒黴が繁殖していくように、それは…

「古都」 11

秋南は何時しか、京都での生活を忌み嫌うようになりました。私たち夫婦にとって、夏は噎せ返るほど蒸し暑く、冬は身を斬るように寒い京都の町は、それでも紛れもない故郷であり、人生の根拠地です。秋南だって、その古都の懐に抱かれて大きくなったのです。…

「古都」 10

秋南は快活で、何処か息子のような娘でした。人形で遊ぶより、母親の真似をしてオママゴトに興じるより、外光を浴びて、外気のただ中で、汗の滴を陽に燦然と燃やしながら走り回っている方が、あの娘の性には合っていたのです。小さい頃、自転車に跨って淀川…

「古都」 9

私は厳しく躾けられて育ちました。母は真宗の敬虔な信者で、子供の頃、しばしば本願寺へ連れ歩かれたのを覚えています。夏の京都の白く眩しい光の中を、私は退屈しながら歩きました。虹色の小さなサンダルが、アスファルトに灼かれて熱かった。帰り道に、昵…

「古都」 8

小さい頃の記憶は、きれぎれにある。あたしが未だ幼稚園に通っていた頃、ママはいつも言っていた。そんなお転婆なことは慎んで、と。慎むという難しい言い方も、しつこく繰り返されるうちに、あたしの小さな耳によく馴染んでいた。思えば、それが総ての始ま…

「古都」 7

伯母と言葉を交わすのは久々だった。暫く見ない間に皺が増え、白髪が増え、背丈が縮んだ。身内が逝く度に、命の深い部分を削られるのだろうか。況してや今回は、最愛の娘なのだ。啀み合う日々が続いていたにせよ、開いた傷口から濫れる血潮は並大抵の量では…

「古都」 6

勿論、好きにすればいい。秋南の人生は、秋南のものだ。人から事細かに指図を享けながら築き上げた人生に、如何なる意味があるだろう。だが、誰も自分自身の本当の欲望の正体など、理解していないのが世の常ではないだろうか。これが自分の希望だと信じ込ん…

「古都」 5

新米ながら熱心に働いて、長時間労働も厭わず、それなりに容貌の見栄えがして明るく人懐っこい気質であれば、自然と男が出来るのも不思議ではない。化粧品売場を管理するマネージャーの一人と親しくなり、幾度か食事に誘われて、酒を酌み交わすうちに言い寄…

「古都」 4

毎年の夏の休暇に、母の郷里である京都へ帰省するのは、私の幼年期から続く我が家の慣習であった。蝉時雨が一斉に間断なく行われる打ち水のように姦しく鳴り響く古びた街衢へ、幼い私は何時も華やいだ特別な気持ちで旅した。東京駅から新幹線に乗り込み、母…

「古都」 3

強力な空調の吐き出す冷えた空気が、黒い礼服の繊維の一筋毎に深く染み込んだ苛烈な暑気の残滓を払った。降り注ぐ燦爛たる陽射しに堪えかねて緩めていたネクタイを不図思い出し、入念に締め直してから歩き出す。受付で名乗り、神妙な面持ちに一縷の柔らかな…

「古都」 2

停車した名古屋駅で、私は束の間の転寝から目醒めた。豪勢な弁当を平らげてデッキの喫煙所で一服し、席に戻って持参した読みかけの小説を開いたところまでは覚えていたが、そこから先の記憶はトンネルに吸い込まれたように闇に融けて再生が出来ない。米原を…

「古都」 1

その日、午後から東京は酷い雨が降るという予報で、その分厚い雨雲と暴風の野蛮な交響曲に捕まる前に颯爽と出発したいというのが、そのときの私の希望の総てであった。駅舎の地下深くに押し込まれた、古代の墳墓のように寒々しい総武線快速のプラットフォー…

「昊の棺」 9

それから私は、潮風の吹き荒ぶ崖の上で、知らぬ間に眠りに落ちていた。眠っている間に、夢を見た。 私は住み慣れた西船橋の家で、寝る仕度を整えていた。何故か傍らには、裸体の夏月が寄り添っていた。その表情は霞んで、傷ついたディスクのように読み取れな…

「昊の棺」 8

過去は過去であり、現在とは区分されるべきである。その区分を守る為に、人間の脳には忘却という機能が生まれつき組み込まれている。だが、過去は黒い光のように、閉ざされたドアの隙間から、明るい未来の方角へ向けて射し込む。純白のドレスを掠める、不吉…

「昊の棺」 7

夏月は離婚すると言った。浮気相手の商品企画部の係長は過去に妻と死別していて、小さな男の子を抱えていた。とても優しくて寛容な人なのと彼女は落ち着いた口調で説明した。言外に含まれた、硬い棘。貴方とは違う人なの。何が違うのか、そんなことは、重要…

「昊の棺」 6

逢瀬は、その後も人目を忍びながら、翌年の春先までダラダラと続いた。私たちの関係は肉体的なものであり、享楽を目的とした儚い紐帯に過ぎなかったので、結婚を考えるとか、大袈裟な野望には話が及ばなかった。 会わなければ気が狂いそうになるといった、初…

「昊の棺」 5

軈て、私の側に異変が起きた。大病を患ったとか、精神を病み始めたとか、そういった陰惨な変事ではない。要するに私は、満たされぬ想いを晴らそうとして、他の女に手を出してしまったのである。 相手は、その春から私の勤務する印刷会社に新卒採用で入ってき…

「昊の棺」 4

結婚した後も、夏月は旅行代理店の仕事を続けていた。印刷会社に勤める私は土日祝日が公休で、シフト制勤務の夏月は不定休、休みは合う場合も合わない場合もあった。或る晴れた土曜日の朝、錦糸町の職場へ出かける夏月の背中を見送ってから、私は洗濯機を回…

「昊の棺」 3

私たちの結婚式は、海浜幕張のホテルで挙行された。 一組の男女が、相手を生涯の伴侶として認め、共に家庭を営み、やがて死んでいくプロセスは、動物的な現象でしかない。その幕開けを態々、披露宴という形で世間に知らしめるのは、その動物的な現象に、社会…

「昊の棺」 2

私の自宅は西船橋にあり、彼女が荷物を纏めて立ち去って以来、一人で暮らしている。偶に友達を招いたり、女を連れ込んだりすることもあるが、夏月の不在によって生じた真空を、男臭い酒宴や紙切れのようなセックスで埋めることに、私はいつも失敗していた。 …

「昊の棺」 1

「なんでそんな言い方しかできないの?」 夏月なつきの顔を思い浮かべるたびに、そんな科白が彼女の唇から発せられるのは、私の記憶に染み付いた宿痾だ。様々な失言の積み重ねが、敵意に満ちた彼女の口癖を、頑丈に作り上げてしまった。 世界中で自分だけが…

「月影」 16

犬吠埼から帰った後も、地面から浮き上がったような落ち着かない感覚は一向に衰えず、両親に向かって恋人を紹介したいと告げたときも、私は湧き上がる無邪気な笑顔を抑えることが出来ませんでした。夏休みが終わる前に、週末を選んで岩崎さんを昼食に招く段…

「月影」 15

九月の下旬まで続く厖大な夏休みの間、私たちは疎遠だった時期の物哀しい欠乏の記憶を埋め合わせるように、まるで夏の間だけ姦しく騒ぎ立てる油蝉のように、頻繁に二人きりの時間を重ねました。夏の選抜大会を終えて躰の空いた岩崎さんは、私を色々な場所に…

「月影」 14

駅前の如何にも古びた雑居ビルの、火災が起きたらどうやって逃げ出せばいいのか不安になるような狭苦しい空間の中に間借りしたその喫茶店は、夕暮れの賑わいに包まれて、エスプレッソマシンが騒がしいスチームの叫び声を響かせ、カップの触れ合う硬い音が幾…

「月影」 13

私を拾ってくれた奇特な私立大学は、世田谷区と杉並区の境目に、古びた住宅街に囲まれて、広大な敷地を構えていました。市川の実家から、御茶ノ水と新宿で乗り換えて、片道一時間ほどの行程です。長い春休みの間に、私はサウンドジェネレータを装着した状態…

「月影」 12

別れるのならばせめて、きちんと時間を作って互いの気持ちを伝え合い、その上で最終的な結論を出すのが、まともな「御附合」をしていると自負する男女の間で守られるべき掟だと、後から顧みれば思うのですが、その冬の私には、一般的な正しさというものに気…

「月影」 11

時折、罅割れるような不快な耳鳴りを感じるようになったのは、高校三年生の頃でした。鼓膜の表面を何かが引っ掻くような物音が聞こえることもあれば、遠くから等間隔で放たれる不可解な信号のように、同じ響きが断続的に聞こえてくることもありました。前触…

「月影」 10

恋するということは、素敵なものだと、中学三年の夏の私は学びました。普段は暖簾を潜ることのない街角の中華料理屋に岩崎さんと二人きりで入って、一緒に熱い拉麺を啜り、その帰り道、遅くなり過ぎた言い訳を頭の片隅で彼是と組み立てていたら、不意に手を…

「月影」 9

誰もいない静謐なバス停を、私は黙って見凝めていました。夏至を一月も過ぎた夕暮れの空は、既に橙色を通り越して紫と群青の斑になっていました。腹痛は少し和らぎましたが、鉛のように重たい感じが消えません。一時間もここで、孤りで時間を潰さなければい…

「月影」 8

中学三年の夏休みに、私は生まれて初めて、恋人と呼べる存在を手に入れました。 手に入れたなんて言い方は何だか、あざとい策士のような表現ですね。寧ろ私が見事に魂を射止められてしまったと言うべきでしょうか。相手は一歳年上の弓道部の先輩で、県大会の…