サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2019-01-01から1年間の記事一覧

「月影」 7

小さい頃の記憶は、誰でもそうだと思うのですが、曖昧に霞んでいます。私だけが、特に記憶力が弱いという訳ではないと思うのです。両親が口癖のように、例えば誕生日や元旦や、そういう生活と季節の節目のときに必ず言い出す、私の幼い頃の夢遊病のことも、…

「月影」 6

中学校に上がると、燈里は二つの新たな趣味に熱中し始めた。一つは弓道で、もう一つは天文学部の活動だった。どちらも学校の部活動で、彼女は文武両道の鑑になろうと志しているかのように精力的だった。弓道に関心を覚えた直接の理由は、母親の影響だった。…

「月影」 5

幼い頃に買い与えた立派な造本の図鑑たちの教育的効果は、小学校の高学年に差し掛かっても猶、明確な影響を燈里に及ぼし続けていた。絶対に手の届かない蒼穹の高み、そこに夜の漆黒の塗料が撒かれると、俄かに輝き出す星々の隠微な姿態を、その壮麗な秩序を…

「月影」 4

失われてしまった娘の半生の儚い痕跡を辿ろうとする痛ましい作業が、或る精神的な麻酔のような効果を、私の心に深々と及ぼしているのだろうかという疑念が兆している。そういう手前勝手な感傷を成る可く振り払い、一つ一つの文字を丁寧に洗浄しながら書いて…

「月影」 3

小学校に上がる少し前から時折、燈里は夢遊病者のような振舞いを示すようになった。居間の隣の、家族三人の寝室に充てていた和室の襖越しに夜半、唐突に不自然な物音が漏れてくる。何事かと思って身を硬くすると、瞼の開いていない燈里が寝乱れた黒髪を複雑…

「月影」 2

大切なものの有難味を、人は失ってから初めて悟ると、世間は口を酸っぱくして哀しげに、憂鬱な表情で何度も言い募る。手垢に塗れた言葉だが、実際、それは揺るぎない真理だろう。燈里が普通の少女として、親である私の手許で成長し、掛け替えのない日々の暮…

「月影」 1

人から、どういう娘さんでしたかと訊かれる度に、私の唇は堪え難い重圧のために素気なく閉ざされてしまう。そうした生理的現象に抗おうと試みても、鋼鉄の城門のように、或いは濠を渡る頑丈な跳ね橋が敵襲を察して遽しく引き揚げられるように、私の唇は半ば…

「夜行列車」 9

裏返された砂時計が急速に重力へ敗れていくように、二人に残された今夜の時間は着実な減少の曲線を描き続けていた。結論を出す為には圧倒的に時間が足りない。呑気にシャワーを浴びて一日の穢れを洗い流している場合じゃなかったなと、謙輔は内心で苦笑いし…

「夜行列車」 8

もう取り返しのつかない致命的な傷痍が、二人の絆の上に墜落したと謙輔は思った。それは今までの関係の裡に予め植え付けられた夥しい伏線の結実した姿だった。そうだ、最初の瞬間から何もかも分かり切っていたことじゃないか。謙輔は己の愚かさが齎す心理的…

「夜行列車」 7

一時間ほどで、否が応でも目醒めるしかない短い夢の定期的な反復。それが二人の平凡な生活に里程標の役目を担って突き刺さっていた。けれども、幾ら短い夢想を数珠の如く繋ぎ合わせてみても、辿り着ける場所には限界がある。二人が進める領域は厳格な制約を…

「夜行列車」 6

柔らかな湯気が、空調で乾燥した室内に時ならぬ潤いを広々と顫えるように延ばした。タオルの擦れる微かな響きが連なって、謙輔の鼓膜の表面を薄らと撫で回した。固より、こういう筋書きは事前に予定され、殊更に言葉を用いて互いに確かめ合わずとも共有され…

「夜行列車」 5

時計の針は刻々と夜の濃密な流れを、見えない画布の上に記し続けていた。絶えず気を配って時刻の推移を確かめていなければ、謙輔は致命的な失錯を犯す危険があった。現実の手荒な拘束が齎す息苦しい痛みを忘れて、夢想と愉楽の深みへ溺れ、窒息してしまうの…

「夜行列車」 4

深閑と静まり返った無機質な室内に、ただ只管に空調の低く懶い歌声が、潜められた誰かの不穏な囁き声のように漂い、泡立つように充ちていた。後ろ手に扉の内鍵を締めて、まるで危険な追跡者から逃れるように、謙輔は二人きりの虚空に似た密室を外側の広大な…

「夜行列車」 3

不用意な窃視者の視線を拒むように黒い板で覆われた自動ドアが、鈍い音を立てて緩慢に開いた。闇の中に形作られた人工的な、つまり世間の一般的な生活から隔絶された異郷が、徐に謙輔と陽子の鼻先へ不穏な姿を現した。何もかもが、注意深く日常的な生活の片…

「夜行列車」 2

一夜の仮寓までの道筋を、謙輔の手足は明晰に覚えていたから、曖昧に揺れ動く会話に気を取られながらも、眼差しは常に細かく動いて、華やかな夜の光に包まれる数多の人影を絶えず確かめていた。この厖大で尽きることを知らない殷賑の渦中で、注意深く気を張…

「夜行列車」 1

謙輔は仄かに甘い香りの立つ莨に火を点けた。橙色の眠たくなるような灯りが立ち籠める閉店間近の喫茶店は、平日の夜の、閑散とした疲労の色彩に埋もれていた。時計の針は九時を回り、喫煙席の区画にいるのは、寡黙で顔色の冴えない勤人だけだ。皺の寄った薄…

Cahier(三島由紀夫と神秘主義)

*三島由紀夫の作品を踏破する計画を中断して、最近は専らプラトンの『国家』(岩波文庫)を読んでいる。 その合間に不図、バートランド・ラッセルの『哲学入門』(ちくま学芸文庫)を捲りながら、偶然にも次のような一節を見出したとき、直ぐに脳裡を過った…

プラトン「国家」に関する覚書 15

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 他者の欲望を充足させる為の奉仕を、プラトンは「迎合」という言葉で呼んで批難する。そして政治的なポピュリズム、多数決の原理に基づいたデモクラティックな社会の懐で必然的に肥育される現象としての…

プラトン「国家」に関する覚書 14

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 「教育」に関する厖大な議論を終えた後、プラトンは「国制」と「国民」に関する精緻な考究へ移る。その成果として得られる政治的な認識は、二千年以上の時間的な隔絶にも妨げられず、現代社会の分析に転…

恋することは愛することと重ならない 3

「結婚=生殖の一体的運用」というイデオロギーを解体することは、広義の「共生」に対する人間の欲望を適切に保護する手立ての一環となるだろう。「恋愛結婚」という理念は、共生的愛情に「恋情=性的欲求」の要素を強制的に附加することで「生殖への欲求」…

恋することは愛することと重ならない 2

「恋愛の自由化」及び「恋愛と結婚の一体化」という二つの社会的な趨勢が齎す現代的な困難は、様々な指標を通じて可視化されている。未婚率の上昇、離婚件数の増加、晩婚化、少子化、核家族化といった社会的現象は、上記の二つの潮流の合理的な帰結である。 …

恋することは愛することと重ならない 1

「恋愛」と「結婚」を一体的なものと看做す価値観は、それほど歴史の長いものではない。江戸時代の日本においては、未婚の男女の間で行われる性交は「不義密通」として断罪の対象であった。言い換えれば「自由恋愛」という観念は聊かも公共の標準ではなかっ…

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 2

終戦によって齎された絶望を如何にして克服するか、それが溝口の実存における最大の課題となる。そこに顕れる奇矯な学友・柏木の論理は、溝口の思想に重要な影響を及ぼす。 俺は三ノ宮近郊の禅寺の息子で、生れついた内翻足だった。……さて俺がこんな風に告白…

プラトン「国家」に関する覚書 13

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 プラトンの縷説する「教育」の本義が、単なる外在的知識の蒐集ではなく、視線の「転向」に存することに就いては既に確認を終えた。彼はその具体的なプログラムとして、幾何学や天文学の習得を挙げる。尤…

プラトン「国家」に関する覚書 12

プラトンの対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 「実在」と「生成」に関するプラトンの区別は、認識の真偽という観点においては、極めて明確に「生成」の劣位を認めている。だが、そうした前提は決して「実在」の観照への逼塞を奨励するものではない。…

「純潔」の逆説 三島由紀夫「十九歳」

三島由紀夫の短篇小説「十九歳」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。 少年期に固有の精妙な心情を描くことは、三島が様々な作品において幾度も試みた主題である。「殉教」や「午後の曳航」に登場する陰湿な少年たちは、社会と大人に対する冷徹な憎悪…

プラトン「国家」に関する覚書 11

プラトンの長大な対話篇『国家』(岩波文庫)に就いて書く。 プラトンは「教育」という言葉に独自の含意を埋め込んでいる。彼にとっての「教育」は、単に技術的な知識の蓄積や発展を意味するものではない。彼が重視するのは「世界観」の「書き換え」である。…

「実相」と「仮象」の審美的融合 三島由紀夫「金閣寺」 1

三島の代表作である「金閣寺」は、絶対的なものと相対的なものとのプラトニックな対立の構図を重要な主題に掲げている。 私は金閣がその美をいつわって、何か別のものに化けているのではないかと思った。美が自分を護るために、人の目をたぶらかすということ…

絶対者を黙殺する男 三島由紀夫「商い人」

三島由紀夫の短篇小説「商い人」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。 世俗の人間の立ち入りが許されない「禁域」という設定は、「超越」と「絶対」を重んじる作者に相応しい主題である。 知識としては、左のような知識が与えられる。現在修女は百数…

近親姦と浪漫主義 三島由紀夫「水音」

三島由紀夫の短篇小説「水音」(『岬にての物語』新潮文庫)に就いて書く。 煎じ詰めれば、この「水音」は「父殺し」を主題に据えた作品である。父親の謙造は、病床に臥せる娘の喜久子に対して性的な欲望を懐いており、喜久子と長兄の正一郎との兄妹愛は「恋…