サラダ坊主日記

「この味がいいね」と君が言ったのはお世辞だったねサラダ記念日

2019-11-22から1日間の記事一覧

「昊の棺」 4

結婚した後も、夏月は旅行代理店の仕事を続けていた。印刷会社に勤める私は土日祝日が公休で、シフト制勤務の夏月は不定休、休みは合う場合も合わない場合もあった。或る晴れた土曜日の朝、錦糸町の職場へ出かける夏月の背中を見送ってから、私は洗濯機を回…

「昊の棺」 3

私たちの結婚式は、海浜幕張のホテルで挙行された。 一組の男女が、相手を生涯の伴侶として認め、共に家庭を営み、やがて死んでいくプロセスは、動物的な現象でしかない。その幕開けを態々、披露宴という形で世間に知らしめるのは、その動物的な現象に、社会…

「昊の棺」 2

私の自宅は西船橋にあり、彼女が荷物を纏めて立ち去って以来、一人で暮らしている。偶に友達を招いたり、女を連れ込んだりすることもあるが、夏月の不在によって生じた真空を、男臭い酒宴や紙切れのようなセックスで埋めることに、私はいつも失敗していた。 …

「昊の棺」 1

「なんでそんな言い方しかできないの?」 夏月なつきの顔を思い浮かべるたびに、そんな科白が彼女の唇から発せられるのは、私の記憶に染み付いた宿痾だ。様々な失言の積み重ねが、敵意に満ちた彼女の口癖を、頑丈に作り上げてしまった。 世界中で自分だけが…

「月影」 16

犬吠埼から帰った後も、地面から浮き上がったような落ち着かない感覚は一向に衰えず、両親に向かって恋人を紹介したいと告げたときも、私は湧き上がる無邪気な笑顔を抑えることが出来ませんでした。夏休みが終わる前に、週末を選んで岩崎さんを昼食に招く段…

「月影」 15

九月の下旬まで続く厖大な夏休みの間、私たちは疎遠だった時期の物哀しい欠乏の記憶を埋め合わせるように、まるで夏の間だけ姦しく騒ぎ立てる油蝉のように、頻繁に二人きりの時間を重ねました。夏の選抜大会を終えて躰の空いた岩崎さんは、私を色々な場所に…

「月影」 14

駅前の如何にも古びた雑居ビルの、火災が起きたらどうやって逃げ出せばいいのか不安になるような狭苦しい空間の中に間借りしたその喫茶店は、夕暮れの賑わいに包まれて、エスプレッソマシンが騒がしいスチームの叫び声を響かせ、カップの触れ合う硬い音が幾…

「月影」 13

私を拾ってくれた奇特な私立大学は、世田谷区と杉並区の境目に、古びた住宅街に囲まれて、広大な敷地を構えていました。市川の実家から、御茶ノ水と新宿で乗り換えて、片道一時間ほどの行程です。長い春休みの間に、私はサウンドジェネレータを装着した状態…

「月影」 12

別れるのならばせめて、きちんと時間を作って互いの気持ちを伝え合い、その上で最終的な結論を出すのが、まともな「御附合」をしていると自負する男女の間で守られるべき掟だと、後から顧みれば思うのですが、その冬の私には、一般的な正しさというものに気…

「月影」 11

時折、罅割れるような不快な耳鳴りを感じるようになったのは、高校三年生の頃でした。鼓膜の表面を何かが引っ掻くような物音が聞こえることもあれば、遠くから等間隔で放たれる不可解な信号のように、同じ響きが断続的に聞こえてくることもありました。前触…

「月影」 10

恋するということは、素敵なものだと、中学三年の夏の私は学びました。普段は暖簾を潜ることのない街角の中華料理屋に岩崎さんと二人きりで入って、一緒に熱い拉麺を啜り、その帰り道、遅くなり過ぎた言い訳を頭の片隅で彼是と組み立てていたら、不意に手を…

「月影」 9

誰もいない静謐なバス停を、私は黙って見凝めていました。夏至を一月も過ぎた夕暮れの空は、既に橙色を通り越して紫と群青の斑になっていました。腹痛は少し和らぎましたが、鉛のように重たい感じが消えません。一時間もここで、孤りで時間を潰さなければい…

「月影」 8

中学三年の夏休みに、私は生まれて初めて、恋人と呼べる存在を手に入れました。 手に入れたなんて言い方は何だか、あざとい策士のような表現ですね。寧ろ私が見事に魂を射止められてしまったと言うべきでしょうか。相手は一歳年上の弓道部の先輩で、県大会の…

「月影」 7

小さい頃の記憶は、誰でもそうだと思うのですが、曖昧に霞んでいます。私だけが、特に記憶力が弱いという訳ではないと思うのです。両親が口癖のように、例えば誕生日や元旦や、そういう生活と季節の節目のときに必ず言い出す、私の幼い頃の夢遊病のことも、…

「月影」 6

中学校に上がると、燈里は二つの新たな趣味に熱中し始めた。一つは弓道で、もう一つは天文学部の活動だった。どちらも学校の部活動で、彼女は文武両道の鑑になろうと志しているかのように精力的だった。弓道に関心を覚えた直接の理由は、母親の影響だった。…

「月影」 5

幼い頃に買い与えた立派な造本の図鑑たちの教育的効果は、小学校の高学年に差し掛かっても猶、明確な影響を燈里に及ぼし続けていた。絶対に手の届かない蒼穹の高み、そこに夜の漆黒の塗料が撒かれると、俄かに輝き出す星々の隠微な姿態を、その壮麗な秩序を…

「月影」 4

失われてしまった娘の半生の儚い痕跡を辿ろうとする痛ましい作業が、或る精神的な麻酔のような効果を、私の心に深々と及ぼしているのだろうかという疑念が兆している。そういう手前勝手な感傷を成る可く振り払い、一つ一つの文字を丁寧に洗浄しながら書いて…

「月影」 3

小学校に上がる少し前から時折、燈里は夢遊病者のような振舞いを示すようになった。居間の隣の、家族三人の寝室に充てていた和室の襖越しに夜半、唐突に不自然な物音が漏れてくる。何事かと思って身を硬くすると、瞼の開いていない燈里が寝乱れた黒髪を複雑…

「月影」 2

大切なものの有難味を、人は失ってから初めて悟ると、世間は口を酸っぱくして哀しげに、憂鬱な表情で何度も言い募る。手垢に塗れた言葉だが、実際、それは揺るぎない真理だろう。燈里が普通の少女として、親である私の手許で成長し、掛け替えのない日々の暮…

「月影」 1

人から、どういう娘さんでしたかと訊かれる度に、私の唇は堪え難い重圧のために素気なく閉ざされてしまう。そうした生理的現象に抗おうと試みても、鋼鉄の城門のように、或いは濠を渡る頑丈な跳ね橋が敵襲を察して遽しく引き揚げられるように、私の唇は半ば…

「夜行列車」 9

裏返された砂時計が急速に重力へ敗れていくように、二人に残された今夜の時間は着実な減少の曲線を描き続けていた。結論を出す為には圧倒的に時間が足りない。呑気にシャワーを浴びて一日の穢れを洗い流している場合じゃなかったなと、謙輔は内心で苦笑いし…

「夜行列車」 8

もう取り返しのつかない致命的な傷痍が、二人の絆の上に墜落したと謙輔は思った。それは今までの関係の裡に予め植え付けられた夥しい伏線の結実した姿だった。そうだ、最初の瞬間から何もかも分かり切っていたことじゃないか。謙輔は己の愚かさが齎す心理的…

「夜行列車」 7

一時間ほどで、否が応でも目醒めるしかない短い夢の定期的な反復。それが二人の平凡な生活に里程標の役目を担って突き刺さっていた。けれども、幾ら短い夢想を数珠の如く繋ぎ合わせてみても、辿り着ける場所には限界がある。二人が進める領域は厳格な制約を…

「夜行列車」 6

柔らかな湯気が、空調で乾燥した室内に時ならぬ潤いを広々と顫えるように延ばした。タオルの擦れる微かな響きが連なって、謙輔の鼓膜の表面を薄らと撫で回した。固より、こういう筋書きは事前に予定され、殊更に言葉を用いて互いに確かめ合わずとも共有され…

「夜行列車」 5

時計の針は刻々と夜の濃密な流れを、見えない画布の上に記し続けていた。絶えず気を配って時刻の推移を確かめていなければ、謙輔は致命的な失錯を犯す危険があった。現実の手荒な拘束が齎す息苦しい痛みを忘れて、夢想と愉楽の深みへ溺れ、窒息してしまうの…

「夜行列車」 4

深閑と静まり返った無機質な室内に、ただ只管に空調の低く懶い歌声が、潜められた誰かの不穏な囁き声のように漂い、泡立つように充ちていた。後ろ手に扉の内鍵を締めて、まるで危険な追跡者から逃れるように、謙輔は二人きりの虚空に似た密室を外側の広大な…

「夜行列車」 3

不用意な窃視者の視線を拒むように黒い板で覆われた自動ドアが、鈍い音を立てて緩慢に開いた。闇の中に形作られた人工的な、つまり世間の一般的な生活から隔絶された異郷が、徐に謙輔と陽子の鼻先へ不穏な姿を現した。何もかもが、注意深く日常的な生活の片…

「夜行列車」 2

一夜の仮寓までの道筋を、謙輔の手足は明晰に覚えていたから、曖昧に揺れ動く会話に気を取られながらも、眼差しは常に細かく動いて、華やかな夜の光に包まれる数多の人影を絶えず確かめていた。この厖大で尽きることを知らない殷賑の渦中で、注意深く気を張…

「夜行列車」 1

謙輔は仄かに甘い香りの立つ莨に火を点けた。橙色の眠たくなるような灯りが立ち籠める閉店間近の喫茶店は、平日の夜の、閑散とした疲労の色彩に埋もれていた。時計の針は九時を回り、喫煙席の区画にいるのは、寡黙で顔色の冴えない勤人だけだ。皺の寄った薄…

Cahier(三島由紀夫と神秘主義)

*三島由紀夫の作品を踏破する計画を中断して、最近は専らプラトンの『国家』(岩波文庫)を読んでいる。 その合間に不図、バートランド・ラッセルの『哲学入門』(ちくま学芸文庫)を捲りながら、偶然にも次のような一節を見出したとき、直ぐに脳裡を過った…